ソリスティックな彼女と私はハーモニーを響かせることが出来るのか?

澤田慎梧

ソリスティックな彼女と私はハーモニーを響かせることが出来るのか?

 私が指揮棒を振るう「大船交響楽団」は、神奈川県鎌倉市を中心に活動する市民オーケストラだ。

 メンバーの大半が他に職を持つアマチュア楽団ではあるが、団員数は百人を超える。フル・オーケストラもいける中々の大所帯で、レパートリーも多岐に渡る。

 クラシックから童謡、現代音楽やアニメソングまで。団員達からのリクエストに応じて、指揮者の私と音楽監督の妻とで演目を考えるのは実に楽しい作業だった。


 しかし、二年ほど前に妻が亡くなり、その追悼公演もコロナ禍で中止になるなど、ここ最近は災難に見舞われていた。

 かつてプロのピアニストとして活躍していた妻は、「鬼コーチ」と呼ばれる音楽監督であった一方、団員達のプライベートな相談にも乗る「楽団の母」でもあった。そんな彼女がいなくなったことで、楽団はしばらくの間、火が消えたように冷めたムードに包まれていたのだ。


 ――けれども、それは今までの話。

 団員達の熱望により延期となっていた追悼コンサートの開催が決定し、今度はみんな火が付いたように練習に打ち込み始めた。


 とはいえ、コロナ禍の中での練習には色々と気を遣う。

 団員全員がソーシャルディスタンスを守れるような広いスタジオを借りるにはお金が必要だし、全員の予定が合うとも限らない。だから自然、個別練習やパート練習が主体となっていた。

 指揮者であり音楽監督も兼任することになった私は、出来るだけそれぞれの練習に足を運び、全体の方向性が大きくずれないように苦心する日々だ。

 本当に演奏をまとめられるのか、不安で胃が痛い。


 だが、最も胃が痛くなる案件は別にあった。

 それは――。


「ちょっと、指揮者コンダクター。ちゃんと聴いてますか?」

「……すまん。ちょっと考え事をしていた。もう一度言ってくれるか」

「もう、しょうがないんですから。ええとですね、ここからここの展開なんですが――」


 私の自宅には、妻がプロ時代に使っていた防音室がある。彼女が愛用していたグランドピアノも健在だ。

 今その部屋に、一人の女性を招いていた。妻の教え子であり歳の離れた親友でもあった若手ピアニストの「西園寺ちえり」だ。プロとアマチュアの狭間を行ったり来たりするセミプロで、妻の追悼公演で客演として弾いてくれることになっている。

 彼女は何故か私のことを「指揮者コンダクター」と呼ぶ。その理由は今以て謎だ。


 ――すぅっと息を吸い、彼女が演奏を始める。

 途端、彼女の指がニ短調の物悲しい音階の中にも情熱を秘めた激しいメロディとリズムを紡ぎ出す。

 親指と薬指でオクターブを弾きつつ、薬指と小指でトリルを刻む独特の演奏が特徴的なこの曲は、ブラームスの「ピアノ協奏曲 第一番」だ。


 若きブラームスが複雑な感情の流れや様々な技巧を盛り込んだ意欲作だが、ピアノ協奏曲としてみると渋い評価を下す人も多い。

 ブラームス自身が卓越したピアノ奏者だった故か、超絶技巧がそこかしかに盛り込まれているのだが、その割にこの協奏曲はピアノが「主役」に感じられない。

 「協奏曲」というとピアノやヴァイオリン等の独奏ソロが主役のものを思い浮かべる人が多いと思うが、この楽曲はオーケストラとピアノとの融合、あるいは相克を目指している為、人によっては地味に感じるらしい。

