私の尊い時間。
多賀 夢(元・みきてぃ)
私の尊い時間。
大人になって疲れてくると、あの無菌病棟に通った日々を思い出す。
整えられた物のない個室に、少しずつ増えていく哲学書とゲームソフト。UV加工された大きな窓からは、柔らかいお日様の光が降り注ぐ。
その病室の中心にいたのは、髪の毛が全部抜けた笑顔の青年。
私の上の弟、当時18歳。大学に入学した直後だった。
上の弟――面倒なのでアイツと呼ぶ――と私は、仲が良くも悪くもなかった。
アイツは両親に操られ続ける私を見て、ああはなるまいと決めていたそうだ。だから私とは真逆にふるまっていたアイツは、私と深くは交わってこなかった。
実家から逃げるように大学に進学した私は、燃え尽き症候群で寝込みがちになった。単位も取れず留年し、ますます塞ぎ込んでいた時、突然母から泣きながら電話がかかってきた。
アイツがガンになった、余命3か月で入院したと。お前はあの子と同じ県にいるのだから、親の代わりに面倒を見ろと命令された。私は、操られるがまま病院に行った。ぼんやりとしたまま、何も考えられないまま。
「姉貴、来てくれたん!」
迎えてくれたアイツは、異様に痩せていた。髪は半分くらい抜けてみすぼらしく、まさしく今抗がん剤治療を受けているのだと一目で分かった。
なのに、アイツは笑っていた。とても楽しそうに笑いながら、「昨日は寮の先輩が来てくれた」だとか、「早く治って大学に戻りたい」だとか。
「お前、元気やな?」
と私が聞くと、アイツはおかしそうに言った。
「だって、なんもせんかったら余命3か月なんやろ。治療して手術すれば、なんぼでも延びるやん」
「まあ、そうかもなぁ」
ところが、手術は病院側の問題で中止。母がまた私に泣きながら電話を寄越し、『お母さんは不幸や、なんで私ばかりこんな目に』と喚き続けた。
しかしアイツの方は、何も変わった様子はなかった。
いつもニコニコして愚痴も言わず、勉強したり読書したり、看護師さんを巻き込んでゲームをしたり。
周りは、特に年配の看護師たちは、アイツを『聖人』と祀り上げた。ガンになって無菌病棟に来る人は、メンタルに異常をきたしたり、怒鳴ったり喚いたりする人も多いそうだ。しかしアイツは普通の人と何も変わらず、明日が当然来るものと信じて、辛い治療に耐えている。それは、とても信じ難い事なのだそうだ。
私はアイツと一緒に、大げさすぎると呆れていた。そういう、上下が生れそうな誉め言葉は私もアイツも好まないのだ。
私は週二回ほどアイツのところに通っていた。何をするでもなく、二人でぼんやり過ごす。たまに、私か誰かが代理で買った、哲学書や自己啓発の本を借りて読む。
半無菌に保たれた病室は物がなく、真っ白で、私は清潔の真の意味を知った。気が散るものがなくて、思考が落ち着く。私の実家は汚くて、ゴミ屋敷寸前だった。私の意識は常に散漫していた。穢れの中で生きている気がしていた。
私はその奇麗な空間で、アイツと哲学の話とか、書評だとか、将来の事だとか、色々話した。アイツ以外に、そういう話をできる人とは出会ってこなかった。
アイツの知識はとうに私を超えており、私は我が弟を尊敬するようになった。
途中母が勢い余って田舎から出てきてしまった時も、アイツを見舞うよりナースセンターで己の不幸を垂れ流し泣きじゃくる母を生ぬるい心で許しながら、私達は二人で窓から外の公園を眺めては新しい季節を見つけて楽しんだ。
死をどう思うか、という話になった時。
アイツは、「僕はこれじゃ死なないと信じてる」と答えた。
私もそう信じようと決めた。
「姉貴、いつもありがとな」
私は笑って気にするなと言った。不幸不幸と騒ぐ母を連れ帰りつつ、幸せな時間だったなあと一日を反芻していた。子供時代に接点を失った私とアイツは、ほぼ大人になってやっと交点を持ち始めていた。
病室で埋められていく、アイツとの失った時間。
日の光に満たされた、尊い思い出。
生死をかけるような投薬治療ののち、あいつは肺半分と引き換えに、健康な体を取り戻した。
それが尊い時間の終わりだった。父も母も、何がどう狂ったのか「あれはガンじゃない、医者の判断ミスだ」と騒ぎ始めた。アイツは「俗物過ぎる」と久々に顔をゆがめ、私の日常はまた雑音と穢れまみれの苦痛な世界に戻った。
今、アイツは何をしているかよく知らない。結婚して家庭を持ち、平和にやっているのは知っている。
アイツに関しては、何も心配はしていない。常に現実と向き合い、理想も捨てない奴である。きっと今も多くの仲間を笑わせながら、しれっと目標をクリアする日々を生きているのでしょう。
私の尊い時間。 多賀 夢(元・みきてぃ) @Nico_kusunoki
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