標高6.1メートルのデスゾーン

つくお

標高6.1メートルのデスゾーン

 俺たちはせーので右足から山に入った。


 辺りには長閑な田園風景が広がっているが、麓の鳥居をくぐると世界が一変する。ここは徳島県、弁天山。自然の山では日本で最も低いとされる標高6.1メートルの山だ。


 たかだか6.1メートルなどと見くびってはいけない。水が膝ほどの深さがあれば溺れ死ぬこともあるように、山も腰ほどの高さがあれば遭難したり滑落したりする危険があるのだ。標高と危険度は比例しない。


「おい、足を上げてみろ」


 シューレス城が俺に鋭い視線をよこして言った。文字通り靴なしでいくつもの山を踏破してきたことからついた名前だ。やつの足の裏はカボチャの皮のように厚く、画鋲を踏みつけてもただ「いてっ」と言うだけで済んでしまう。


 俺は地雷を踏んだみたいに全身を硬直させ、自分の足許を覗き込んだ。この日のために靴流通センターで買った新品の登山靴が、こんもりした獣の糞に埋もれていた。第一歩からこれだ。


「そんなに時間は経ってないね」


 ノーロンガーさち子が言う。さち子は「この子の名前はさち子です」というメモを貼られて森に捨てられ、五歳までニホンザルに育てられた経歴を持つサバイバルの達人だ。どんな動物とも意思の疎通を図ることができるが、彼女によればほとんどの動物は理屈の通じない唐変木で話す価値などないという。


「クマ並の量だ」


「この山にクマが?」


 俺が武者震いすると、山全体が嘲笑うかのように鳴動した。


 弁天山にどんな動物が生息しているのかはまだはっきりと分かっていなかった。過去にはUMAの目撃情報も複数あるが、俺としてはこの山で遭難した登山者とUMAの間には何か関係があるのではないかと睨んでいた。公にはされてないが、この山に入ったきり行方不明になる登山者は少なくないのだ。


 俺はかつてこの山で姿を消した姉貴のことを考えながら、サックマイに汚れを取ってくれと靴の裏を向けた。サックマイは現地徳島で雇ったシェルパで、ほとんど口の利けないタイ人だ。喋れないのか、日本語が分からないだけなのかは定かでなかった。


 サックマイは呆れたように天を仰ぐと、ぷいと行ってしまった。俺は仕方なく靴底を地面にこすりつけて仲間のあとを追った。幸先のいいスタートとは言えなかった。


 俺たちはすぐに整備された登山道を外れて険しい山道に踏み入った。


 全国の山という山で何度も苦い経験をしている俺は、正規ルートが悪手であることを知り尽くしていた。それにただ登頂するだけでは意味がなかった。この山のどこかにいるはずの姉貴を見つけなければならないのだ。


 あれは六年前のこと。


 姉貴は二十五年来の熱烈な福山雅治ファンで、まだ近所の犬たちとのふざけ半分のキスしか経験がなかった子供の頃からずっと、福山雅治に処女を捧げ、結婚することを夢見ていた。


 ところが、運命の2015年9月28日、福山雅治結婚のニュースが全世界を駆け巡ったのだ。


 その知らせを聞いた途端、姉貴はおかしくなった。三年続いていた魚をパック詰めするアルバイトをあっさり辞め、部屋にひきこもってしまったのだ。


 それからというもの、俺は実家の薄い壁を通して、昼となく夜となく、姉貴のすすり泣く声を聞かされる羽目になった。福山雅治の等身大パネルを相手にいちゃつく声もした。開けっ広げなよがり声もだ。このままでは姉貴の行く末は目に見えていた。


 数週間後、我慢の限界を越えた俺は姉貴の部屋のドアを蹴破って言ってしまった。


 いい年して本気で芸能人と結婚できるつもりでいたのか、いい加減にしろブス。鏡見たことねぇのかよ。お前の小学校のときのあだ名はプレデターだろうが。このブタゴリラ。福山雅治がお前みたいに魚臭い女と結婚するわけねぇだろ。くそ、足がめちゃくちゃ痛ぇ!


