翡翠

猿川西瓜

お題 尊い

 尊いという感情が嫌いで反吐がでる。

 引き出しの中の整理されてない錠剤を飲み、体内で暴れ狂う憎悪を制御する。

 内臓の中で火事が起きている。

 じっとしていられなくて、煙草に火をつけて荒い呼吸で灰を散らかした。

 世界が卑しさで満ち足りますように。


 情報世界で氾濫する奇怪な表面的感情も、内的な卑屈さとのズレによって余計に際立つ。それが焦りに似た我慢の出来なさを生む。


 他人とは目を合わせない。「他」との壁が、私は限りなく薄いからだ。自分とその人との境界が煙のように消えてしまう。私の行きたい「本屋」に、行けなくなってしまう。


 母に、丘の上の病院へ連れて行ってもらった。

 精神科の先生に、アキネトンを筋肉注射してもらう。

 筋が切れていく小さな音が身体に響く。

 効き目は十五分後に来るという。

 母が運転する帰りの車の中でじっと身を固めていると、効き目がやってくるのがわかった。


 白い靄が車内に忍び込んできて、ゆっくりと身体を包み込んでいく。

 ふんわりとした「熱」が血管の中を走っている。

 焦りに似た心持ちが、優しく緩和され、薄れていく。

 それを血管で味わうことによって、他の何ものも気にしたりしなくていい安心感で満たされていく。

 光だけで構成された翡翠の中の模様を眺めているように、いつまでも目で追って酩酊を与えられるままでいられる。


 母親に、無理にお願いをした。

 「本屋」に寄ってもらうことにしたのだ。ちょっとしたわがままだった。己の意思で世界が動く瞬間を楽しみたかった。


 車の助手席を降りて一歩踏み出すと、熱いお湯を浴びた時と同様に皮膚をじいんと走るものがある。

 しばらく身体が止まってしまった。

 足の裏から頭の先まで登ってくる揺らめきと格闘する。

 倒れそうになるけれども、母にそっと背中に手を添えられているので倒れない。

 それが気持ちよかった。


 痺れとともに私はある。この世界から私は独立している。私は何者でもなくなった。夢の中に、確かにいる。

 注射の跡だけが、現実と繋がっている。少し、痛むんだ。



 本の匂いはどこか懐かしい。私の鼻腔を甘く刺激する。

 痺れは激しくなる。口から、思いもしない言葉が漏れる。

 自分がどれほどの声量だったのか、判断がつかない。

 白い光が、視界の端にゆらめいている。手足が、熱い。

 景色がだんだんと下へとずり落ちていく。楽しくもあり、怖くもあった。

 もう、車に戻らないと。

 プールの中を歩くように、私はゆっくり振り返った。

 ドアを開けたらそこは本屋だった。

 思わず、笑ってしまった。

 口から、またも思いもしない言葉が漏れる。分厚い本を読んでいた青年が、遠慮がちにこちらを見た。

 本屋では、本を読まなくてはならない。それしか、思い付かない。

 窓の外に、狐の嫁入り。小型ピアノが勝手に鳴る。所々音が出ない。地面が濡れていて、夏の日の香りがする。込み上げてくる猫の鳴き声。にゃあ。頭の隅に、母親が車で待っていることが閃く。身体は靄のように広がって流れていく。

 揺れる本棚に呑まれる。その腹の中で、かろうじて一冊を手に取る。


「翡翠」小さな文庫本だった。私の手のひらに丁度いい。頁をめくる。冒頭はこんな風に始まっていた。

『本の匂いはどこか懐かしい。私の鼻腔を甘く刺激する。

 痺れは激しくなる。口から、思いもしない言葉が漏れる。

 自分がどれほどの声量だったのか、判断がつかない。

 白い光が、視界の端にゆらめいている。手足が、熱い。

 景色がだんだんと下へとずり落ちていく。楽しくもあり、怖くもあった。

 もう、車に戻らないと。

 プールの中を歩くように、私はゆっくり振り返った。

 ドアを開けたらそこは本屋だった。

 思わず、笑ってしまった。

 口から、またも思いもしない言葉が漏れる。分厚い本を読んでいた青年が、遠慮がちにこちらを見た。

 本屋では、本を読まなくてはならない。それしか、思い付かない。

 窓の外に、狐の嫁入り。小型ピアノが勝手に鳴る。所々音が出ない。地面が濡れていて、夏の日の香りがする。込み上げてくる猫の鳴き声。にゃあ。頭の隅に、母親が車で待っていることが閃く。身体は靄のように広がって流れていく。

 揺れる本棚に呑まれる。その腹の中で、かろうじて一冊を手に取る。


「翡翠」小さな文庫本だった。私の手のひらに丁度いい。頁をめくる。冒頭はこんな風に始まっていた。

『注射の跡だけが、現実と繋がっている。少し、痛むんだ。



 到着した時、母は「本屋、閉まってるよ」と言った。隣の精肉店から、高校野球の実況が聴こえてくる。車内のラジオでも同じ試合が中継されている。

 夢の始まりはいつからだろう。始まりがない物語だったら?

 なんとなく、分かった。

「帰ろう」と母親に伝えて、私は読みかけの本を開いた。

「翡翠」

 小さな文庫本だった。

 言葉は翡翠を研磨した時に生まれたという。

 栞を挟んでいた頁をそっと開くと、こう書いてあった。

『尊いという感情が嫌いで反吐がでる。

 引き出しの中の整理されてない錠剤を飲み、体内で暴れ狂う憎悪を制御する。

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翡翠 猿川西瓜 @cube3d

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