湖の龍

@prtn

1話完結

水面が蠢動を始めた。濁った水が糖蜜のようにうねりをあげて湖を広げる。龍は水面から顔をのぞかせてこちらを一瞥した。宝玉のような双眼が僕をとらえて離さない。頭から生えた2本のツノは渦を巻いて天に伸びている。白くとがった牙をむいたと思ったら、微笑するように口をとじて龍はまた潜水を開始した。背の青いひれが水の抵抗を受けてよじれるようにたたまれていく。隙間なく並んだ鱗の1枚1枚は陽光を反射して白銀に煌いた。龍は緩慢に深く潜り、勢いよく浮上する。それを何度も繰り返し、湖を縦横無尽に泳ぎ回っていた。

僕は思わずベランダに身を乗り出した。振り返ってママを呼ぼうとしたけれど、心臓がどきどきして声が出ない。頬の内側が全部歯にくっついてしまうほどからからに乾いてしまって、唾を飲み込むことさえ難しかった。

龍の胴体は波打つようにうねって湖の泥をかき混ぜる。背のひれは青く曲線を描き続け、時折見せる腹は白くふっくらとしていた。

水面に触れる龍の胴は次第に先細っていき、やがてクジャクの羽をいっぱいに広げたような尾が姿をあらわした。それは魚の尾ひれのようなものと違って、水を弾く猛禽類の翼のような力強さを宿していた。鮮やかな青を貴調とした扇状の尾が湖上に現れ、空気をあおり、ゆっくりと水中に沈んでいく。龍の尾が起こした風は僕の前髪をさらって額をなでた。たちまち家を取り囲む森林がさざなみを起こすように緑に輝きわたる。

龍の尾ひれが水中をあおぐと湖底の泥が激しく巻き上げられた。陽光の中を舞うほこりのように砂泥の粒が水中を舞っていく。その濁りの奥へと龍は姿を消していった。鱗の1枚も残さずに。水面はゆるやかに蠢動をやめ、龍が湖の奥深くに潜っていくに従って、拡大した湖は元の姿に縮小していった。

「何をしているの?」

ママがベランダに出てきて、僕が裸足でいることに呆れた顔をした。お外に出る時はきちんと靴をはきましょうね、なんて言う。

ママ。そんなことを言ってる場合じゃないんだ。龍だよ!この湖、龍が棲んでる!

思っても喉が震えて言葉にならず、僕は必死に湖を指差した。ママは怪訝な顔をして湖の方を見たけれど、もうそこに龍の姿はない。静かに張られた水がただ西日を白く反射しているだけだ。

「ここの水、いつ見ても汚いのよね。雨が降っているならまだしも、晴れている時にすら透き通ってるところなんか見たことがないんだから」

ひとりごちてママは残念そうに湖を眺めた。

大人はただ、この湖の水質が悪いのだと思ってる。でもそれは違う。この湖には龍が棲んでいるんだ。龍が泳ぐと湖の底にたまった泥が巻き上げられて水が濁る。ここの水が透明になるのは龍が死んだ時だ。だからずっと濁っていた方がいい。

「湖の方から吹く風も多くて冷えるし、なんだか嫌なところに引っ越してきちゃったわね」

ママは上着の襟を首元に寄せて肩をすくめ、いまわしげに湖を見た。

湖からの風が多いのは龍の尾が扇子型をしているからで、それはクジャクの羽を1000本も束ねたみたいに鮮やかだった。湖から吹く風は、あの夢のように美しい尾ひれが織りなすものだったのだ。

額に浴びた風の冷たい感触を思い出して僕は幸福のあまりにほほえんだ。また会えるかな。龍はもう一度、僕に風をおくってくれるだろうか。

ママはため息をついて部屋に戻ったけれど、僕は泥を巻き上げて回遊する龍のシルエットを、いつまでも目を凝らして探し続けた。

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