山の音を聴く

赤木冥

その音は。


 その日、教室に入ってきた先生は、少し青ざめた顔をしていた。

少し肌寒い日のこと。

別に、わたしは先生の顔色を始終伺うような生徒ではなかったけれど、あの日の先生は、入ってきた瞬間の雰囲気からして、いつもとは違っていた。

あの頃、先生は大学院を出て、わたしたちの『先生』になって数年しか経っていなかったと思う。

わたしは先生が好きだった。

先生の佇まいや纏う雰囲気の清廉さ、それに文学への情熱を感じる授業が好きだった。

先生は真っ黒い艶やかな髪を首筋で切りそろえていて、日本人形みたいな凛とした人で、普段から若い先生にありがちなふわふわとした感じはどこにもなかったのだけれど、その日の先生はまるで研ぎ澄まされた日本刀のようで、誰も言葉を発することができなかった。

 色白の肌はむしろ血の色をなくし、双眸は底のない淵の様に暗く沈んでいた。

よろめく様にして教壇に上がり、引っ張り出した木の椅子に座り込んだ先生は、がっくりと項垂れたまま、低い声で云った。


「今日、日本の純文学は死にました。私は今日はとても授業をできそうにありません」


…と。

 ざわめくかと思った教室は、水を打ったようにしんと静まり返ったままだった。

わたしは、これほどに美しい日本語を聞いたことがなかった。





 長い石段が緩やかにカーブする辺りの生い茂った緑の中、金属製の門がいかめしやかに立ちはだかる。その奥へと繋がる先ほどより更に不規則な段差の階段をもう百段ほど登れば、石造りの古い校舎が姿を現す。

大正時代、関東大震災直後に建て替えられた煉瓦造りの建物は、その当時の趣がそこかしこに残る。正門の側には車寄せが設られていて、馬を繋ぐための丸い金具が残されている。同じ車寄せでも、現代のホテルでは乗用車を乗りつけるために、直線的な車寄せになっているが、この校舎の車寄せはRのある弧を描いている。現代の実用性とはかけ離れた、大正時代の建築美だ。

創立百年余、という横浜でもっとも古くからある女子校。お嬢様学校、と揶揄されることもあるけれど、その実、県内屈指の進学校で、リベラルな校風は生徒たちの自主自立を自然と促してくれる。よく言えば自由。悪く言えば放任主義、な校風がベニヲは好きだった。

高校二年生と三年生の教室は三階にあって、一際見晴らしがいい。晴れた日には富士山がうっすらと見えることもある。けれど、冬の初めの空には灰色の雲が垂れ込めていて、今にも雪が舞い始めそうだ。ベニヲは長い石段を登ってきた所為でしっとりと汗ばんだ短い髪をかきあげると重いコートを脱ぎ、ロッカーにしまった。ロッカー、と云っても、作り付けのそれは木製で、そろそろ立て付けも怪しくなって来ている。なかなか閉まらない扉をぐい、と押し込むと、扉は嫌な音で軋んだ。

まだ誰もいない教室。

コートを脱ぐとしんとした寒さが這い上がってきて、窓際のスチームのバルブを捻る。

この校舎は暖房器具も教室の机も椅子も、窓も黒板もトイレのドアも何もかもが大正時代の面影を宿している。

机と椅子は全て床にネジで止められた跳ね上げ式で、インク壺を置くための五センチほどの浅い窪みがある。床はところどころ床板が凸凹としている古い木造で、古すぎて掃除なんてしてもしなくてもわからないんじゃないか、というのが友人のアミの言い分だ。確かに、掃除当番の時、どれだけ掃こうが拭こうが、埃がどこからともなく出てくるところを見ると、あながち間違ってもいないように思う。

上下にスライドして開く窓は劣化していて、この前、同じ部活のマフユが開けたときには窓枠ごと落下した。幸い、マフユはすぐに手を離したから、窓枠ごと落ちずには済んだし、下は校舎の裏側で人通りがなかったから、怪我人は誰も出ずに済んだ。

人工池のある中庭には季節ごとに様々な花が彩りを添え、そこを抜ければ、正面玄関が見えてくる。正面玄関を入ったところには大きな姿見がかけられていて、その前には生徒たちが『兵隊さんの足跡』と呼ぶ、誰かの靴跡がくっきりと残っていて、それを踏むと呪われるとか、神隠しにあうとか、そんな噂が付随している。今のところ、先輩後輩同級生を見回してみても、呪われた人はいないようだけれど。

一階には礼拝堂があって、子羊を抱きかかえたキリストのステンドグラスが飾られている。ヨハネによる福音書、第十章十一節の『良い羊飼い』をモチーフにした、と言われているけれど、それがどんな文章だったか、さっぱり思い出せない。慥か、入学式の時に浅黒くて脂っぽい、濃い顔立ちをした校長が云っていた気がするのだけれど。

毎朝、この礼拝堂に生徒と教員全員が集って、礼拝を行うのがこの学校のしきたりだ。

入場と退場、それに合間に歌われる讃美歌の伴奏は、回り持ちで生徒たちが行っていて、ベニヲは本日の当番に当たっていた。

 最近、ピアノを触る時間もすっかり減ってしまったから、殆ど指も動かなくなっているんだろうなぁ、とベニヲはひとりごちる。

手袋を忘れてきた所為で、指先はまだ氷のように冷たい。戯れに、少し火照った頬を自分の両手で挟み込むと、顔から指先へと熱が浸透していくのがわかる。

十二月に入ると、この学校はにわかに浮き足立ち始める。まぁ、世の中のキリスト教系の学校ならば皆そうなのだろうけれど、クリスマス、というキリスト教最大のイベントが待ち構えているからだ。御多分に洩れず、ベニヲの在学するこの学校でも、クリスマスにはこの礼拝堂でクリスマス礼拝が行われる。

中庭の三メートルほど高さのある少しばかり貧相なもみの木は赤と白と緑のキラキラとした大小のボールで飾り付けられ、下足室の隣にある生徒ホールにはアドベントカレンダーではないけれど、日めくりカレンダーが設置される。ただでさえ、師走のどこかソワソワとしたムードと相まって、なんだか落ち着かない気持ちになる。

それは、ベニヲがクリスチャンではなく、この学校がいわゆるミッション系ゆえに、ただなんとなくその加速度的に密度の高くなる『クリスマスムード』に浸っているからなのかもしれない。真にクリスチャンならば、むしろ厳格な気持ちになるのではないだろうか。

それでも、入学してから五回目になるクリスマス礼拝をなんとなく心待ちにしてしまうのは、あの厳かでありながら美しい、特別な時間を知っているからだろう。クリスチャンの先生や生徒にとっては、勿論、かけがえのない信仰のひとときなのだろうけれど、非クリスチャンのベニヲにとっても、全校生徒で合唱する『hallelujah』や『the Lords prayer』の美しさ、キャンドルサービスの荘厳さは、心にくっきりと刻まれている。

 鞄から引っ張り出した古い楽譜を胸に抱えると、聖書と讃美歌を持ち、教員室へと向かう。三階から下の階へと続く吹き抜けの階段に足音がやけに響く。階段だけは強度の関係からか全て石造りになっているから、尚更だ。ここで歌ったら、それなりのエコーがかかってさぞかし気持ちがいいに違いない。

年に数回しか回ってこない伴奏当番だけれど、こんなに早く学校に来たのは初めてだ。朝の白っぽい光が踊り場の大きな窓から射し込んでいる。今日から試験一週間前だから、あらゆる部活動も停止されていて、普段なら聞こえる運動部の朝練の声も聞こえない。

心持ち早足に廊下を急ぐと、教員室の斜め向かい、週番室の前に見知った姿を見つけた。

週番は、受験を控えた高校三年生が周りもちでやっている。朝は早めに来て、例えばクリスマスまでの日めくりカレンダーをめくったり、礼拝堂の準備をしたり、廊下の花の水をかえたりして、夕には、生徒全員が帰宅したか校内を見回る……という、云ってみれば雑務をする当番だ。けれど、この週番制度、下級生の立場からすれば、中高一貫校の最上級生が、校内の治安のために朝と夕にひっそりと力添えしてくださっている、という解釈になるようだ。ベニヲに言わせれば、馬鹿馬鹿しい、の一言だけれど。

