人間が生きている内にその尊さを実感できない最たるものは命である──と死神は言った

鱗青

人間が生きている内にその尊さを実感できない最たるものは命である──と死神は言った

「ええやんか、なあ。いっぺんでええさけ、死んどきまっひょ!」

 僕は宙に浮かんでいるサングラスをかけて関西弁をしゃべる陽気なバクいぐるみを胡乱うろんな目で眺めた。

 日曜日の正午の山手線の駅。ホームには平日よりは少ないがそれなりの混雑がある。

「なぁ兄やん聞いとる?ワイの提案呑む気んなった?」

「断る。まだ死にたくないし、第一お前が本物の死神だっていう証左も無い。僕の妄想だって可能性もある」

「イケズやなぁ。若いくせうたぐりり深いとモテへんど」

「僕がモテるとかモテないとかお前に関係ない!」

 思わず声を荒げてしまった。口許を抑えて周囲をはばかる。一瞬数人がこちらをチラ見したがそれだけだ。 

 他の乗客達は誰も騒いでいない。昼の日中ひなかに人語を大声で話す縫いぐるみが浮遊しているこの状況で。それがつまり僕個人の疲弊ひへいした神経が形作ったまぼろしであるという証拠。

 きっと今日受けさせられるオーディションの緊張のせいだ。そうに違いない。

 こいつは『死神(自称)』。僕は織田おだ信仁のぶひと。高校一年生。今朝目覚めたらベッドの上に死神こいつが浮かんでいた。それからずっと付きまとわれている。

「ついこないだまで死にたがっとったやん」

「…!何でそれを」

「そらぁワイはプリチーキュートな死神やから♡」

「黙れ葬式饅頭マンジュウ

「そっ⁉︎」

 自称死神はサングラスがかしぐくらいずっこけた。白黒の毛並みに丸っこい体型。アハっ。僕ってネーミングセンスあるな。

「ひっどいなぁ〜傷付くやんか。死神であるワイを信じいや。コイツで気持ち良う絶命させたるで」

 関西弁でぶうぶう文句を言うブサ可愛い獏は、折畳み傘程度の太さ大きさのデフォルメされた槍を構える。こわいというよりユーモラス。

「そこは鎌だろ死神なら」

「ワイ上方かみがたの死神やさけ槍なんや」

「知るか。退かないと電車に轢かれるぞ」

 丁度ホームを快速電車が通過しようとしていた。死神はふよふよと線路の上に浮かんで構内の時計を眺めていたが、太短い指をパチンと鳴らす(おっさん臭い)。

「ほなこれで信じさせたるわ」

 死神の指が、僕達より電車の進入方向に近い位置でホームはじに立っていたサラリーマンに向けられる。

「ホイっとな」

 プイと指先を振った。それにつられるようにサラリーマンは構内に走り込んでくる電車にダイブした。ブレーキがレールに爪を立てる金属音が鳴り響き、僕と死神の目の前で電車が停止する。車体の下は血みどろに染まっていた。

「な?これで信じたやろ?」

 得意満面の笑顔で腕組みをする死神と僕を、膨れ上がる悲鳴と怒号が包み込んだ。

 