 「ピアノがオーケストラの助奏オブリガード」等と揶揄する人までいる。


「――どうです?」

「完璧としか言いようがないね」


 演奏が終わると彼女はクールな表情でその出来栄えを尋ねてきたが、私には「完璧」以上に返す言葉がない。

 超絶技巧を見事に弾きこなしているだけなく、私が示した方向性、うちの楽団と合わせた時の想定までしっかりと盛り込まれている。

 だが――。


「ちえり、本当にこの曲でいいのかい?」

「ええっ? どうしてそんなこと聞くんですか」

「いや、君にはどちらかというと、もっと独奏的ソリスティックな曲の方が似合うと思うんだが……」


 ちえりの演奏技術は本物だ。それに華がある。演奏家としての彼女は間違いなく「ソリスト」だ。

 せっかく彼女を客演として迎えるのだからと、もっとピアノが目立つ曲も提案したのだが、断られていた。


「だって、先生奥さんはこの曲を演奏らずに亡くなったじゃないですか。だったら、私が追悼として弾くには、この曲が一番だと思うんです」


 ――そう。実はこの曲は、妻が演奏する予定だった最後の曲なのだ。

 公演に向けて練習を重ね、その半ばで病魔に倒れ、そのまま逝ってしまった。私としても心残りではある。

 それだけならば美談ともなるのだが、ちえりがこの楽曲を演奏する理由は、それだけではなかった。


「それにぃ、前にも言いましたけど、この曲ってとってもじゃないですかぁ」

「っ……!」


 ちえりのその言葉に、思わず言葉を詰まらせる。

 彼女のクールだった表情はいつしか小悪魔的かつ蠱惑的な笑みへと変貌していた。


 「この曲が私達らしい」という、ちえりの言葉の意味は分かっている。

 ブラームスがこの曲の制作に取り組んだ三年余りの間に、彼の身には様々なことが起こっていた。中でも大きな出来事が、敬愛する恩師の一人であるシューマンの死と、彼の妻クララとの関係だろう。

 シューマンを心の底から尊敬し信頼しあっていたブラームスだったが、彼は同時に十四歳も年上のクララと恋愛関係に近い状態にあったともいう。


 ちえりは、ブラームス達三人と私達三人の関係が似ている、と言いたいのだ。

 ――誤解のないよう断っておくが、私はちえりと間違いを犯してはいない。今でも妻を愛している。

 けれども、ちえりの方はどうやら昔から私に好意を寄せていたらしく、妻もそのことを知っていたのだという。


 おまけに妻は、病床でちえりに「夫のことは貴女に任せたわ」等とトンデモナイ遺言を遺していたらしいのだ。

 ああ妻よ! なんてことを言ってくれたんだ! ちえりはすっかりその気だぞ!


「ちえり。それを言うなら、ブラームスは結局クララと結婚してないぞ。一生、良き友人ではあったみたいだが」

「それはそれ、ですよ! 私はブラームスみたいに奥ゆかしくないんです! あ、でも指揮者コンダクターが私になびいてくれないんなら……ブラームスみたいになっちゃおうかぁ」

「ブ、ブラームスみたいに、なる?」

「はい。ブラームスって一生独身だったんですけど、実は恋人は沢山いたんですよね~。婚約までした人もいたのに、結局は結婚しないで独身貴族ですよ。きっと、どんな人を愛してもクララの影を追っちゃったんですねぇ。――私も色んな男達と情を交わしつつ、心の中で指揮者を愛し続けちゃおうかなぁ~」


 「よよよっ」と泣きまねをしつつ、こちらへ流し目を送るちえり。

 ピアノを弾いている時はあんなにクールな美人なのに、私をからかう時はまるで童女だ。可愛すぎてずるい。


「ああ、ブラームスと言えば、実はクララの娘に横恋慕してたって話もありますね! ……そう言えば息子さん、段々と指揮者に似てきましたね? じゅるり」

「息子はまだ中学生だぞ! 勘弁してくれー!」


 ――等と、練習そっちのけで今日もちえりにからかわれる私だった。

 まったく、彼女と二人きりだと気が休まる暇がない。「だったら二人きりを避ければいいじゃないか」と言われそうだが、そこはそれ、複雑な男心というやつだ。


 正直なところ、私もちえりのことは嫌いではない。

 けれども、妻が亡くなってまだ二年なのだ。心の整理なんてつくはずもない。彼女を失った痛みが和らぐまでに、あと何年かかるか分かりもしない。


 だが、もしも。もしも私の心が妻以外の誰かを受け入れられるまでに癒え、その時にまだ、ちえりが私を好いていてくれたのなら……その時は覚悟を決めようと思う。

 果たして、私とちえりの「独奏」が「合奏」となる日はやって来るのか。それはまだ、誰にも分からない。


(Fine)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ソリスティックな彼女と私はハーモニーを響かせることが出来るのか? 澤田慎梧 @sumigoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