「おはよ。オーク」

抱えていた楽譜で、トン、と肩を叩くと、振り返った少女は「うわあああぁ」と大声を上げた。

「び、びっくりした。ベニちゃん。お、おはよう」

「あんた、なにやってんの?」

一学年上の先輩に対するには些かぞんざいな口調で話しかけたベニヲは『オーク』と呼んだ少女の手元を覗き込んだ。

「か、鍵が……あ、開かなくて」

「ふぅん」

古い校舎はあちこちで建て付けも悪く、磨耗した鍵はしばしば鍵穴にうまくはまらず、ドアノブも空回りする。

「貸してみ」

手にしていた楽譜と聖書、讃美歌の3点セットを先輩の手に押し付け、鍵を奪うと、古い真鍮の鍵を鍵穴に差し込んでみる。

案の定、鍵を回しても、錠が外れる気配はなく、手応えでは空回りしているようだった。

「この鍵、ダメなんじゃない?教員室、一緒に行く?」

鍵を引き抜いて、試しにガシャガシャとドアノブを回してみたものの、開く気配のない週番室のドアに肩を竦め、先輩の顔を伺うと、コクコクと頷き返す。

頷くたびに長い黒髪がふわりと舞う。

「べ、ベニちゃんは、こんな早くになにやってるの?」

吃音のある先輩は、ベニヲを見上げると恐る恐るといった風に尋ねた。

「あたしは伴奏当番」

さらりと返答し、先輩の手に押し付けていた楽譜を奪うと、題名を示してみせる。

J.S.Bach-The Well Tempered Clavier Book.1

「何番がいい?」

さっさと歩き出したベニヲを追いかけながら、トートバッグを肩にかけ直した少女は、迷ういとまもなく返答する。

「2番」

「うわ。そう来るか」

ベニヲは楢の答えにからりと笑った。

一年の年の差はあるものの、楢亜希とベニヲは中学の頃から仲が良かった。どちらかというと控え目で大人しい楢と、対照的に『問題児』のベニヲが仲良くするのを好ましくないと言う教師もあったけれど、気が合うものは気が合うのだからしようがない。先輩にタメ口で話すなんて、と眉を潜める人もなくはないが、正直、一年の差なんて、大学受験で浪人でもすれば、一気に縮まってしまうし、下手すれば逆転現象だってありうるわけで。ベニヲにとっては、どうでもいいこと、でしかなかった。

「週番てこんなに早いの?」

「う、うん。ちょうどいい電車が、なくて。一本後だと、ま、間に合わないから」

「ふうん。めんどくさいね」

コンコンコン、と教員室のドアをノックして、ベニヲは大きな欠伸をひとつした。

「一時間早いと眠いよね」

「ベニちゃん、いつもギリギリだもん」

「まぁね」

電気はついているのに、教員室からは誰も出てくる気配はない。

「あれ、れ?」

「教師って来るのこんなに遅いの?」

「そ、そんなこと、ないよ。いつもは、誰か来てるもん」

「トイレとか?」

「先生達の、トイレは、あそこだから、誰かいれば、わかる、かも?」

あそこ、と楢が指さした先に二つ並んだ、教職員用、とプレートの貼られたお手洗いは、どちらも中に人のいる様子はないようで、ドアに嵌め込まれた曇りガラスの向こう側は真っ暗で、物音ひとつしない。

「おっかしーなぁ……。礼拝堂の裏の鍵がないと、練習できないんだけどな」

「わ、わ、私も……」

二人は顔を見合わせると、もう一度、教員室のドアをノックした。

 やはり、中からはなんの応答もない。それどころか人の気配すら、ない。

「困ったな」

チラリと教員室の前にかけられた時計を見やると七時四十五分をさしていた。

校内各所の鍵は当然のことながら一生徒が持っているわけもなく、教員室の奥にあるロックボックスに保管されている。古い校舎ゆえ、合鍵を作ろうにも作れないから、万が一にも鍵を無くしてしまえば、大ごとになる。

「中入って勝手に鍵借りたら、また怒られるかな」

「そ、それは、お、怒られると、思う」

「だよね」

こくん、と楢が頷いた時、廊下にカツン、カツンとヒールの足音が響いた。

「ん。あれ一美か」

一美、と云うのは、声楽科出身の若い音楽教師で、一見、教師にはとても見えないような、派手ないでたちで毎日教壇に立っている。今日も、大きな花柄の織り込まれたロングコートを羽織り、胸元の大きく開いた、元はステージ衣装なのかと尋ねたくなるような服を着ている。珍しくメガネをかけているが、メイクはばっちりで、綺麗に巻いた髪が、肩先で揺れるたび、香水の強い香りが漂ってくる。

「あら。藤川さん。楢さん。おはようございます。どうなさったの?」

フィガロの結婚に出てくるドラベッラを彷彿させる出立ちと薔薇の濃密な香りに眩暈を覚える。よい香りも程度を越えると破壊力を持つものだ。

「先生、おはようございます。今日、伴奏当番だからちょっと練習したくて早く来たんですけど、誰もいないみたいで」

「わ、私は……週番で……」

匂いに酔いそうだ、とベニヲはそっと右を向いて息を吸う。面と向かっているよりは、まだ匂いの濃度が低いように思う。

「今日の早出は御崎先生だったと思うんだけど……ちょっと待ってなさいね」

「はーい」

足音を響かせ、音楽教師が教員室に消えていくのを見送り、楢がベニヲに囁いた。

「一美ちゃん、きょ、今日もすごいね」

「うん。警察犬じゃなくても通った後をトレースできそうだよね」

 匂いの根源が遠のいていくと、思わず深呼吸をしてしまい、そんな様子に目を見合わせて吹き出す。

 程なくして戻ってきた音楽教師はベニヲに真鍮製の古い鍵を手渡した。

「はい。礼拝堂の裏の鍵ね。楢さんは……週番室の鍵はないんだけど」

「あ、あ、あ、あの……わ、私、ききき、昨日間違って、も、持って帰っちゃって……。で、でで、でも、ドアが、あ、開かなくて」

手に握り込んでいた鍵を教師に示しながら、楢は緊張のせいか、いつもより吃りながら説明する。

「あたしもやってみたけど、開きませんでした。鍵穴が馬鹿になってんじゃないかなって思って、それで一緒に教員室に来たんです」

「わかりました。じゃあ、楢さんは私と一緒に来て。もう一度鍵が開かないか試してみましょうか。藤川さんは、練習に行っていいわよ。……それにしても、御崎先生、どこに行ったのかしら。まったくもう……」

 派手な音楽教師は、幾分めんどくさそうに小さなため息をついた。






礼拝堂の裏に続く階段は、教員室の更に奥にある。普段は殆ど誰も使わない細い通路には、朝の光が差し込んでいて、まるで天国への階段のように見えた。

 ベニヲは猫のような足取りで階段を上ると、嵌め込み窓から外を伺う。品のいい老女が小型犬を連れ、山手通りを歩いていくのが見えた。

 多分に漏れず、この礼拝堂裏の階段も石造りなのだが、他の階段より幅も狭く勾配も急だ。木製の手摺りを片手で握ると、昨夜の雨のせいか少し湿っていた。

礼拝堂の裏扉を開けると、ちょうどステージの上のグランドピアノの後ろに出る。

ステージの中央にはステンドグラスが、反対側の壁には小ぶりなパイプオルガンが据え付けられている。

まだ誰もいない礼拝堂にも、山手通り側の大きな窓から幾筋もの明かりが落ち、それだけでたまらなく美しい。高校生、という年齢ゆえのセンチメンタリズム、と言われればそれまでだけれど、美しいものを美しいと感じられる感受性は、高校生の専売特許なんかじゃないはずだ。

 ステージを横切り、オルガンの方へと向かいかけたベニヲは、ふと違和感を覚え、足を止めた。

「ん?」

違和感の原因を確認しようと、立ち止まり、礼拝堂をぐるりと見回し、そして……ベニヲは、息を飲んだ。



 窓から射しこむ光の中に、誰かが、いた。

祈りを捧げるようにがっくりと頭をうな垂れ、微動だにしない、誰か、が。



ただごとではない、と本能が警鐘を鳴らしていた。手にしていた楽譜と聖書、讃美歌が滑り落ちる。

落ちたそれを拾い上げるより前に、ベニヲはステージから駆け降りた。

 並べられた木製の長椅子の後ろから三列目。

祈るように項垂れた額を前の席の背に預けているその人に見覚えがあった。

「先生ッ!」

教師だからといって、全ての教師が尊敬するに能わず、というのが信条のベニヲが、心から尊敬している……。

 肩口で切り揃えられた総白髪に近いグレイヘアーの女性は、額を前の座席の背もたれに乗せ、一見眠っているようにも見える。

 足が、震えた。

「先生」

もう一度呼んでみる。

いつもならばシニカルに片唇を歪めて、「なに?」と答える声はない。

「せんせい……」

ぎこちない足取りで長椅子と長椅子の間を歩き、ようやく触れたその人の首筋は、氷のように冷たかった。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 ベニヲは叫んでいた。これは自分の声なのか?自分が叫んでいるのか?乖離した意識が自問している。人間って、受け止めきれない事実に出会うと、こんな風になるんだ、とどこかから冷めた目で観察する自分もいた。大きすぎる衝撃は、感情を凌駕していた。

「御崎先生……」

こんな時は、自然と涙が溢れるものだと思っていた。でも、涙はこぼれては来なくて、引き攣れたような自分自身の乱れた呼吸だけがやけにうるさい。

 先生の冷たい首に指を押し当て、頚動脈の拍動を探してみても、生命の証は応えてはくれなかった。顔を覗き込む勇気は、なかった。

「先生」

よく見ると、先生の耳からはどす黒く変色した血液が首筋まで流れている。体を揺さぶった時に触れたニットベストの肩あたりは冷たく湿っていた。パッと見たところ、先生の体には大きな傷はなさそうだった。

 しばらく御崎先生の亡骸のそばで立ち尽くしていたベニヲはようやく思い至った。



先生はなんでここで死んでいるの?