 ドアを蹴破るのに何回も本気で蹴る必要があって、足の指が三本も折れていた。だが、いくら姉貴が三十代も後半になっていたからといって、少しばかり言い過ぎだった。


 姉貴が家を出たのは、その翌日のことだった。徳島の弁天山に行くと書き置きを残したきり、消息を絶ったのだ。


 弁天山の頂上には、福山雅治が2009年のツアーで徳島を訪れた際に記帳した登頂記念帳があった。姉貴はファンの間で伝説となっていたそのレアアイテムを、以前から何としても拝みたがっていたのだ。


 弁天山がいかに危険な山かも知らずに──。


 こうなったのは全部俺のせいだった。あの日以来、テレビや何かで福山雅治を見かけるたびに、俺の心はちくりと痛んだ。どんな小さな手がかりでもいいから見つけたかった。


 俺たちは山の中腹に開けた場所を見つけ、昼飯にすることにした。気の抜けない山道は、気力も体力も激しく消耗する。


 だが、事件は起きてしまった。


 ノーロンガーさち子が膝の上で弁当を広げたときのことだった。ふとした弾みに、彼女の弁当箱からおにぎりが一つ転げ落ると、それは斜面を勢いをつけて転がっていってしまったのだ。


 慌ててそれを追いかけるさち子。


 不吉な予感がして俺はとっさに呼び止めたが、彼女は「たらこのおにぎりが!」と聞く耳を持たなかった。さち子はひょいと岩を飛び越えたかと思うと姿が見えなくなり、それきり二度と戻らなかった。


 災難は午後にも続いた。


 胸ほどの高さもある草深い斜面を進んでいるとき、シューレス城が突然悲鳴を上げたのだ。


 慌てて駆け寄ると、やつの足が大型獣用のトラバサミに挟まれていた。鋭い刃が足首からふくらはぎにかけて深く食い込み、骨まで砕けているようだった。足の裏の皮は厚くても、それ以外は人並みだったらしい。


「せめて登山靴を履いていれば」


 俺は言っても仕方ないことを言った。


「おれは靴なし。シューレス城さ」


 シューレス城はやせ我慢して言うと、俺の足元にサバイバルナイフを投げ出した。どうやら足を切断しろということらしい。俺はできれば嫌な役目を押しつけたいとサックマイをちらりと振り返ったが、やつは見て見ぬふりをするように目を逸らした。


 簡単には決心できなかった。傷は確かに深手だったが、もし足を切断してしまえば、靴なしどころか膝から下がなくなってしまうのだ。それでもいいのかと問うと、シューレス城はまるで男ぶりをあげようとするかのように、顔中から汗を噴き出させながらこくりとうなずいた。


 昼飯を食べたばかりだったし、最悪だった。俺は途中で何度も横を向いては、胃の中のものを吐き出した。


 終わる頃にはすっかり日も暮れ、シューレス城はというと蝋のように白い顔で意識を失っていた。俺は間違えた足を切り落としてないか急に怖くなってもう一度よく見たが、大丈夫だった。


 今日のところはその場で一晩明かすしかなかった。サックマイにテントを張るよう指示すると、やつは何を勘違いしたのか自分の股間のテントを張ってみせた。その程度には日本語を理解できるらしい。突っ込む気力もなかったが、結局テントは忘れてきたらしく、寝袋を二つしか持ってきてなかった。誤魔化すために自分のテントを張ってみせたのかもしれない。


 俺はシューレス城が意識を失っているのをいいことに、サックマイとそれぞれ寝袋を使った。計画通りに行かないのが登山なのだ。


 寝袋から顔だけ出して夜空を見上げると、満天の星が広がっていた。


 姉貴はこの山のどこかでまだ生きているのだろうか。生きているとしたら、まだ福山雅治のファンなのだろうか。やがて、目が覚めたらしいシューレス城が、聞く者の気分が暗くなるような苦しげな呻き声を上げはじめた。


 サックマイが黙れと言うように石を投げたが、呻き声はこちらの気まで滅入らせるものだったから、サックマイを責める気にはなれなかった。山では片足の人間は足手まといなのだ。こんな危険な山となれば尚更だ。


