兄と弟の最後の戦場、あるいはリッチャヴィの栄光の聖戦

kanegon

兄と弟の最後の戦場、あるいはリッチャヴィの栄光の聖戦

【起】


 王宮から呼び出されている、と老人が聞いたのは、有雪国から来ている行商人から岩塩を購入し雑談をしている時だった。

「王宮と言われても、マーナ宮か、カイラーサ・クータ宮殿か、どちらだか分からないだろう」

「あっ、カイラーサ・クータ宮殿です。すみません、オヤジさん」

 老人のことを親しみを込めてオヤジさんと呼んだ騎乗の若者は恐縮した。今は急ぎの連絡のために馬に乗って来たが、普段は象使いの戦士だ。

「呼び出しを受けたので、失礼します。どうかお気を付けて北のヒマラヤ越えをして有雪国へお帰りください」

「いえ、まだ長期で滞在しますから。そちらもお勤めご苦労さまです。それにしてもネパール国は面倒臭いですな。二つの王宮に各々王様がいて、両方とも尊重しなければならないとは」

 三十路手前くらいの行商人の言葉に、地元の二人は沈黙しつつもお互い目線を交わした。不敬なので口に出さないが、老人も象使いの若者も、二人の国王が並び立つ現状に不満の種を育てている。

 老人は、若者が連れてきた馬に跨り、若者と轡を並べてダクシナ・コーリー大集落からカイラーサ・クータ宮殿へ向かった。移動しながら若者に状況を聞く。

「何があった。妊娠している象が、もうすぐなのか」

「いえ、急病の象が出まして」

「病気か。象の飼育環境をもっと改善すれば病気は減ります、と以前から意見具申しているのだがな」

 老人は馬上で溜息をついた。

 要望を伝えても、その意見が軍司令官やその上の国王に届くには面倒な手続きが必要で時間がかかる。それはどこの国でも同じだろうが、ネパールの場合、国王が二人並び立っているため、建前上は両方の王に話が通って承認を得なければならない。布告の石碑には二人の王の名前が刻まれるのだ。

「年寄りを酷使しないでほしいものだ」

「オヤジさん、年寄りっていう年齢じゃないですよ」

「もう既に五十歳を過ぎた」

 長生きできる人間が少ない中において、老人は象使いの戦士として長年現役だった。今は後進の指導をしながら象の世話をするのが仕事だ。

 王宮に着いてすぐに象舎へ向かい、蹲っている問題の象を診る。老人は獣の医師ではないのだが、長年象と付き合っているだけに、原因はすぐ想像がついた。

「何か悪い物でも食べたのだろう。糞が下痢気味だ。少しずつ水分摂取させるのを忘れないように。あと、餌は……」

 象舎で働く者たちに指示を出していく老人を、象使いの若者は尊敬の眼差しで仰ぎ見ていた。



【承】


 老人は後日、再びダクシナ・コーリー大集落であの行商人を見かけた。行商人は、使用人たちに的確に指示を出し、買い付けた商品を馬車に積み込ませていた。

「黒点のある赤小豆が手に入ったんです」

 二十代後半の行商人は快活な笑顔を見せた。

「先日の呼び出しの件、解決されましたか」

「お陰様で象は回復しました」

「象の世話をしておられるのですか」

「ええ。もっと飼育環境を改善したいとは思うのですが」

 他国の者に国の内情を話すものではないが、愚痴を言わずにはいられなかった。

「先日もそんな感じのことを仰っていたように思いますが、大きな声では言えませんが、大集落の皆さん、現在の国王にあれこれ不満を抱いている様子ですね」

 行商人は、後半の言葉は声を小さくひそめた。

「行商人さんはご存知かどうか、二十年ほど前に政変があったのですよ。その時私の弟が巻き込まれて行方不明となってしまいまして。当時の弟は、今のあなたくらいの年齢でした」

 老人は昔を懐かしむ遠い目をした。

 老人の若い頃は、国王に忠誠を誓う象使いの戦士だった。当時の国王はアンシュ・ヴァルマーといい、養鶏、養豚、魚の養殖の振興を行い、農業用水路の拡充にも力を入れていた。学者としても優秀なアンシュ王を、民衆も皆尊敬していた。

 だが、アンシュ王が崩御し、後継者として指名していた王が即位後程なく、政変が起きた。

 新王の実弟が兄を殺して王位を簒奪した。血腥い惨劇を唆したのは宰相であり、そちらが実質的な首謀者だった。実権を握った宰相は、やがて自ら王と名乗るようになり、ネパール王国は二人の王を戴く国となった。

 その政変から既に二十年ほどの時間が経っている。当時の簒奪王も宰相も既に故人となっているが、二人のそれぞれの息子が相変わらず二頭政治を続けている。

「王様が誰であっても、アンシュ王の時のような善政を敷いてくれれば文句は言わないものを」

 民衆が秘かに不満を口にしているということは、それほど善政ではないということだ。

「次に王様になる人は、きっと良い政治をしてくれますよ」

 行商人は、膝の下で濃紺色の脚絆の紐を結び直しながら、小声で言った。



【転】


 翌年になると、老人は体調を崩しがちになった。

 象の糞を運んで片づけるのは重量物を運搬する過酷な労働で、ほぼ若手に任せる形になった。

 アンシュ王がまだ在位であった自分の若かった頃に較べたら、王国の有する象軍は弱体化していると言わざるを得ない。飼育環境を改善するだけで大幅に持ち直すことができるのに、それが叶わずもどかしい。