はっ、と顔をあげると、礼拝堂の中をぐるりと見回す。人影は、先生……の遺体とベニヲの他に見えない。

でも、もし、もしも、御崎先生が殺されたとしたら?犯人は?

「先生……待っててね」

小さな声で答える声すらない恩師に囁きかけると、棒のようにカチカチになった足で礼拝堂の入り口へと向かった。


けれど……。


礼拝堂の三つある木製の扉は外側からきっちりと施錠されていて、開かなかった。

……そう。

ここは、密室だったんだ。






一週間の臨時休校があって、すぐに中間試験が始まった。この学校は二期制をとっていて、前期の試験は六月と十月、後期の試験は十二月と三月にある。

 ベニヲは選択科目の化学の試験をさっさと切り上げると退室し、美術室へと向かっていた。



御崎先生の遺体の第一発見者、として警察でひどい扱いを受けた……訳ではなく、むしろ警察は表向きはベニヲの心の傷を慮り、カウンセラーをあてがってくれた。

但しそれは、あくまで『表向き』のことだ。

昨今の残虐非道な少年犯罪の傾向もあってか、当初、ベニヲを見る警察の目は疑念に満ち満ちていた。

あんな風に、疑われたり、云うことをなにひとつ信用してもらえないことなんて今までなかったから、寧ろそちらの方で、ベニヲは心の中に澱が溜まっていくのを感じた。

 けれど、冷静になってみれば、第一発見者を疑え、というのは当たり前のことだし、御崎先生を発見した時、ベニヲは先生の体にも触れているから、疑われてもやむを得ない状況にはあったのだ。

とはいえ、警察での扱いははっきり言って不愉快極まりなかった。

未成年への事情聴取、ということで、親まで呼び出して、御崎先生のことを恨むようなことはなかったかだとか、授業はどうだ、成績はどうだ、プライバシーの侵害も甚だしい扱いだった。ベニヲにとって、御崎先生は尊敬できる素晴らしい教師だったこと、あの日は礼拝の伴奏当番だったことを、幾度となく伝えても「でも、先生に怒られて、気分を害したこともあるよね?」なんて言われて……おまえの耳は節穴か、とどつきたくなるほどだった。

進路には悩んでいたけれど、警察官にだけはなるまい、いや、いっそ、国家公務員一種試験を受けて、警察官僚になって、こんな酷い目に合わせた人達に婉曲的にやり返してやろうか、なんてことを、取調べ……いや、事情聴取中、考えるくらいには、無駄で不快な時間だった。

 だが、その一方で、ベニヲの取調べをしていた若い警察官からはいくつかの情報を引き出すことができた。

御崎先生の死因は急性硬膜下出血と脳挫傷によるもので、やっぱり頭部の傷が原因だということ。それだけの重症を負うには余程重たいものや、相当の力で殴りつけねばならないこと。御崎先生は、夜のうちに亡くなっていたであろうこと。それから、やっぱりあの礼拝堂は正面の入り口も二階席の入り口も施錠されていたこと。

 ベニヲが本当に犯人ならば、そんなことをペラペラと口にしてはまずいんじゃないの?と思わず心配になるほど、担当していた警察官は迂闊にも口を滑らし続けてくれた。ベニヲの誘導尋問が功を奏した、という向きもなくはないが、あれはやはり、担当した警察官が「女子高生だから」と舐めてかかっていたのが原因だろう。

警察は事故と事件の両方から調べている、と言っていたが、あの若い警察官の様子では、まだ容疑者らしい容疑者はベニヲくらいしか見つけられていないのかもしれない。

 どれだけ疑われようが、残念ながらベニヲはベニヲ自身が知る限り、御崎先生を殺してはいないし、殺したくなるような怒りや憎しみもなかったし、警察が懸念するような昨今流行りのサイコパスでもなかった。

警察が期待したような成果は、ベニヲの事情聴取では得られなかったようで、二回目の事情聴取の後、ベニヲは「今回は大変だったね」なんていう心のカケラも篭っていない言葉で無罪放免?された。

とはいえ、こんな灰色の状態で疑われたままでは、ベニヲの怒りもおさまらないし、なにより、大好きだった御崎先生に顔向けできない。

たかが女子高生になにができるかはわからない。わからないけれど、なにもせず、大人しく膝を抱えて待っている、なんて無理だ。いつか白馬に乗った王子様が……なんてぼんやり待っているより、白馬に乗って王子様を探しに行くほうがベニヲの性にあっている。

たとえ、犯人を見つけられなくても、御崎先生のために、そして自分自身の尊厳のためにできることがあるならば、たとえ小さなことであっても、やってやろうじゃないの、とベニヲは心に決めた。



「せーんせ」

美術準備室のドアをノックと同時に開けると、年齢不詳のモナリザとどこか似た整った顔が振り返る。緩く結い上げた栗色の髪が振り返った拍子に、揺れて落ちる。

先生もこの学校の卒業生で、話を聞く限り、四捨五入すれば天命を知るくらいのお年になるはずなのだけれど、三十代半ばほどにしか見えない。恐ろしいことに、美術準備室に飾られているOG達と撮った五年前の写真でも殆ど見た目は変わっていないから、本当の年齢が何歳なのかはわからないし、乙女に年齢なんて尋ねてはいけないことくらい、不調法なベニヲだって知っている。

「あらあら。あなた、試験は?」

「終わった!先生、入っていい?」

「ちゃんと解いたの?」

「うん。ばけがくだし」

 穏やかな口調で紡がれる問いかけに歌うように答えつつ、慣れた様子で美術準備室の中に滑り込むと、空いていた机の上に鞄とコートを放り投げる。

 そのままベニヲは和製モナリザのそばに体を擦り寄せると、手元を覗き込んだ。

「先生、なにしてるの?」

箱の中には切り刻まれた写真が何枚も入っている。切られた写真の中の女と目があったベニヲは思わず身を竦ませた。

「これ?中二の子達の授業用よ。コラージュってあなたたちもやったでしょう?」

「あ、そういえば……」

 コラージュというのは、様々な素材を貼り合わせて作品を作る、というやつで、そういえば、ベニヲも昔やった記憶がある。あの時は……好きな雑誌を持ってきて、そこから切り抜いてコラージュを作ったはずだ。

「雑誌とか本とかでやらないの?」

「あなたたちの時はそうだったわよね。今は、ゴミが増えるから、って、学校から指導が入っちゃってね、こっちで材料の準備をするのよ。元々の雑誌や本の選び方にも個性が出るから、本当は前と同じ方がいいんだけどね」

大きな鋏で躊躇う様子もなく、ざっくりと人の顔を半分に切って、先生は溜息を漏らした。

 美術の椎名先生は、跳ねっ返りのベニヲにとって歳の離れた姉のような人だ。年相応といえば年相応の反発心だと思うのだけれど、校長相手に、尊敬するところもない人を先生なんて呼びたくない、と口にしてしまってから、ベニヲは扱いにくい子、のレッテルを貼られていて、一部の教師からは色眼鏡で見られているのを、肌で感じていた。

そんななかでも、ベニヲを他の生徒と変わりなく扱い、あまつさえ、可愛がってくれる先生もいて、この椎名先生と亡くなった御崎先生はその筆頭だった。

「あなた、大変だったわね」

先生は汚れたエプロンを外し、傍らの蛇口を捻った。思ったより勢いよく出た水がベニヲの足元にまで跳ねる。

「あら、ごめんなさいね」

慌てて水勢を絞り、椎名ははにかんだ。

そんな教師の様子を眺めていたベニヲはククッと喉を鳴らして笑う。

「先生、よくいろんなものこぼすね。このまえもペインティングオイルをぶちまけてたよね」

「もう、そんなことばっかり覚えてなくていいわよ」

マグカップに放り込んだティーバッグに湯を注ぐと、柔らかな香りが埃っぽい美術準備室に立ち込めた。それをベニヲの前に置くと、椎名は隣に腰掛けた。

ベニヲの体の左側が、先生の体温でほんの少し暖かくなる。

「ねえ、先生。どう思う?」

 両手でマグカップを包み込んでいた椎名は首を傾げる。その問いの意味を計りかねるとでもいう様な仕草に、ベニヲはキッと睨みつける。大人はずるい。わかっているくせに、誰も彼も誤魔化し、面倒なことからは距離を置こうとする。今日、登校してから、みんなそうだった。羊の群れが安寧であることを祈るように、ベニヲから目を逸らす。

