柩の丘③

「ヴァラン」


 しゃらん、と透明な音がして、視界を塞ぐ柔らかな手。途端に意識が現実に引き戻され、えづくように息を吸い込んだ。

 よく手入れされているのであろう滑らかな指が、あやすように頬を滑る。


 しゃらん、しゃらん、しゃらん。


 ありもしない金属が鼓膜の内で音を立てる。今、少年の肌を飾るものは何もない。ただ纏った白い布だけがその肢体を覆っている。だというのに、なぜ、こんな音がするのだろう。

 ふしぎに思うよりも先に、不安になる。

 怖さなど感じたことはないはずなのに、己が身の震える感覚に心を揺さぶられる。暗闇にでも放り出されたような錯覚に陥りそうで、目の前の細い腕を掴んだ。


「王サマ」


 搾り出した声で、縋るように口にした呼び名でさえ、少年を掴めないのがもどかしい。

 どうして、と記憶の底で幼い声がなく。

 何を問おうとしているのか、ヴァラン自身でさえわからない。


「王サマ」


 そう呼ばう度に、近づいては遠ざかる影。

 そっと伸ばされた手が、幾度も背を撫ぜる。

 幼くか弱い光が、闇よりも深く己を穿つ。

 誰かを救うことが彼の在り様であるのなら、彼自身は誰によって救われるのか。

「大丈夫だよ」

 耳を滑る声は貴く脳へと響く。何をもって告げられたのか、問うすべはなく。されども己の考えなど見透かしているかのような言葉に、じくりと心の臓が疼く。


 痛くて、苦しくて、それよりなお、愛しくて。


 己の居場所すら見失いそうなほど、淡い夢に侵されている。

 それを優しさと、あるいは人は呼ぶのだろう。

 遠い昔に、誰かがそう名付けてしまったように。

 人の感情に名前を付けようとしたのは、一体なぜなのだろう。

 胸に咲くこの想いを、胸を割くこの想いを、形にしたいと願ってしまったのか。

 ああ、けれども。

「いらねえよ」

 もしもその先で失ってしまうものがあるのなら、名前などなくていい。

 そんなものは要らない。

 こんなものに付ける、名前など――。


『……誰も、呼ばないんだ』


 ふいに甦った声に、ヴァランははっと目を見張った。

「ヴァラン?」

 ふしぎそうに己を見つめる少年の顔。疑問を抱くことすら知らない神の供物は、自由に名乗ることなど許されていない。

 だから、ヴァランは、彼の名を知らない。

 その名を知りたいと、思うことがないわけではない。けれども、その度に彼が寂しそうに笑うのだ。

『オレの名前など、あってないようなものさ。お前に名乗ってやることすらできない』

 すまないな、と零される言葉の、なんと憎たらしいことか。それがただの強がりであったのならどんなにか良かったろう。

 暴いて、冒して、神すら敵に回しても。

 その身をすくうことは、確かにできるのに。

「行くなよ、王サマ」

 口にしてしまってから、どうしようもなく空しくなる。ヴァランを見つめる少年は、やはり寂しそうに微笑んでいる。いや、もしかしたら、寂しさなんてないのかもしれない。ただ、そうあってほしいと願っているだけで。

「す……」

 まない、と続きそうになる言葉を塞いだ。苛立ちと悔しさが胸中を渦巻いている。何一つ正しさなどないこの世界で、ただ一つの別れだけが確かな未来を象る。たったそれだけの事実で、すべてが崩れてしまいそうになる。

「行くなよ……」

 手放したくなどないと、初めて願ったのだ。たった一つの真実に行き着いたところで、何も変わりやしなかった。

 幾度考えたところで、幾度あの声に応えたところで、何度あの日の光景を思い出そうとも。


 この少年と過ごした幸福だけは、確かに本物でしかなかった。


「ああ」

 返される頷きは、確信を得させるものではない。

 行かないよ、とその言葉だけが聞けたのなら満足するのに。たとえ、嘘でしかないと知っている言葉でも。

「行こう、ヴァラン」

 そっと手を握られて、少年を見つめる。まっすぐにヴァランを見返す、紅い瞳。

 そこに映る景色は、きっと現実よりも美しい。今この瞬間を流れていく時も、この先に訪れる未来も、あるいは、すでに過ぎ去った時までもが、きっと少年の瞳には変わらず映るのだろう。

 これはそういう生き物だった。

「一緒に、行こうぜ」

 王家のものらしからぬ、下町で交わされるような言い様が耳につく。

 それがどんな意味をもつかなんて、ヴァランは今まで考えたこともなかった。

 共に行ける場所など、本当にあるのだろうか。

「王サマ」

 望みは、どこまで許されるのだろう。

 この手を取って、ただそばにあるという、それだけのことが。

「一緒だよ」

 だから、大丈夫だ。

 そう言って、少年が花のように微笑むから、ヴァランは信じざるを得ないのだ。ずっと、などという永遠を告げる言葉がなくとも。

「……そうだな」

 頷いて、ヴァランは少年の手を握り返す。最初から、何もかもが間違っていたのだから、いまさら間違いが一つ増えたところで変わらないだろう。欠けたものしか互いになく、合わさったところで一つになれるわけでもない。


 だから、せめて、今だけは。

 そう願いながら、手を取り合って歩いていく。


 たとえこの先ですべてが失われてしまうとしても、今この時だけは、確かに共にあるとわかってしまうから。



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三千一夜物語 空野 @Luciferian

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