ある少女へ 第4部 (連載4)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第4話


              【1】

  四月。新学期が始まって間もないある放課後、アミコが同級生のマスミに訊ねました。

「タエコ、二月に亡くなったよね。でもそのタエコを学校で見かけたって言う人が、何人もいるみたいなの」

 マスミが答えました。

「その話、わたしも知ってるよ。でも変よね。タエコと一番仲が良かったのはわたしたちなんだし、わたしたちの前に出てきたって、ちっともおかしくないのにね」

 するとアミコがうなずきながら、

「そうよ。タエコだったら、たとえ幽霊だったとしても、大歓迎よ。だってちっとも怖いなんてないもん」

 アミコもマスミもそしてタエコも、中学高校一貫教育の大森女子学園高等部の生徒でした。そしてフォークソング同好会のメンバーでもありました。

 彼女たち三人は去年の秋、学園祭でフォークを歌い、講堂に集まった生徒や父兄から大喝采を浴びたのです。

 また歌いたいね。また三人で歌えたらいいね。でもこれからは二人だけどね。

 放課後、ギターを抱えたアミコとマスミはそんな話をしながら、教室でギターと歌の練習を始めました。

 練習曲は、シモンズの『恋人もいないのに』です。

 リズムもスリーフィンガーのアルペジオも完璧でした。そしてコーラスも呼吸がピッタリ合って、二人はその世界に入り込みました。

 でもワンコーラス歌い終えてから、アミコは急にギターをやめて、マスミに言いました。

「マスミ。あなた今、三度でハーモニー入れてたかな」

 黙って頷くマスミに、アミコは驚くように、

「今の歌、三度のハーモニーのほかに、五度のハーモニーも入っていたよ。わたし、聴こえたもん。絶対五度のハーモニー聴こえたもん」

 マスミは震える声で答えます。

「そう言えばわたしも、もう一人誰かが一緒に歌ってるような気がしてたの。絶対もう一人誰かが、一緒に今の歌、歌ってたよね」

 あおざめた二人は、ゆっくり教室を見渡しました。もちろん放課後の教室にはアミコとマスミ以外、誰もいません。

 おびえるマスミに、アミコが言いました。

「いい。マスミ。落ち着いて訊いてね。怖がらないでね」

「ここに間違いなく、タエコが来ているよ。絶対来ているよ」

「たぶん、最後の挨拶に来てるんだと思う」

「だから、だからね。も一度歌おうよ。今の歌」

「三人で、一緒に歌おうよ」

 そう言うアミコも、声がうわずっていました。

 さっきは「タエコだったら、怖くない」と言った言葉が嘘のように、マスミは固まってしまっています。そしてマスミは引きつった顔のまま、何度も首を縦に動かして、もう一度同じ歌うことを同意したのでした。            

 二人は勇気を出して、深呼吸してから歌い出します。

 ギターのボディがゆっくり四回叩かれ、アルペジオが始まりました。



               ■


『恋人もいないのに』を歌い終えると、教室のカーテンが少し揺れました。

 タエコが帰るんだ。帰ってしまうんだ。

 そう思った二人は教室の窓に駆け寄り、校庭を眺めました。

 するとすると校庭の隅には、ひとりの女子生徒が、正門に向かって歩いているのが見えます。

「タエコ、タエコ」

 二人は教室から大きな声で、タエコの名前を呼びました。

 すると校庭の隅を歩いていた女子生徒が振り返り、校舎を見上げました。

 その顔はやはりタエコでした。あの人懐っこい笑顔を見せるタエコでした。

 そのタエコは二人に大きく腕を振ってみせて、やがて正門の外にその姿を消してしまいました。

 校庭の隅に植えられた桜の樹木は、もうすっかり葉桜に姿を変え、初夏の青空に、そのいろどりを添えているのでした。



【2】


 大森女子学園の音楽教師で、フォークソング同好会の顧問でもある柏原サエは、困惑していました。

 それは学園中で広まっている噂です。

 放課後、誰もいないはずの音楽教室で、ピアノの音が聴こえるというのです。

 さらにこの二月に致死性不整脈で他界した教え子の西脇タエコが、この学校内によく現れるというのです。

 音楽教師の柏原サエはそもそも、幽霊やオカルト現象を一切信じない女性でした。

 誰もいない音楽室でピアノが鳴る。そんな馬鹿な。

 そんなのただの都市伝説で、何の根拠もない作り話ではないか。と柏原サエは思うのですが、多くの生徒がその噂におびえてしまって、昼間さえ誰も音楽室に近寄ろうとはしませんでした。