「御崎先生のこと、どう思う?先刻、先生もあたしに『大変だったわね』って云ったもの。気になってるはずじゃないの?」

 ベニヲの視線を真正面から受け止めていた椎名は、ふ、と表情を和らげた。

「勿論。気になってるわよ。当たり前じゃない。わたしも御崎先生のことは大好きだったもの。でも、御崎先生のことより、あなたのことの方がわたしは心配だったのよ。」

「あたし?」

アルカイックスマイル、というのか、モナリザが画の中で浮かべる、うっすらとした笑みに似た掴みどころのない微笑みをたたえ、先生はベニヲの頭に手を置く。

「そりゃそうよ。可愛い教え子が事件に巻き込まれて警察に連れて行かれた、なんて、心配しないはずないじゃない」

「あ……」

「あなたなら大丈夫だと思うけれど、それでも心配したわよ」

「……ありがとう、ございます」

「やぁね。改まっちゃって。授業をサボってランチに連れて行け、とか駄々を捏ねる子が、今更そんな借りてきた猫みたいな顔しないの」

 微笑みながら一度ベニヲの髪を撫でると、椎名の表情はすっと引き締まる。

「それに……。そうね。御崎先生の件は、わたしも納得できないわね」

 ベニヲはこくりと頷く。

大半の大人は信用できない。でも……。

一呼吸置いて、少女は意を決したように強い眼差しで隣に座る数少ない『信用できる大人』を見つめた。

「ねえ、先生。お願いがあるの。あたしと一緒にこの事件、調べて欲しいんだ」







「オーク」

「っ。あ、ベ、ベニちゃん」

 昼休み、高三の教室に行くと、ベニヲは楢を呼び出した。

「ちょっと付き合ってくれる?」

「た、体育館裏は……嫌だよ」

「なに云ってんの。違うよ」

 態度の大きな、それも教師殺しの汚名まで着せられた後輩の登場に、上級生たちはヒソヒソと耳打ちし合う。ジロリと一瞥をくれたベニヲは心の中で全員大学受験に落ちてしまえ、と毒づいて、楢の腕を取り大股で歩き出した。

「ちょっとこのまえの話、聞きたいんだ」

 美術準備室の前に着くと、ベニヲは楢から手を離し、ドアをノックした。

「せんせー。入るよ」

「はいはい、どうぞ」

楢の背を押し、ドアを閉めると、ベニヲは小さな溜息をついた。なんのかんの云って、悪意を含んだ視線に晒されながら暮らすのは心が擦り減るものだ。御崎先生の件があってから、一部では教師殺しと心ない噂をされていることくらい嫌でも耳に入ってくる。

いくら傍若無人なベニヲであっても、流石に参る。

「ちょっと待ってね。あと少しで準備が終わるから」

 棚の向こうから声だけが聞こえてくる。それに重なるように、機械の低いモーター音がする。ドスン、と重たいものを下ろすような音がそれに続き、再びモーターの音がひびき始める。

「よっこいしょ、と。お待たせ」

 顔を覗かせた和製モナリザこと椎名先生は泥に塗れた手を振ってみせた。

目を丸くする楢に、座れと目だけで促したベニヲは珈琲牛乳を三つ取り出して並べる。

「あんた、お昼まだでしょ?食べれば?」

「……え、あ……うん」

 状況が理解できない、といった顔をする楢に構う素振りも見せず、ベニヲは珈琲牛乳にストローをさす。

「もう。藤川さん。先輩にもう少し優しくしてあげなくちゃ、ダメよ」

 水に濡れた両手をタオルで拭きながら、先生はベニヲと楢に向かい合うように腰を下ろした。

お弁当の包みをほどきかけた楢は、キョロキョロと周囲を見回す。

「せ、先輩って、私?」

「他にいないよね。多分」

 しれっと答えたベニヲは楢と和製モナリザの前に珈琲牛乳を一本ずつ置いた。

「事情聴取のお供」

「じ、じ、事情?」

「そ。事情聴取」

 ベニヲは包みをほどきかけて手を止めたままの楢のお弁当を取り出し、先輩の前に置くと、優雅な手振りでどうぞ、と促す。

「このまえ、オークが週番だった時のこと、教えて欲しいんだ」

 椎名は、あの曖昧な掴みどころのない笑みを楢に差し向け、珈琲牛乳を手に取る。

「わたしのことは気にしないで。ただの保護者みたいなものだから。それにしても随分可愛らしい取り調べですこと」

「いいじゃん。あたし、珈琲牛乳好きなんだ」

 ふん、と鼻を鳴らしてベニヲが笑う。

いつもと変わらぬその様子に、幾分、落ち着いた様子で楢は頷く。

「食べながらでいいから、教えてよ。あたしが伴奏当番で早くに学校に行った前の日もオークは週番だったんだよね?鍵持って帰った、って云ってたし」

「う、うん。そうだよ。同じクラスの人と、ふ、二人で遅番だったの。本当は、ベニちゃんに会った日は、わ、私は早番じゃなかったんだけど、かかか、鍵を持って帰っちゃったから、早番もやることになっちゃって……」

「なるほどね。普通は、遅番の翌日は早番じゃないのね。週番って、残り番の先生たちの前に校内を見回るんだっけ?」

 楢はこくん、と頷き、厚焼き卵を頬張る。

「校内放送で下校の時間をし、知らせてから、ぶ、部活で残ってる人たちに、帰るように言って歩くの。ベニちゃんも来年すると思うけど」

「できればやりたくないね。めんどくさそう」

 ベニヲはひょい、と肩を竦めて笑い、ストローで珈琲牛乳を飲んだ。

「その見回りの時、残ってる人って結構いるの?」

「あの日は、し、試験の前だったから……生徒は……ほ、ほとんどいなかったよ。あっ、で、でもね。あの日、私、み、御崎先生に会ったよ」

「……えっ?」

「えっと……二階の、廊下……だったかな」

「二階……。御崎先生、そのとき、どんな感じだったか覚えてる?」

「んん、と。普通に、さようなら、って挨拶、して……」

 勢い、身を乗り出しかけたベニヲは、楢の答えに、椅子にぐったりと座り込む。

「そっか。そりゃそうだよね。先生が誰かに追いかけられて全力で走ってたら、その時点で警察沙汰だもんな」

 ベニヲの様子に和製モナリザはくくっと小さく笑う。

「まぁま、焦らずゆっくり調べましょうよ」

「まあね。少なくとも、週番が見回ってた時間には御崎先生が校内にいたことはわかったわけだし。……てか、御崎先生、なにしてたんだろ。二階って……。中三と高一の教室と、あとは……化学室とか物理室とか……でも、御崎先生、化学室にも物理室にも用事なさそうだよね」

「ん……と、ちょうど、ち、ち、中三のA組の前あたりだったよ。あっ!」

「ん?なんか思い出した?」

「う、うん。御崎先生、古い本を持ってた。図書館のかな、って思ったから……」

「他にはなにも話さなかった?」

「えっと……」

 楢は箸を置くと、眉間に皺を寄せ考え込む。絹糸のように細い黒髪が、さらさらとこぼれて落ちる。

「『あんたたちもとっとと帰って、好きなことをしなさい』って、言われ、た、かな」

「御崎先生なら言いそうなことだね」

「う、うん。そ、それで、私は、さようなら、って言ったと……思う」

 向かいに腰掛け、珈琲牛乳のストローを指先で弄んでいた先生はその言葉に懐かしそうに目を細めた。

「御崎先生、本当に文学が好きだったわよね。わたしも御崎先生の授業を受けたことがあったわ」

「えっ?先生も?」

「そうよ〜。わたしだって、セーラー服を着て、今のあなたたちみたいに青春していた頃があるんだから」

「まぁ、そりゃそうだろうけど……」

 こら、とベニヲを目で窘め、先生は笑った。

「いまのあなたたちには自分たちが歳をとっておばさんになるなんて想像もできないでしょうけど、あの頃のわたしも、自分がこんなに歳をとるなんて思いもしなかったわよ。御崎先生の授業は昔から独創的でね、好きな作家の本を一年かけて片っぱしから読みなさい、っていう課題でね」

「へぇ。今とは違うんだね。それで、先生は誰の本を読んだの?」

「わたしはね……」

 ふふ、と椎名は含みを持たせた笑みを唇に浮かべた。

「川端康成」

「えーっ。なんか意外」

「文学らしい文学ってそれまで読んだことがなくてね、御崎先生に『好きな作家がいないんですが、なにを読めばいいですか?』って訊いたの。そしたら、川端康成を読みなさい、って」