 このままシューレス城を連れていくわけにはいかなかった。やつにどうやってクビを言い渡したらいいかぼんやり考えていると、山の反対側から遠吠えが聞こえた。得体の知れない、おぞましい声だった。例のUMAかもしれないと思い、俺は身震いしてファスナーをしっかり上まで締めて目を閉じた。


 翌朝、目が覚めてみるとシューレス城の姿がどこにも見当たらなかった。大声で呼んでも虚しいこだまが返ってくるばかりだった。まさかUMAに喰われたのではと思ったが、それらしい形跡はなかった。


 片足を失くし、登山家としての死期を悟って、自ら下山したのかもしれない。プライドの高い彼には、仲間の負担になることは耐えられなかったのかもしれない。俺は彼が下界で何か別の生き甲斐を見つけられるよう、心の片隅で祈った。


 残ったのは俺とほとんど口の聞けないシェルパのサックマイだけだった。こいつが相手では道中しりとりを楽しむこともできなかった。登頂を断念するなら最後のタイミングだったが、何の収穫もないまま帰るわけにはいかなかった。俺は計画を続行することに決めた。


 日のあるうちに頂上にたどり着きたかったが、中腹を一回りもしないうちに急に気温が下がりはじめた。


 靄がかってきたと思う間もなく、俺たちは深い霧の中に迷い込んでいた。数メートル先も見通せないような濃い霧で、気がついたときには後ろを歩いていたサックマイともはぐれていた。


 遠くでサックマイが俺の知らない外国語で悪態をついている声が聞こえたが、どの方角なのかは分からなかった。


 無闇に歩き回るのは危険だった。俺は近くの木の幹に手をついて、霧が晴れるのを待つことにした。そのとき、ふいに目の前を大きな影がよぎった。サックマイかと思いとっさに肩に手を掛けると、そこはびっしりと生えた硬い毛に覆われていた。一瞬クマかと肝を冷やしたが、手足の長い人型のシルエットにピンと来た。ビッグフットだ。


「ひっ!」


 俺は腰を抜かしてその場に崩れた。こいつが何人もの登山者を行方不明にしている、この山のUMAの正体か──。すぐさま背を向けて這うようにして逃げたが、相手は襲いかかってくるでもなかった。妙に思って振り返ると、ふと顔の輪郭にどこか見覚えがあることに気がついた。


 まさか――。


 俺は慌ててリュックから電動髭剃りを取り出し、トリマーを付けてビッグフットの顔の毛を刈った。


 毛むくじゃらの下から現れたのは、六年前に行方不明になった姉貴だった。こんなところで、こんな姿になって、一体何をしているのか。この山で、一体何が起きたのか。聞きたいことが溢れて言葉にならなかった。焦点の定まらない濁った目をした姉貴は、俺が誰なのかもよく分からないようだった。


 そのとき、霧の中から何かが聞こえてきた。音楽だった。耳を澄ますと、どこか聞き覚えがあるような気がした。


 この旋律は、もしかして──。


「ま、しゃ?」


 姉貴の目にかすかに光が灯った。その声はがさがさに嗄れていて、発せられた言葉はかろうじて人の言葉として成立しているようだった。だが、ましゃとは福山雅治の愛称。それで俺もこれが福山雅治の名曲「桜坂」のイントロだと気がついた。全身に鳥肌が立った。


 どこからともなく、霧の中からギターを抱えた福山雅治が現れ、俺たちの目の前に立った。思いがけない長身、均整の取れた身体を包む白のダブルスーツ。余裕たっぷりの笑顔から覗く白い歯。


「ましゃ!」


 俺が見ているのは幻に違いなかった。こんなところに、こんなタイミングで、本物の福山雅治が現れるはずなどないのだ。だが、姉貴の愛は本物だった。ビッグフットと変わり果てた姿で、処女のように震える姉貴を見て、俺にはただそのことだけがはっきりと分かった。


 福山雅治は歌い出しのところで息を吸ったかと思うと、ふいに口を閉じ、にやりと笑って、結局何も歌わずに再び霧の中にかき消えてしまった。


 ほんの一瞬の出来事だった。音楽も同時にかき消え、気づくと辺りは静寂が支配していた。


「ま、ましゃ? ましゃ? ましゃー!」


 姉貴の悲痛な叫びに、俺は幻だろうが何だろうが、一言くらい姉貴を思いやる言葉をかけてやってくれよと福山雅治を恨んだ。


 姉貴がうおーん、うおーんとひとしきり哭いたあと、俺は頃合いを見計らって一緒に帰らないかと声をかけた。姉貴がそのつもりなら実家にはいくらでも居場所はあった。八王子のド田舎とはいえ、徳島くんだりよりはずっとましだ。


