宇宙よりの使者

@bokura150

奇怪な夜にうごめく影

 中国の隅に位置する小さな街の、そのまた小さな市場で突如として発生した病原体は、多くの人間を媒介にして全世界的に波及した。その影響はすさまじいものであり、あらゆる移動手段を停止させ、国家間の人の移動を制限させ、景気を停滞させ、失業率を上昇させた。


 我々は外出時常にマスクを着用することを国家から強制され、不要不急の際以外は自宅で生命活動を維持するよう命令された。飲食店は夜間の営業を制限され、にぎやかな街は閑散とし、駅のプラットフォームでたたずむ人間の影は確実に減少していた。


 呼吸器系の障害、終わらない微熱、脳機能の衰弱による味覚障害…。未知のウイルスが人類を蝕み、容赦なく侵していく様を眺めながら、我々は戦々恐々として一日一日をすり減らすように生きている。


 かくいう私も、そうした時代の大きな荒波にもまれながら、孤独の生活に一縷の希望を宿す人間の一人である。コロナウイルスと名のつく怪物が日本随一の都に触手を伸ばし始めた昨年の春、トイレットペーパーも買えない混沌とした時期に上京し、右も左も東も西もわからぬまま、ただがむしゃらに小さなアパートの一室、半径5メートルをうごめきながら過ごしていた。


 何度絶望の淵に苛まれ、自暴自棄になり、自己否定の泥沼に足をもたつかせたかわからないが、なんとか一秒一秒、一瞬一瞬を刻むように生きてこれたのは、ひとえに家族、恋人、会社の人々の支えあってのことだろう。人間は一人では何もできないとこれほど痛感した日々はない。他者と関係を持つことが、助けになり、救いになり、暗闇に光も灯す道しるべになると涙ながらに感じている。離れているからこそ、通じ合え、わかりあえ、心の底から語り合えるつながりがあると私は信じている。


 しかしそれでも私は寂しかった。だれとも話すことのない休日の夜は恐ろしい倦怠感に襲われ、動くこともできず、蚊取り線香のように丸くなって布団を抱きしめていた。自らの妄念と戦い、時に勝ち、時に負けを繰り返しながら、夢かうつつかを悟るべき術も知らず、ただただ意味もなく苦しんでいた。それは常に自己との決闘の歴史であり、私自身との対話の変遷であり、なにより私という存在の証明であった。止めどもない同調と反駁、自己肯定と自己否定の渦に巻き込まれながら、私はそうした地獄を心のどこかで楽しんでいたのかもしれない。あるいは、楽しめないとやってられないのかもしれなかった。


 どんなに暗く一寸先もわからない闇の中にいても、人間というものはみな、何かしらの快楽を握りしめているものである。やはり私にも、一瞬の甘い経験、ささやかな愉しみがあった。現実がフワフワと宙に浮かび、この世のものとは思えない浮遊感を味わいながら、私は深夜1時にコンビニエンスストアへと歩くのが趣味であった。そこへ至る道中、ぼんやりとした街灯に照らされた夜の公園で怪しげにゆらめく影。それこそが私の快楽の根源であった。

 

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