「どうだった?」

「正直、よくわからなかったわ。だいたい、単純に面白い、って思えるものでもないわよね。でも、美しい景色が浮かんだわ。水彩の淡い色合いで描かれた物語だった。わたしにとっては」

 椎名は古びた木の作業台に視線を一度落としてから、ここではない何処かを見つめるような遠い眼差しをした。

「一年の締めくくりに、その作者の文学作品に触れた感想を表現する授業があってね、わたしは絵を描いたのよ。抽象画だったけれど、ちゃんと評価してくれた。この先生、素敵だなぁって思ったなぁ」

 語られる思い出の中の御崎先生にベニヲは思いを馳せる。ベニヲも御崎先生の授業が好きだった。けれど……もう二度と、御崎先生の授業を受けることはできない。御崎先生と話すことも会うこともできない。

「わ、私も……好きだったな。ちょっと怖かったけど……」

 楢がポツンと呟いた。

それぞれが、それぞれの記憶の中にいる死者を思い、沈黙が流れる。ぽちゃん、と一滴の水が流しに置かれた筆洗いの中に落ちた。

 はっ、と我に返った様子で、ベニヲが言葉を紡ぐ。

「とにかく、その時、御崎先生がなにをしていたのかはわからないけれど、いつもと違う様子はなかったってことだよね」

「う、うん」

「オークが週番で見回りをしていたのが夕方の六時頃。あたしが礼拝堂で御崎先生を見つけたのが朝の七時五十分頃。その間、か」

 考え込むベニヲに代わって、和製モナリザが小首を傾げ、唇を開いた。

「ねえ、楢さん。他に誰かを見かけたりはしなかったのかしら?」

 先生の問いに、楢はしばらく考え込むと首を横に振った。

「あんまり……覚えて、ない、です。

「そうよね。ごめんなさいね。また、なにか思い出したら藤川さんに教えてあげて」

「……はい」

 吃音のせいか、それともなにか気にかかることでもあるのか、歯切れの悪い口調の楢は、小さく頷いた。






 秋の日は釣瓶落とし……ならば、冬の日はなんというのだろう。

五時になる頃には、すっかり影絵のように街は夕暮れの底に沈み込む。底冷えする石造りの校舎にローファーの踵が靴音を響かせる。

 今日は残り番だという椎名の隣をベニヲは歩いていた。セーラー服の上に羽織った茶色のダッフルコートに指先を仕舞い込み、すっかり暗くなった校舎の中を物珍しげに眺めている。

「文化祭実行委員で残ってた時より、暗くて淋しいね」

「そうねぇ。この季節になると日が落ちるのも早いし。誰もいない校舎って、やっぱり迫力あるわよね」

 すれ違った週番の高校三年生が先生に会釈しつつ、不審げにベニヲを視線の端で見つめるのを一瞥でやり過ごし、二人は校内を巡回……という名の下に、探索していた。

勿論。御崎先生の亡くなった理由を探すために、だ。

三階、二階……と生徒が残っていないことを一部屋ずつ確認していき、鍵をかけていく。この校舎には本質的な欠陥があって、外側からかけた鍵は内側からは開かない様にできている。尤も、それは欠陥ではなく、大正時代ならば、仕方のないことだったのかもしれないが、流石に、普段生徒たちが過ごす教室と教員室は、鍵の付け替えが行われて、内側からも鍵があくし、スペアキーも準備されている。

しかし、美術室や化学室、生物室、音楽室、家庭科室などの特殊教室や礼拝堂、図書館、の鍵は外側からしか開錠も施錠もできないままだ。くだんの週番室もそのひとつで、古い鍵はいずれも真鍮製で、鍵の開け閉めにも難渋する程度に、鍵自体も傷んでいる。

鍵だけじゃない。校舎の経年劣化も激しくて、この美しい大正モダンの香りがそこかしこに残る校舎を、いっそ近代的な鉄筋コンクリート製の耐震性の高い建物に建て替えよう、という動きもある。そのことで校長に直談判に行ったのが半年程前。校舎の建て替えがあるとしても、ベニヲたちが卒業してからのことで、卒業してから先のことに生徒が口を出す権利などない、と校長からにべもなく撥ね付けられた。

でも……どれだけ不便でも、どれだけ古くて、時々、窓が壊れたり、煉瓦が剥がれ落ちたりしても、ベニヲはこの校舎が好きだった。

ベニヲが恨むとすれば、校長や、校長に楯突いたことをあげつらって、厄介者のレッテルを貼った他の教師たちだ。「あんたはそれでいいわよ。好きにやりなさい」と笑いながら云ってくれた御崎先生を恨むはずなんてない。

「誰も残ってないかしら?」

 教室に先生が声をかけ、二人で一室一室見回り戸締りをしていく。教師が施錠する前には週番が校内を一周ぐるりと見回り、残っている生徒には下校を促す。

部活が全て終わる六時から週番が巡回を始めて、週番から週番室の鍵を受け取った残り番の教師がその三十分から一時間後に施錠して回る。夜には警備員の巡回があるというけれど、その時には既に全ての教室は施錠されていて、不審な出来事や不審者の侵入がないかを見て回るそうだ。巡回は二回、警備員はそのまま校内の警備員室に当直するというから、大きな物音でもすれば流石に気がつくだろう。

 椎名の後をひょいひょいとついて歩き、ようやく全ての教室の見回りを終えて、礼拝堂前に辿り着いた時には夜の七時前になっていた。

「さて、と。大体みんな、見回りの最後がここになるはずなの」

「残り番ってけっこう面倒なんだね」

「そうよ。教師も案外やることがいろいろあるのよ」

 外開きの礼拝堂の大きな木の扉をしっかりと開けて、床に穿たれたストッパーに固定する。ステンドグラスのライトも落とされた礼拝堂は岩窟の中のように暗い。

山手通り側の天井まである窓からは、街灯の灯りが仄白く落ち、月光のような清けさをたたえている。

「暗いけど、意外に明るいんだね」

 矛盾する言葉を漏らしながら、ベニヲは椎名の服の袖を掴む。

「こっち」

 迷いのない足取りで後ろから三列目の長椅子まで歩く。

「ここで……ここで、御崎先生が……」

 死んでいた、と口に出来ず俯くと、先生はベニヲの肩を優しく撫でた。

「そう。この位置だったのね」

 つとめて平静な声色にベニヲは黙って頷く。

和製モナリザは、ガラス越しの街灯の灯を見つめ、目を細めた。

「なんで、ここだったのかしら……」

「どういうこと?」

「だって、考えてもごらんなさい。この礼拝堂の電気のスイッチはステージ袖とこの入り口の脇、二階席の電気のスイッチは二階にしかないの。二階の扉は先刻、一緒に施錠したわよね。電気自体は普段は礼拝が終わった後には全部消してしまうから、冬のこの時間帯ならばかなり暗いはず。逆に、もし、この時間に電気がついていれば、誰かが気付くのが当たり前よね」

「……なるほど」

「御崎先生がなんでここにいたのか、それがよくわからないわ」

「うん……たしかに。先生の言うとおりだね。もし、誰かと待ち合わせるのにここで待ち合わせていたなら、普通は電気をつけるだろうし、電気もつけずにこんな暗いところで誰かと待ち合わせていたなら、それ自体、なにか理由があるよね。それから……待ち合わせじゃなくて、意識のない御崎先生がここに運び込まれたなら、この暗がりで椅子の並びを乱さないであの位置に座らせることはできないと思うんだ」

「大人ひとりの体を女子供が持ち上げて運ぶのはまず無理でしょうしね」

「あ、それとさ。御崎先生を見つけた時、あたしが裏から入るまでは扉の鍵、閉まってたんだ。御崎先生がここに入った、或いは連れてこられた後に、誰かが外から鍵をかけているはずなんだ」

「そうねぇ。この礼拝堂、一階とはいえ、実質二階にあるものね。イギリス式の数え方で、地階、一階、二階、三階……だから、ここは一階だけれど、二階にあるのと同じだし、窓から誰かが出入りするのもそうそう簡単ではないわね。それに、窓の形状がスライドの方向で外からは開けられないようにできているから、誰かが外から入ってきて、御崎先生に会って、それから外に出て窓を閉めることもできないはずよ」

 二人は天井まである大きな窓を見つめた。

暗がりに目が慣れると、くもり硝子越しの柔らかな灯りだけで、随分と礼拝堂の中がはっきりと見えるようになる。

「静かね」

「はい」

「この礼拝堂も、わたしが高校生だった頃となにも変わらないわ。でも、不思議なものよね。制服を着て、毎日、礼拝に出ていた頃と、いまこうして、教師という立場で出る礼拝では、感じ方が全然違うの。仕事の一部になってしまったからかしらね」