 幸い事情聴取などを受ける事もなく(協力したところで「ったのは死神です」など証言にもならないだろう)、目的の新宿駅で改札を出た。西口のオフィスビル群の方を目指す。

「ほんで兄やん何処ドコ行くところやねん」

 ひと一人殺しておいて悪びれる様子もない死神。

「友達と待ち合わせ。アイドルのオーディションを受けるんだ。だからくっついていられちゃ集中できない。さっさと消えてくんない?一人殺して満足したろ?」

「アレはアレ。放っといても死ぬ奴や。ワイが欲しいのはお前さんのいーのーち!」

「…それだけはダメ。それ以外なら何とかしてやれるかもしれないけど?」

「他のモンかいな」

 肩に沈んだ猪首のうなじ辺りを盛んに掻きむしり思案している。

「よっしゃ、一発ヤらせてんか。ほしたら諦めるよって」

 僕は無言・無表情のまま、死神の股間に鉄拳を打ち込んで振り抜いた。ビル壁面に叩き付けられた死神は股間を抑えて悶絶もんぜつ

「ぼががぎぎくまげげげ…な、何すんねん」

「それはこっちの台詞!曲がりなりにも神様が人間の貞操を交換条件にすんな」

「曲がりなりにもアイドルがキュートな死神の金的パンチしてええのん…?」

「それは…別に受かったわけでもないし」

 歩き始めた僕を追って、内股でヨタヨタと死神が飛んでくる。

「まあ確かに兄やん端正なイケメンしとるもんな」

 死神の言葉はおおむね正しい。テナントカフェのウィンドウに映った僕の容姿は、貴公子という言葉から抜き取って再形成したように繊細で美しい。

「でもそれだけだ」

 男らしい勇気も気概も、他を圧倒するような知性もない。演技?学芸会で王子役に抜擢されたけど、舞台袖でたった四つの台詞を忘れ終始無言で押し通した。歌唱?ジャイアン。ダンス?オールウェイズ盆踊り。

「ひゃっひゃっひゃ。笑ってまうくらい才能無いのぅ」

 畜生。楽しそうに笑い転げやがって。

「お前も他を当たれよ」

「ほならやめときや?芸能界ゲーノーケーなんて実力主義の魔界やで。理不尽のまかり通るとこや。先輩を立てるんにへつらったり察したり精神ココロ削られるし、独自ルールに抵触すれば一気に干される。あと誹謗中傷。ストーカーもごっつ居るし。ほんで自殺や。そうなる前に諦めや」

「詳しいじゃないか」

「ま・そこは死神やし」

 僕だって逃げられるならそうしたい。でも、ずっと傍に居てくれた大事な友達の勧めだ。

親友マブダチけ?」

「誰よりも大事な奴なんだ」

 いつも明るく悩みを聞いて、僕を見捨てずに元気付けてくれた。アイツの頼みを断りたくない。

「惚れとるいう事け?」

 僕の鼓動が停止して瞳孔が一気に開く。

「ななな何を、イヤイヤイヤそんなわけないじゃん」

「判り易いやっちゃのう。ほんでヘタレな兄やんは、なけなしの勇気奮い立たせてオーディションに来たゆうわけか」

 まあそういう事だ。本当に察しがいい死神だな。

「しゃあけどこのままじゃワイは結局…」

「何だよ?」

 思案げに猪首いくびの後ろを掻く。こういった仕草は妙に人間じみていて…待てよ、どこかで見たような?

 中途半端な太長い鼻をブスンと鳴らして頷いた。

「ほしたら代打で手を打ちまひょ。そいつを消せば未来は変わる。ワイも苦しまんですむさけな」

「何言ってるんだお前」

「ほんで大事な奴ってあれか?あそこの交番の前に立っとる糸目雀斑そばかすの微笑みデブ?」

 死神の言う通り、僕の方にゆったり手を振っているのは小学校の時に転校してきた黒田飛男くろだとびお。野球漫画のキャッチャーみたいな体型で目は細く、日焼けの頬に雀斑が散っている。僕の大親友で…初恋の相手。

 高校生になりクラス替えで別々になった途端、僕はイジメを受け始めた。彼が奔走して担任や親に知られる前に収束できたのだが、自分に自信がなくウジウジした僕は変わるべきだと提案してきたのだ。

 だから今日此処ここに来た。かけがえのない親友、恋しい人の願いを叶えたくて。

 遠くから遅刻だと叫んでくるのにゴメン、と叫び返した。彼が怒る事は滅多に無い。というか一度しか見た事がない。糸目が刮目かつもくし、優しく哀しげな三白眼ににらまれて、僕はイジメによる自殺を思いとどまったんだから。

