聖女の逃亡
かなぶん
聖女の逃亡
目を閉じ、開ける。
ただの瞬き。
日常の中の、一コマにもならない一つの動作。
しかし、それだけで
(うげ……)
最初の感想はソレだった。
何せ群衆の位置は、駅のホームから見る線路くらい、璃乃より低い上、一瞬で変わったことも手伝って、いきなり狭い線路内にみっちり人が詰まっているという、ホラー映画さながらの状況なのだ。しかもシン……と静まりかえった一瞬の後、地の底から響くような声が轟いては、我も我もと璃乃へ伸ばされる、手、手、手。
気色悪いことこの上ないソレに足が竦み、逃げることすらままなくなっていれば、鋭い声が彼らを一喝し、現われた美青年が璃乃を背に、守るように腕を広げる。
その内に地面を叩く何かの音が響けば、群衆共々青年までもが一方向へ跪いて頭を下げ、一人立つ璃乃は戸惑った顔を音がした方へ向けた。
そこにいたのは光り輝く容姿の美しい女。手には音の出所と思しき錫杖。
「おお、聖女よ。よくぞ我らが前に……」
明らかにこの場の誰よりも位が高いと思われる女は、長い睫毛に煌めく雫を浮かべてそう言うと、あろうことか璃乃の前で跪き、頭を垂れてきた。
これを合図に、群衆も美青年も、皆一様に璃乃へ向かって頭を下げる。
驚くほどカラフルな頭の数々に、未だ状況が掴めない璃乃は戸惑うばかりで――
自分がいわゆる異世界に召喚されたと璃乃が知ったのは――いや、実感したのは、聖女召喚の成功を祝う宴で、周りがどんちゃん騒ぎしているのを遠い目で見ていた、その翌日。自室並に広いベッドの上で起きた時だった。
途端、怒濤の勢いで、昨日はあえてスルーした疑問と不安に襲われる璃乃。
そこへ、この国の女王と紹介された昨日の女が現われ、璃乃は挨拶を後回しに、今更ながら彼女を質問攻めにした。
昨日とは打って変わった璃乃のこの様子に、けれど女王は心得ているようにゆったり頷くと、一つ一つ丁寧に答えていく。
この世界は璃乃がいた世界とは異なること。
この国には予言があり、記された期日までに聖女が現われなければ、国どころか世界が滅んでしまうということ。
そして、世界を救う聖女は、他の世界から呼び寄せる必要があったこと。
ここまで聞いて璃乃は女王に異を唱えた。
肩までの黒髪、暗褐色の瞳の璃乃には、聖女らしい能力など何もない。
一応、周囲からは美人だの可愛いだの言われる程度には、そこそこ整った容姿をしているが、ぶっちゃけ、この女王を前にして、んなことは口が裂けても言えなかった。
青みがかった長い銀髪に銀の瞳。細身でありながら、性的な魅力に乏しいわけでもない妖艶な肉付き。厳格な雰囲気に混じる柔らかな物腰。
どっからどう見ても、彼女こそ聖女だろう――――
これをそのまま言えば、満更でもない様子で微笑んだ女王は言う。
「聖女は処女と決まっておりますから」
常識ですよ?、と続けられた時の璃乃の気持ちたるや……。
一瞬、頭に浮かんだのは、聖女として召喚された自分の前にいた群衆。
常識と言うことはつまり、あれらは全員、それを知っているわけで。
(……今すぐ滅べば良いのに、こんな世界)
心の底から願う璃乃のことなぞ露知らず、あるいは知っていながら考慮せず、女王は聖女についてをつらつら述べていく。
要約すると、聖女として召喚された璃乃は間違いなく聖女であり、することと言えば、予言の日までこの世界に留まることだけだという。
胡散臭いことこの上ない、という顔をする璃乃へ、女王はしれっとつけ加えた。
「どちらにせよ、予言の日まで待たなければ聖女を元の世界へは帰せません」と。
斯くして、聖女となった璃乃は、その腹いせとしてわがまま三昧、傍若無人に振る舞ってやろうと、見知らぬ土地に突然飛ばされた恐怖、寂しさ、心細さを押し殺して日々を消化していく――――のだが。
「な、何よ、この顎……」
一週間後。
久々に見た鏡の中の自分に璃乃は絶句した。
いや、その前から薄々、そうなんじゃないかなー? くらいには感じていたのだが、視覚ではっきり突きつけられた現実は、想像よりもはるかに衝撃的だった。
太っている――……
紛れもないその事実に、この一週間を振り返る。
――とにかく、無理難題吹っかけてやろうじゃない。
これが食べたい、これが飲みたい、こんな物が欲しい、こんな格好がしたい。
自棄っぱちな決意の下、思いつく限りの欲という欲を周囲へぶつけた璃乃。
降りかかった聖女という
けれど、何故か請け負った人間は全部が全部、璃乃の無茶ぶりを笑顔で受け入れ、それどころか全てを叶えていく。
留まらず、食事一つとっても璃乃が手を動かさずとも、彼女好みの大きさ・順番で口に運ばれ、歩く必要のある用事は部屋の周囲で事足りるようになった。
それで一週間も過ごしたのだから、太ってもおかしくはない。
(こうなったら……ダイエットしなくちゃ!)