「先生、クリスチャンだったっけ?」

「違うわよ。文化としてのキリスト教は興味深いと思うけれど、ね」

 しんとした礼拝堂に、二人が低く囁き合う声だけが響く。やわらかな街灯の灯りの中、不思議と穏やかな気持ちだ。

「御崎先生はクリスチャンだったよね」

「ええ。そんな風には見えなかったけれど、とても優しくて、温かい人だったわね」

 椎名がぽつりと呟いた。

本当に、そのとおりだ、とベニヲは唇を噛む。

なんで死んでしまったの?と問い詰めたい。生きているだけで師となる人だった。

もっと、先生でいて欲しかった。

「ね、先生。御崎先生、ここで殺されたのかな?」

「……どうかしら。でも、わたしは『ここで殺された』のではないと思うの。もし、ここで殺されたのならば、犯人はどこに行ったのかしら?凶器はどこへ行ったのかしら?」

 ベニヲは薄く足元に伸びた影をしばらく見つめ、それから強い眼差しで椎名を見つめた。暗がりで見る和製モナリザは、より謎めいて見えた。

「先生。教えて欲しいことがあるの」






 音楽室からは発声練習の声が聞こえてくる。

艶やかなソプラノが複雑な音階を上へ下へとなぞっていく。

 授業のない時間、いつも彼女が歌っているのを、ベニヲは知っていた。興味の持てない授業は自主休講して、図書館や美術準備室で過ごしている問題児は、本来授業を受けているはずの時間に校内を自由に散歩していたから、音楽教師の傍らで声楽家になるという夢を捨てきれられないのだろう人が、生徒のそれより遥かに美しく華やかな声で歌うのをしばしば耳にしていたのだ。

 音楽室のドアをノックすると、歌声がぴたりとやむ。続いて、カツカツと高いヒールの音。ドアが開くと、強い香水の匂いが押し寄せた。

「鷹羽先生、こんにちは」

「藤川さん、なんの用事?授業中じゃなくって?」

「あー。授業は休みです。ね、せんせ」

 ベニヲの隣で和製モナリザは肩を竦める。

「ね、じゃないわよ。もう、困った子ねぇ。わたしが共犯になっちゃうじゃない」

「ま、いいじゃん」

「よくないわよ。ごめんなさい、鷹羽さん。少しだけ、お話し、うかがえるかしら?」

「……先輩」

 一枚どころか、二枚か三枚つけまつ毛を重ねた目を訝しげに細め、音楽教師が溜息を吐いた。今日もばっちりメイクに目がチカチカするような鮮やかな原色の服を身に纏っている。真っ赤に塗られた唇が漏らした『先輩』という単語に、ベニヲは目を瞬かせた。

 そういえば、鷹羽先生もこの学校の卒業生だった。椎名先生と鷹羽先生のはっきりとした年齢はわからないけれど、中高の在学時期が被っていたのかもしれない。或いは、二人ともたしか、藝大の卒業生だったはずだから、そこで接点があったのかもしれない。

 鷹羽は、不愉快そうに真っ赤な唇を歪め、憎々しげに言葉を吐き出す。

「生徒の不法行為に手を貸すのはいただけないですね」

「わかってる。でも、今日だけ、内緒にして欲しいの」

「相変わらず、先輩は勝手ですね」

 挑むような目つきで睨みつける音楽教師の敵意をどこ吹く風とやり過ごした篠村は、やんわりと微笑んだ。ふたりのやりとりを横で眺めながら、ベニヲは首を傾げた。そんなベニヲを身体で隠すように先生は半身を切って音楽教師の前に立つ。

「そうね。わたしは昔から自分勝手だから、あなたにも迷惑をかけたこともあったわね」

「私は許していませんけれど。今度は生徒に手を出してるんですか?」

「出してないわよ。彼女はお友達みたいなものね」

「どうかしら。先輩は昔から……あなたも気をつけることね。優しい顔をして、この人は容赦ないわよ」

 突然、鋭い矛先を突きつけられたベニヲは、それをかわすよう、ひょいと会釈を返す。

「えっと、椎名先生は保護者がわりみたいなものなんですけど、かず……じゃないや、鷹羽先生に聞きたいことがあって……」

 値踏みをするようにきっちり二往復、ベニヲを頭のてっぺんから足の先まで見つめて、音楽教師は深々と溜息をついた。

「三分だけならいいわよ。他の先生方に見つかる前に、さっさと済ませて頂戴」

「ありがとうございます」

音楽室前の廊下をチラリと伺い、人気のないことを確認すると、音楽教師は二人を音楽室へと招き入れ、扉を閉めた。香水の甘ったるい花の香りが密度を増す。くしゃみが出そうになったベニヲは鼻の先を指で撫で、ピンヒールの分、高いところにある鷹羽の顔を見つめた。

「先生、あたしが御崎先生を見つけた日の朝、早番だったんですか?」

「違うわよ。私はいつもあの時間には出勤しているの。早番の時はあれより三十分は早く着いているわ」

「うひゃ。先生、早起きなんですね」

「声楽家は身体が楽器だから、朝はトレーニングをしてから出勤するようにしているの。だから、毎日あの時間なのよ」

「朝活ってやつですね」

「まあ……そうね。働き始めればわかると思うけれど、仕事をしていると、朝の出勤前か、夕方の仕事が終わった後しか好きなことをする時間はないの」

「先生、すごいなぁ」

 意外にも勤勉な音楽教師の生活に、ベニヲは相槌を打ってから、本題を切り出す。

「ちなみに、あの日の早番は御崎先生だったんですよね?」

「ええ。御崎先生の机にはコートと荷物があったわ」

「その前の日の夕方は、先生が遅番だったんですか?」

「そうだけど。それがなにか?」

「なんか、変わったことってなかったですか?」

「別に何もなかったわよ」

鷹羽一美はいささか鼻白んだ様子でベニヲを睨む。

「私は御崎先生を殺してもいないし、御崎先生を殺した犯人も見ていないわ」

「あっ、ごめんなさい。先生が犯人だなんて思ってないんです。ただ、先生が見かけてないかなーって。御崎先生には会いましたか?」

「ええ、会ったわ」

「どこで?」

「礼拝堂の前よ」

「御崎先生、どんな風でした?」

「よく覚えていないわ」

「そう、ですか」

「……ああ、でも、なんだったかな。外から船の汽笛だと思うんだけど、低い音が聞こえてね。たまに聞こえてくるじゃない?」

「はい」

「『山の音が聞こえるようね』って。おかしいじゃない?港から聞こえる音なのに。海の音ならばわかるけれど」

「……山の音」

 それまで黙って二人のやりとりを聞いていた和製モナリザが柔らかな声をさし挟んだ。

「ねえ、鷹羽さん。あなたも遅番の時は三階から鍵をかけながら降りてくるの?」

 「ええ。それが一番効率的でしょ。三階まで上がって、一番奥の部屋から順に鍵を閉めてまわることにしてるわ」

「そうよね……」

 ベニヲの隣で篠村は難しい顔をし、宙でなにかを計算するように目を細めた。

「あなたが御崎先生に会ったのは、巡回を始める時のこと?」

「そうよ。最近陽が落ちるのが早いから、廊下も暗くて……先生が急にいらしたから、私、ものすごく驚いたの。だから間違いないわ」

「……そう」

 音楽教師の言葉をなぞれば、彼女は礼拝堂前で御崎先生に会った後、いずれかの階段を通って三階まで上がり、そこから順に施錠し、降りてきた、ということになる。楢が二階で御崎先生に会ってから、遅番の教師が見回りを始めるまでの間に、御崎先生は二階から一階に降りてきていた、そこで鷹羽と会った、というのに矛盾はない。

「一階から二階まではどこの階段で上がったの?」

「礼拝堂の横の階段よ」

礼拝堂裏へと上がる急峻な階段を登り二階に、そこから一番近い中三の教室と高一の教室の間にある階段を使って三階に上がって、最も山手通りに近い教室から巡回を始めたとすれば、そこから三階を端まで施錠し、二階に降り、二階をぐるりとまわって、礼拝堂脇の階段を使い一階に降りてきたことになる。所要時間は概ね三十分。先日、椎名の遅番に便乗した時にもそれくらいの時間がかかっていた。

「最後は礼拝堂の横の階段を使って一階に降りて、礼拝堂を施錠してから残りの教室を閉めたの?」

 鷹羽は鬱陶しそうに髪をかきあげると顎を持ち上げ、冷ややかな眼差しで椎名とベニヲを見た。

「いいえ」

「なんで⁉︎」

 思わずベニヲは大人たちのやりとりに口を挟む。先刻の言い分ならば、最短ルートは礼拝堂わきの階段を使い、二階から一階に降りる経路だ。

「私、あの日、巡回中にコンタクトを落としてしまったの」

 和製モナリザとベニヲは顔を見合わせた。






 美術準備室の埃っぽい空気の中、光の帯が真っ直ぐにのびている。チンダル現象というのだ、と物理の授業で言っていたっけ。数学の小テストをさっさと切り上げ、美術準備室に忍び込んで、椎名の授業が終わるのを待って三十分。ベニヲは冷めた紅茶を一口飲んで、目の前に座った和製モナリザを見つめた。