              ■


 そんな五月のある放課後。柏原サエは音楽室に忘れ物をしたことを思い出して、音楽室に足を向けました。

 まさか誰もいない音楽室からピアノの音が聴こえる、なんてことはないでしょうね。柏原サエはそんなことを思って、自分を笑いました。

 でも聴こえたとしても、それってきっと生徒の誰かが弾いているのよ。だからちっとも怖くなんかないのよ。

 そう思いながら廊下を歩いていた柏原サエは、音楽室の前でふと立ち止まりました。

 なんと音楽室の中から、ピアノの音が聴こえてくるのです。

 柏原サエは一瞬、心臓に鋭利な刃物が突き刺さったような感覚に襲われました。

 ははん。これは生徒の誰かがピアノを弾いているんだなと、柏原サエは思いました。

 誰もいない音楽室でピアノが鳴るというのは、デマだと分かっていても、あまり気持ちが良いものではありません。だから音楽室には生徒の誰かがいて、ピアノを弾いているに違いないのです。

 柏原サエはそう決めつけて、廊下に立ったまま、そのピアノの音に耳を傾けました。でも途中で柏原サエは、ピアノを弾いているのはただの生徒ではなく、二月に亡くなった西脇タエコだと気づいて顔が強張りました。

 それは演奏している曲が、下成佐登子『秋の一日』という曲だったからです。そして音楽室から聴こえてくるピアノの音は、『秋の一日』の、ある途中のフレーズの和音の展開だけ、ゆっくり何度も繰り返して弾いていたからなのです。

 柏原サエは思いました。

 生前、西脇タエコは下成佐登子『秋の一日』という曲をピアノの弾き語りで歌ってみたいと言って、わたしに教えを乞うていた。

 でもこの曲はあるパートに複雑な和音の展開が連続する箇所があって、西脇さんはそこが難しいらしく、何度も練習していたっけ。

「いい、西脇さん。まずはどんなに遅くてもいいから、そのパートを正確に、何度もも何度も繰り返して練習してみることね」

「速さはそのあとでいいの。うまく正確に弾けるようになったら、速さは自然についてくるものなの」

 わたしは彼女に、そんなアドバイスをしてたっけ。



                ■


 柏原サエは音楽室でピアノを弾いているのは、在校生の誰かではなく、亡くなった西脇タエコだと確信しました。そして勇気をふりしぼって、音楽室の後ろの引き戸を静かにスライドさせました。

 怖がってはダメ。西脇さんはピアノに未練があって、ここでピアノを弾いているんだから、わたしがそれを断ち切ってあげなければならないの。



               ■


 音楽室の引き戸をスライドさせると、ピアノの音は止まりました。

 柏原サエは周りに注意を払いながら、音楽室の中を歩き、ピアノの前に立ちました。

 でもピアノの前には、誰もいませんでした。音楽室の四隅にも、机のあいだにも、天井にも、西脇タエコの姿はありません。

 柏原サエはそれを確認するとピアノ前の椅子に座り、天井に向かって言いました。

「西脇さん。そこにいるのはあなたね」

「『秋の一日』を練習していたのね」

「ずいぶん上手になったんじゃない」

「じゃあ、今度はわたしが『秋の一日』を弾くから、あなたは歌を歌ってね」

 柏原サエはそう言って、『』秋の一日』のイントロを弾き始めました。

 すると歌のパートに入ると、どこからともなく、透明感がある西脇タエコの歌声が聴こえてきました。柏原サエのピアノ演奏で、西脇タエコが歌を歌い始めたのです。



                ■


 演奏が終わると歌も止み、音楽室は静寂に包まれました。

 その音楽室で柏原サエは、天井に向かって優しく言いました。

「よく訊いてね、西脇さん」

「あなたはわたしの教え子だから、わたしはちっとも怖くないの」

「怖いとは思ってないの」

「でもここには、千人近い生徒がいるの」

「だから、だからね・・・」

 沈黙が音楽室を包みました。柏原サエのひたいには、玉のような汗が浮かびました。

 さあ、どうする。西脇さん。

 柏原サエがそのままの姿勢でタエコの声を待っていると、いきなりピアノが単音を響かせました。

 その単音は、ドレミでいうと、ラ、の音でした。たぶんそのラ、は「サヨウナラ」のラ、に違いありません。

 やがて校庭に面した音楽室の窓が静かに開き、風が入りこんでカーテンが揺れました。いいえ、それはもしかして、タエコが音楽室から出て行った証しなのかも知れません。

 柏原サエは窓に近づき、三階の音楽室から校庭を眺めました。

 校庭では深緑に覆われたプラタナスや葉桜が、優しい風に揺れながら、その陰影を地面に映しています。

 遠くに目を移すと、西の空がほんのり茜色に染まっていました。

 その茜色に染まった空に柏原サエは、西脇タエコが小さく遠ざかっていく姿を重ねました。そうして柏原サエはいつまでもいつまでも、その空を眺めているのでした。





                           《この物語 続きます》













 

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