 だが、自分はもう長くは生きられない。王国の象軍がどうなろうと、なるようになればいい。

 そう思っていた夏、ダクシナ・コーリー大集落で国王に対する反乱の火の手が上がった。近年、民衆は王に対する不満を募らせていたが、遂に我慢の限界を迎えた。

 ネパール王国の中心地であるカトマンズ盆地の更に心臓部がダクシナ・コーリー大集落であり、老人もここに居を構えていた。

 まるで、ダクシナ・コーリー大集落が立ち上がるのに呼応するかのように、ユーパ大集落、ナヴァグリハといった地域でも反国王を掲げた反乱が勃発した。

「この反乱、自然発生という感じではないな。まるで、油を撒いて同時に火をつけたかのような」

 老いたりといえども、元は象使いの戦士である。戦いの趨勢を見る目は衰えていない。

 カトマンズ盆地の中央に位置する、特に多くの人口を抱える三つの地域が同時多発的に反旗を翻したのだ。国王といえども不利な状況だ。

 当然ながら、事の重要性は二頭政治の国王側も即座に理解した。

 マーナ宮に座する国王が動揺して右往左往している間に、カイラーサ・クータ宮殿で政務を執る宰相にして王を名乗る権力者は、大胆な決断を下した。

「ダクシナ・コーリー大集落に、象軍部隊を投入せよ。あそこが反乱の中心地だ。ダクシナ・コーリーさえ制圧すれば、他の所は勝手に沈静化する」

 二つの王宮の象舎がとたんに慌ただしくなった。

 王からの命令を聞いた老人も、さすがにこの決断には驚きを禁じ得なかった。

「外敵ではなく民衆反乱の鎮圧に、ネパール王国最強の精鋭部隊を投入するというのか。しかし、象軍部隊は、市街戦には、あまり向かないのに」

 最強象軍部隊の投入で国王側圧倒的優勢に傾いたか、と思われたが、老人の見立て通り、市街地では象の突進力も活かし切れない。

 戦線が一進一退で膠着状態になってきた頃、音吐朗々たる声がダクシナ・コーリー大集落に響いた。



【結】


「二頭王政に不満を抱く民衆よ! そして、王の命令に渋々従っている象軍部隊の者どもよ! こちらにおわすお方をどなたと心得る! 二十年前、弟に殺されたウダヤ・デーヴァ王の長男にして、リッチャヴィ王朝ネパール王国の正統な王位継承者、ナレーンドラ・デーヴァ王子殿下にあらせられるぞ!」

 象軍部隊の後方で戦況を見守っていた老人も、その声の方に注目した。ヤクの尻尾の毛を房飾りとして付けている兜を被った、威風堂々たる三十歳前後の男が立っている。

「あれは……去年見かけた行商人……」

 ナレーンドラ・デーヴァ王子は亡命先の有雪国、後世の呼称ではチベットから、行商人に身をやつして故郷へ来ていた。情勢の偵察と現国王への離反工作を行っていたのだ。

 そして主人を守るように前に立ち、周囲を支配するような声で王子を紹介した側近の姿を見て、老人は瞠目した。

「プリヤジーヴァ……生きていたのか」

 老人の弟は、二十年前の政変時に、幼い王子と共にネパールを脱出して有雪国に亡命していて、存命だったのだ。

 その事実を肯定するように、ナレーンドラ王子が口を開く。

「今、王太子付大臣プリヤジーヴァから紹介のあった、ナレーンドラ・デーヴァである。ネパールの人々よ、今こそ悪しき二頭政治を終わらせよ。我が皆を導く。そして、象軍部隊の者たちよ、今、我に向けている槍を方向転換し、二人の簒奪王たちに向けるのだ!」

 民衆の士気は上がり、寝返りを呼びかけられた象軍部隊の者たちは怯んだ。

 この時、老人の心は決まった。元象使いの戦士であったが、元が取れた。

 象使いが倒されてしまい迷子になっている象を見つけ出し、老人はその象の上に乗った。これが人生最後のつもりで大声を張り上げた。

「象使いの戦士たちよ! 本来ならば守るべき民衆に槍を向けることに後ろめたさを感じよ。反乱は良き統治を怠った二人の王の責任だ。象軍部隊の環境の悪化を見よ。我に続け! 真の王子を先導するのだ!」

 老人の乗った象は、背後に象軍部隊を引き連れてカイラーサ・クータ宮殿へ進んだ。

 主力中の主力である象軍部隊の離反により、戦いの趨勢は決した。

 戦場で躍動するナレーンドラ王子の勇姿と横に付きそう弟の姿を、象の上から老人は満足げに眺めていた。

 その時、どこからか飛んできた一本の矢が老人の喉を貫き、老人は象から転落した。

 激しい戦闘の末に勝利したナレーンドラ・デーヴァは国王となり、四十年弱に及ぶ長期政権の中でネパール王国の栄光を築いた。

 最期は老戦士として戦場に散った、王太子付大臣プリヤジーヴァの兄については、その名は後世に伝わっていない。

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