「先生、お帰りなさい」

「もう、あなたはまた。あんまり堂々とサボってはダメよ」

「今日はちゃんと小テストまで終わらせてきたもん。解き終わってから延々と見直しても間違いが増えるだけだよ。あんなの」

「こら。教師の前でそんなこと言わないの」

 えへへ、と子供っぽく笑うベニヲに、椎名は肩を竦める。それから、おもむろに真顔になると、ゆっくりと立ち上がった。

「さて……このまえの続きね。ちょっと、情報を整理しましょうか。そのまえに、冷えるから紅茶を淹れなおすわね」



 二人は差し向かいに座ると、誰かが授業で焼き、そのまま置いていったと思われる、少し歪んだマグカップを掌で包み込む。じぃんと痺れるほどに冷えた指先に、温もりがゆっくりと伝わり、ベニヲは知らず、自分自身が緊張していたのだと気づく。

御崎先生の死の真相が徐々に近づいてきているような気がして……本当にそこに真相があるかはまだ定かではないけれど。

「まず、御崎先生がなんで礼拝堂に居たのか。これに関してはきっと、藤川さんも同じことを思ったんじゃないのかしら」

「うん……そうかも、しれないな」

 ふわりと立ち上る湯気の向こうから椎名が見つめる。

「御崎先生は、自分であそこに行ったのかもしれない」

 その言葉に、和製モナリザは静かに頷く。

「あたしが礼拝堂で先生が亡くなっているのを見つけたとき、思い返してみれば、かず……鷹羽先生がメガネをかけてたんだ。あれ?って思ったから覚えてる。あれは前の日にコンタクトレンズを失くしたからだった。つまり、鷹羽先生は、前の日の遅番で礼拝堂を見回ったときには、コンタクトをしていなかった。そして、メガネも。もしメガネをしていれば、二階から一階まで、礼拝堂脇の階段を降りてきたはずだよね。そうしなかったのは、『そうできなかったから』だった。あのピンヒールで、暗くなった校舎の中、細くて急な階段を降りられなかったんじゃないかな」

「わたしもそう思うわ。鷹羽さん、元々かなり目が悪くて、中高時代は度の強いメガネをしていたの。それが、声楽の道に進んで、コンタクトをするようになったの。彼女、裸眼だと視力は0.1くらいしかないはずなの。礼拝堂を見回ったときにもし彼女が裸眼だったなら、御崎先生が礼拝堂にいらしたとしても、見落としてもおかしくはないわ」

 顔を見合わせた二人は頷き合う。

「御崎先生が敢えて返事をしなかったのか、それとも返事ができなかったのか、はわからないけれど、最初から、先生はそこにいたとすれば『なんで』先生は礼拝堂なんかにいたのか、っていうのが次の謎だよね」

「それは、わたし、少しだけ見当がつくの。当たっているかはわからないけれど」

 椎名は、作業台の脇に積み上げられた雑多なものの中から、一冊の文庫本を抜き出し、ベニヲに手渡す。

「藤川さん、読んだことある?」

「……これは読んだことないな」

 古びた文庫本の表紙には『山の音』という表題と川端康成の名が記されている。

「『山の音』……それって……」

 その題名が映像として脳に届いてから、言語として理解されるまで数秒を要した。ベニヲは背筋をビクリと震わせて、恐る恐る目の前に座った椎名を見つめ返した。

「そう。御崎先生が、鷹羽さんに言い残したっていう言葉。もしかすると、それはこのことなんじゃないかって思うの」

「これ、どういう話なの?」

「うろ覚えなんだけれど、初老の男が山の鳴る音を聞いて、自分の死期を告げられている、って感じるところから話は始まるの。日本の家族制や逃れ難い性の呪縛、それに敗戦の落とす影を少し暗いトーンの淡い色彩で描いている作品だったはずよ」

「死期を……告げる。じゃあ、御崎先生は自殺なの?」

「それは……あなたが警察で聞いたっていう御崎先生の死因と矛盾するんじゃない?命を失うほど、自分で自分の頭を殴ることなんてできないんじゃないかしら」

 確かに、あの時、御崎先生の周りにはなにもなかった。『なにも』だ。ドラマや小説ならば、天井から吊り下げられた砂袋があって、それを窓越しに回収するトリックが仕掛けられていたり、オペラ座の怪人よろしく、照明器具が落下していたりするのだろうけれど、御崎先生が事切れていた周囲にはなにもなかったのだ。あの場で御崎先生が自死を選ぶメリットなんて特段思いつかないし、そのためにそんな大掛かりな装置なんて準備していたとは思えない。

「……そうか。じゃあ、山の音、ってなにを意味していたのかな」

 和製モナリザは淡く色を掃いた唇を指先で撫で考え込む。

「山の音は山の音、よ。御崎先生が鷹羽さんに会ったとき、自分の死を予感していたとしたら?」

「その時点で誰かに殴られていたっていうこと?」

 ベニヲは一重瞼の切長の瞳を大きく見開いた。そんなベニヲを真っ直ぐに見つめ返し、「或いは」と、椎名は言葉を続けた。

「なんらかの事故で御崎先生は怪我をされていた、か。それならば、先生が何故、礼拝堂に居たのか、何故『山の音』という言葉を口にしたのか、説明がつくんじゃないかしら?」

「でも、普通ならそこで救急車を呼ぶんじゃないのかな?」

「どうかしら……」

 でも。まだ足りない。まだなにかのピースが足りない。仮にあの礼拝堂へ御崎先生が自分で入って行ったとして……。

 窓の外からは『Hallelujah』が聴こえてくる。明後日のクリスマス礼拝に向けて、どこかの学年が練習しているのだろう。

西陽が雑然とした美術準備室をひとつのオブジェのように染める。自身もそのオブジェの一部にでもなったかのように、和製モナリザはぼんやりと物思いに耽っている。

その整った横顔を見つめながら、ベニヲは先程の推論を反芻していた。

 事故か事件かは結局のところまだわからないけれど、致命傷を負った御崎先生は、礼拝堂の中に一人で入って行った。その時点で、先生は知っていたのだろうか?自分がそこで命を落とすかもしれないことを。

……そして、翌朝。

ルーベンスの絵画の前でパトラッシュを抱きしめ、短い一生を終えたネロ少年のように、御崎先生の命の灯火も消えてしまったんだろうか。

聞こえてくるヘンデルのメサイアはクライマックスへと駆け上がっていく。

なにかが足りない。なにかが。

「先生」

「なぁに?」

「先生は、御崎先生を殺してないよね?」

 唐突なベニヲの一言に、椎名は目を大きく見開いてから、ぷっと吹き出した。

「殺してないわよ。初恋の人を殺すはずないじゃない」

 さらりとすごい告白をして、和製モナリザはひとしきり笑って、それから真顔になる。

「それに、もしもわたしが犯人だったとして、あなたに素直に答えると思う? 藤川さん、意外におマヌケね」

 憮然とした表情のベニヲとは対照的に、すっきりとした面持ちになった椎名は、背筋を伸ばしてベニヲを見つめた。

「さて。じゃあ、今度はわたしに付き合ってもらえるかしら?確かめたいことがあるの」






 椎名に誘われるがままに、ベニヲは礼拝堂二階席の扉の前に立っていた。ここを真っ直ぐ進んで、階段とは名ばかりの五段きりの段差を降りると礼拝堂裏の扉に通じる。そして、礼拝堂裏の入り口からは一階の廊下の端まで急な階段が一直線に伸びている。細長い嵌め込み窓から見える山手通りはいつもとなにも変わらない。

「楢さんが御崎先生に会ったとき、本を持っていた、って云っていたでしょう?でも、あなたが御崎先生を発見したとき、先生はなにも持っていなかったのよね?」

「あ、うん」

「その本、どこに行っちゃったのかしら」

 ベニヲはハッと顔をあげる。

「確かに、あたしが御崎先生を見つけたとき、なにも周りには落ちてなかった。椅子の上にもなかった。普段授業をしている時と同じ格好のまま、なんにも持っていなかった」

「この間、一緒に校内を歩いたでしょう?御崎先生になにかがあったとすればあの時間帯。もし、御崎先生がその本を教員室に置きに帰って、それから改めて礼拝堂に来たならば、そんな格好のまま来ないと思うの。だって、あの時だって相当寒かったでしょ」