え奴やん」

「馬鹿がつくお人好しさ。僕なんかに懸けて…勝手に写メをオーディションに送っちゃってさ。一次審査に通ったのだって数合わせ。当て馬?咬ませ犬?そんなもんだよ。それなのに…」

「兄やんにとって唯一無二の存在ちゅうわけやな。ほなら」

 代わりに命を狩るのに相応しい。死神の言葉の意図が背筋に落ちて理解できた時、僕は夢中で相手を掴んでビル横の路地裏に駆け込んでいた。

「何言ってるんだ?ダメだ絶対ダメだ!他の誰でも良いけどアイツだけは殺しちゃダメだ‼︎」

 お、と死神の口が丸くなる。

「けどタイムリミットあんねや。それに生きとる内に一番いっちゃんその尊さを実感できひんもんが命やないか。ワイに任せとき、あんじょう殺したるよって」

「あいつは関係ない!僕を応援してくれてるだけだ!だから殺さないでくれ‼︎」

 死神はユニークな造形の顔に酷薄な笑みを作った。

「もう遅い。決めた。あのデブの心臓をこいつで貫く。一瞬で楽にしたる」

 ふわ、と死神が動いた。僕は頭の中が真っ白になり、無我夢中で相手を捕まえた。小さな縫いぐるみの体を壁に押し付け、槍を取り上げあべこべに渾身こんしんの力で死神の胴のど真ん中に打ち込んだ。

 ごぶ。胸元を槍に貫かれ、死神の口から深紅の血が溢れ出る。

「あ…ご…ごめん…」

「…何で謝るのん…」

「だ…だって僕…殺すなんて」

 死神のサングラスがずれ、優しさと哀しさをたたえた瞳が現れる。

…男冥利に尽きるやん…」

「な、何の事?」

「ええから聞いとき。どうせ忘れてまうんや…意志を持って誰かをほふった記憶は魂に刻まれて残る…それが自殺願望のブレーキになるねんで…」

「自殺?今はそんな事考えてないよ」

「…遠い未来の話や…もう…たへん…ノブっち…夢叶えても…自分自身を信じて…自ら命を絶つやら…せんでくれ…」

「未来?夢?何の事⁉︎」

 死神がガクガクと痙攣する。その周囲に帯電の細い蛇がうねり始めた。

「活動限界や…回収装置が起動…時空震に巻き込まれんよう離れとき…」

 ゴウ、と風が生まれた。死神の体を中心に極小の竜巻になる。

「死神!お前何で僕の所に現れた⁉︎」

「薄情なやっちゃ…まだ解らんのけ…」

 ストロボを連続で焚くよりも眩しい閃光の連続。気を失う寸前、忘れるな、という死神の声が聞こえた気がした。

 

「ノブっちおっそいで!」

 ビルの裏路地に倒れていた僕を、飛男が助け起こす。

「んー、無理だ。もう既に気分悪い。吐き気がする。頭痛も。悪寒も」

「オカン呼ぶのはやめてんか〜高校生にもなって情ない〜」

 うんざりした顔で糸目を引き伸ばすと、リュックに入れていた人形を取出とりだした。

「ほれ!これを拝みぃ。待っとる時間にゲーセンで当てた。験担げんかつぎや」

 槍を持つ獏の人形だった。ゲームか何かのキャラクターなのだろうか、サングラスをかけて槍のような物を握っている。

 僕は苦笑してそれを撫でる。どこか懐かしいような気がした。

「さ!オーディションの集合時間30分前や。気張っていくでぇ〜!」

「もし受かったらお前が責任持ってマネージャーやれよ。てかお前以外イヤだからな僕」

「分かった分かった。本当ほんまに甘えん坊さんやなあ」

 飛男は僕の手を握って引いていく。その温かさを頼りに、僕は芸能界へ続いている会場ビルのドアをくぐり抜けた。

 

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