「ここは、ましゃに、一番近い、場所だから」


 姉貴は人間の言葉を思い出しながら喋っているみたいに言った。弁天山が見せる幻に心を奪われてしまったのだ。霧の中から「桜坂」のイントロとともに現れる福山雅治。あんなものはまやかしだと分かっていても何も言えなかった。俺は姉貴が再び山へ帰っていくのを黙って見送ることしかできなかった。


 霧が晴れるとサックマイがひょっこり姿を現した。ようやく見つけたとばかりに溜め息をつくサックマイ。俺は今しがた体験したことを話してやる気にはなれなかった。軽くうなずき返すと、これから進む先を指さした。


 あとは黙々と山頂を目指した。


 日が傾きかけた頃、俺たちはついに山頂に登りつめた。そこには小さな神社があり、その脇の授与所には例の登頂記録帳があった。まず俺が記帳し、続いてサックマイがタイ語とおぼしき言葉でくねくねと記帳した。


 そのときだった。突如として辺りの木々がさざめき出し、森の中から太鼓が打ち鳴らされる音が空から響いてきた。


「お前が来るのを待っていたぞ」


 雲の中から姿を現した、どこか粋な雰囲気をまとったその老人こそ、ディック・ミネだった。徳島県出身の国民的大歌手。木々の影からは彼のバックバンド、ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダスの面々も現れ、演奏するは「月光価千金」だった。


 ディック・ミネは福山雅治と違ってちゃんと一節歌った。そして、お前が来るのを待っていたぞともう一度言った。俺は、それが俺ではなく、俺のシェルパに向かって言っているのだと気がついた。


「我が息子よ。お前は私がこの世を去る直前にタイ人ホステスと狂おしく愛し合った、その愛の結晶なのだ」


「パパ!」


 サックマイは突然の告白を迷うことなく受け入れた。


「我が息子、サックマイ。誇り高き我が芸名を継ぐがよい。今日からお前はサックマイ・ディックと名乗るのだ」


 ディック・ミネの芸名は、類いまれなる巨根の持ち主であることに由来していた。ディックとは隠語で男性器のことを指す。サックマイもその血を受け継いでいることを、俺は昨日のテントの一件で気がついていた。


「サックマイ・ディックだね。分かったよ、パパ」


 サックマイはそう言うと突然、景気よく前をはだけ、腰に手を当てて、上半身を反り返るようにしてイチモツをみるみる屹立させた。それは全長23センチにも及ぶ堂々たるものだった。


「その調子だ、我が息子。ハッハッハ!」


 ディック・ミネは豪快に笑いながら再び空中にかき消えた。


 サックマイは誇らしげに両手を腰に当てたまま、屹立したイチモツを天に掲げるかのように、山の頂に立った。俺の目も否応なしにやつの股間に釘付けになった。そこには伝説のはじまる予感が漲っていた。


 ふいに、弁天山の上空に暗雲が立ち込めた。当惑して空に目をやると、辺り一帯の空気がぴんと張りつめるのがわかった。


 直後、天から一筋の光が走った。


 空が割れるような凄まじい衝撃とともに、俺は後方にはじき飛ばされた。


 ややあって、うめき声をあげながら起き上がると、サックマイが山の頂に倒れて絶命しているのが目に入った。サックマイの突き出た部分に雷が直撃したのだ。


 早すぎる伝説の終わりだった。いや、そうではなかった。仰向けに倒れたサックマイの堂々たるイチモツは、まっすぐ天を指して硬直したままだったのだ。


 山が地の底から鳴動しはじめたかと思うと、サックマイは俺の目の前で弁天山に取り込まれていった。やつは山の一部と化したのだ。


 弁天山はサックマイのイチモツの分だけ高くなり、標高6.33メートルになった。それでも自然の山として日本一低い山であることには変わらなかった。




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