「……確かに」

 制服にカーディガン、その上にコートまで羽織っていたけれど、石造りならではの底冷えする寒さに指がかじかんだのをベニヲは思い出す。

「御崎先生は鷹羽先生に会った後、そのまま礼拝堂に入って行った可能性が高いんじゃないかしら」

「そうだね。あたしだったらもし、ちょっと礼拝堂で祈って帰るにしてもコートくらい持ってくると思う」

「それに、もし、祈って『帰る』つもりなら、そのことを鷹羽さんに伝えていてもおかしくないんじゃないかしら」

「……うん」

 言外に、御崎先生は帰れないようになることを予期していた、と言うような椎名の語調にベニヲは口ごもり、隣に立つ和製モナリザのロングコートの袖を握りしめた。

「本を置きに戻れなかったと考えれば、ここから礼拝堂の中までのどこかに、御崎先生の本があるんじゃないかと思うの。本をどこかに置いていったのか、それとも、本を隠したのか、或いは落としたのか」

 二階席を右と左に分かれて見回ってみたが、誰かがテスト勉強のメモ書きを礼拝に持ち込んでこっそりやっていたのだろう紙切れが落ちていた他には、本は見当たらず、校舎の古さ故か掃除の手抜き故か、埃が足元に舞っている。

「もうさ、掃除しても意味ないんじゃないって、時々思うよね。この埃、掃除してもいくらでも出てくるんだもん」

「わたしたちの時もそうだったわよ」

「それ、何年前?」

「三十年くらい前かな」

「えっ、待って……。先生、そんな年だったの?」

「そんな、って失礼ねえ」

 大人げなく頬を膨らませる椎名を見つめ、ベニヲは首を横に何度か振る。

「いやいやいや。とてもそんな歳には見えない」

「あら、それはありがとう」

 微笑んでウインクを投げて寄越すと、年齢不詳の和製モナリザは腕組みをした。

「次は階段ね。転ばないようにね」

「先生こそ」

「あら、急に年寄り扱いしないで」

 木製の手すりはひんやりと乾いていて、ささくれ立った角がチクリと掌に刺さった。

「あ、痛」

「大丈夫?」

「うん。なんか刺さっただけ」

 と、ベニヲは動きを止める。

「待って……。待って、先生。あたし、なにか大事なことを見落としてた気がする」

 先に礼拝堂裏の入り口前まで階段を降りていた椎名がベニヲを振り仰ぐ。ベニヲは足を止めたまま、記憶の糸を手繰り寄せている。

「あの時……違う……あの前の日?ううん、でもあの時……」

 俯いてぶつぶつと呟くベニヲの元にやってきた椎名がそっと覗き込む。

「ねえ、せんせ。わたし、忘れてた。あの時、手摺りが濡れてたんだ。しかも、御崎先生の着てた服もね、濡れてたの……」

 ベニヲの言葉に、椎名は小さく息を飲み、嵌め込み窓を見つめた。古い嵌め込み窓のそこかしこには雨漏りのせいで黒ずんだ跡がある。

「此の階段を御崎先生が通ったとしたら……」

 足元から忍び寄る寒さが増したように感じ、ベニヲは身震いする。

一段一段と狭く急峻な階段を降り、ベニヲは手摺り越しに階下を見下ろした。

年を経て、角の削れた石段はただでさえ滑りやすい。雨漏りで濡れた階段ならば尚のことだ。

「せんせ。御崎先生は……先生は……」

 いつもと同じように。

何十年と勤めてきた学校の、歩き慣れた校舎で。先生は、御崎先生はもしかすると、この階段で足を滑らせたのかもしれない。

ゆっくり、ゆっくりと階段を降り、残り三段になったところでベニヲは嵌め込み窓を見上げた。射し込む西陽が天使のかけた梯子のように、美しい光の軌跡を描いていた。

 そして、俯いた眼差しの先に、古びた一冊の本が、階段の裏に隠れるようにして落ちているのが目に入る。

「……せんせ、あったよ。本が」

 ベニヲの目からぽろりと水滴が一粒落ちた。






 憶測と推測、でしかない。

二人の『捜査結果』を、疑念と疑惑の眼差しでベニヲを取り調べた警察に知らせると、応対した警官はめんどくさそうに「はぁ、まぁうちも調べてるんで。とりあえず、その本はうちの署のものが取りに行くんで。触らないでもらえますか」と言った。素人の意見の扱いなんてそんなものよ、と椎名は笑った。

本当は御崎先生のものだろう本をすぐにも拾い上げたかったのだけれど、和製モナリザがそれを制した。

 あれだけ人を疑って、心に翳りを刻み込んでおきながら、あっさりしたものだ、と腹立たしくもあったけれど、これ以上警察に関わらずに済むのだ、と少しホッとした。

 土曜日。学校は休みだけれど、連れ立った椎名とベニヲは外人墓地のすぐそばにある喫茶店に居た。喪服に身を包んだ二人は向かい合わせに座り、窓から見える冬景色を見つめていた。店内にはサティのジムノペディが気怠げに流れている。

 御崎先生の葬儀で泣き腫らした目を瞬かせ、和製モナリザはひっそりと笑ってみせる。

「先生の旦那様、去年亡くなっていらしたのね」

「うん。知らなかった。生徒が知らないのはまぁフツーだろうけど、先生も知らなかったんだね」

「残念ながら、ね」

 喪主を務めていたのは、御崎先生の一人息子、という男性で歳の頃は椎名と同じくらいだろうか。御崎先生とよく似た顔立ちのほっそりとした人で、母の死からの心労か、いささかやつれた顔をしていた。

 母であった人を亡くした男性は、ベニヲも篠村も知らない家庭人としての御崎先生の姿や、夫を亡くしてからの母の落胆ぶりについても語った。膵臓癌で一年以上闘病していた夫のそばに御崎先生はずっと寄り添っていたのだという。

そして今回、警察から明かされた、御崎先生の『事故死』について触れた息子は、嗚咽しながらも、母と、そして先に旅立った父が天国で再び結ばれているはずだ、と締め括った。その話の間中、先生は泣いていて、ベニヲは何故だか泣けないまま、冬の寒空の下を旋回するウミカモメを見つめていた。



 椎名は括っていた髪をほどくと、ふぅ、と溜息をひとつ吐いた。少し疲れた表情で和製モナリザは大きく伸びをした。

「大人らしくするのって、疲れるわね。ね、藤川さん。少しだけ昔話をしてもいい?」

 ベニヲが小さく頷くと、椎名はやんわりと微笑んだ。まるで少女のように。

「わたしが高校生の時……高2の四月だったわ。今も覚えている。窓から吹く風はまだ少し寒くて、春先の少し白んだ空と満開間近の桜の曖昧な境界が、淡い色合いの水彩画みたいだった。二時限目だった。教室に入ってきた御崎先生が突然云ったの。『今日、日本の純文学は死にました。私は今日はとても授業をできそうにありません』って」

 笑みを唇に浮かべ、懐かしそうに、そしてどこか愛おしげに和製モナリザは思い出を紡いでいく。

「その日ね、川端康成がガス管を咥えて自殺したの。御崎先生の旦那様は新聞記者だったから、いち早くその情報を耳にされたんだと思うわ。わたし、不謹慎かもしれないけれど、御崎先生のその言葉を聞いた時、ああ、なんて美しい日本語なんだろう、って思ったわ。それからしばらく、御崎先生は目も虚ろで、授業もどこか上の空で……そう、それでわたしたちは一年間、好きな作家の作品を読むことになったんだけれどね。わたし、御崎先生が大好きだった。初恋だったのよ。まあ、初恋は実らないものっていうけれどね」

 ほんのりと頬を染めて語る姿はまるで少女のようだった。語り終えると、先生は、大きく息を吐き出し、照れたように笑ってみせた。

「とても憧れたわ。御崎先生に。文学への情熱も、その表現の美しさも。あのときの御崎先生を知っているから、わたし、思うの。御崎先生は死期を悟ったからこそ、救急車を呼ばなかった。自分にとって少しでも納得のいく死を選ぼうとしたんじゃないかしら、って。勿論、先に天国に召された旦那様のこともあったのだとは思うけれど、自分がこのまま死ぬかもしれない、と悟った時、あの礼拝堂で祈りながら死ぬことを選んだんじゃないかって……。先生は口の悪い方だったけれど、敬虔なクリスチャンだったから……最近はどうだったかわからないけれど、昔はよく一人で祈っているのを見かけたわ。声はかけられなかったけれどね」

「……うん」

 泣きすぎて腫れぼったい目を瞬かせると、椎名は眩しいものでも見るように目を細め、言葉を紡いだ。

「音楽も文学も絵画も……表現方法が違うだけで、すべて同じ地平の上にある。そのことを御崎先生は教えてくれたの。わたしにとって御崎先生は、芸術そのもの。文学そのものだった」

 山の音を聞き、その朝、文学は死んだ。

ベニヲは椎名の冷たい指先が、少しでも早く温まるように、とその手を掌で包み込んだ。



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山の音を聴く 赤木冥 @meruta

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