話によると、璃乃が帰る元の世界は、璃乃が召喚された時点の世界だという。
ワンチャン、ここで過ごした時間全てがなしになる可能性もあるが、そうならなかった場合、あの駅には一瞬で太った少女という、何とも言えない怪奇現象が生まれることだろう。
元の世界に戻れたのなら普通に暮らしたい璃乃にとって、それはあまりに望まない展開だった。
ゆえに、この日を境に璃乃の減量生活が始まる――はずだった。
それからまた一週間後。
「うぅ……全体的に大きくなってない?」
恐る恐る鏡を覗いた璃乃は、この前よりも増量傾向の姿にうなだれる。
一週間前、確かに減量を誓った璃乃。
だが、聖女生活はこれを許してくれなかった。
美味しいご飯に、近場で済む用事。
ならばとした運動では、久々過ぎて筋肉痛を起こし、その苦しみようを慮った側仕えによって、運動の機会が奪われていく始末。
璃乃の傍には常に男女が二名ずつ控えており、そのどれもが美男美女。内一人は、群衆と璃乃の間に割って入った美青年であり、あの女王の息子、つまりはこの国の王子だった。聖騎士でもある彼は、璃乃の護衛の役目も担っているという。
(ううん。もしかしたら監視役かもしれない)
推測の域を出ないが、甘やかすだけ甘やかされる聖女生活に、璃乃はある疑いの目を向けていた。
もしや、この手厚すぎる過保護な状況は、璃乃を懐柔するためのものではなく、璃乃をこの場から動けなくするためではないのか――――
考えすぎ、というには行き過ぎた厚遇が璃乃の脳裏に過った、矢先。
「聖女様っ!」
「ひょえっ!?」
いきなり開けられた部屋の扉に、妙な声を上げてしまった。
これに恥ずかしがったものか、それとも早朝の時間帯に、いきなり乙女の寝室へ現われた聖騎士を怒れば良いのか迷っていれば、目の端に映る異変。
驚いて身体ごとそちらを向けば、暗色の渦が宙に浮いている。
「な――――ぅぶっ!?」
疑問を上げようとした声は、そこから伸びた青白い手に潰された。
『聖女が現われたというから来てみれば…………この太りよう、喰われたいのか?』
とてつもない暴言を吐きつつ現われた手の持ち主は、爬虫類に似た瞳の持ち主。
「魔王! 聖女様を離せ!」
(は!? 魔王? 魔王なんているの、この世界? 聞いてないんですけど!?)
魔王の気配を察知して現われた聖騎士、という状況は理解しつつも、初耳過ぎる話に先ほどの疑惑が璃乃の中で膨らんでいく。
予言が示すその日まで、知らない世界の閉じた部屋の中で、何も知らずに生き――
死んでいく。
ゾッとする想像に、魔王がフンッと鼻を鳴らした。
『まあ、肉を落とせば見てくれは悪くないか。どうやらワシのことも知らんようだ。これは……ククク、色々と教え甲斐がありそうだ』
しゅるりといやらしく鳴る二股の舌。
さすがに示す意味に気づかないほど鈍感なつもりはないが――――
ガッと頬を掴む手を下から掴んだ璃乃。
『ほう? 抵抗する気か、小娘。いい度胸だ。どれ、一つ願いを聞いてやろう。ああ、そこの小僧は動くなよ?……聖女が死んでも良いなら構わんが』
「くっ!」
魔王に牽制されて呻く聖騎士。
だが、口を解放された璃乃はそちらを見ることなく、もう片方の手でもって、臆することなく魔王の手を掴むと願いを口にした。
「私をあなたの弟子にしてください!」
『…………は?』
「せ、聖女様!?」
今ここで魔王を退けても、ただ魔王に連れ去られても、望まぬ時が待つだけだ。
この世界の中で、真に信じるに足る者は自分以外、何処にもない。
ならばいっそ、無茶でも行動あるのみ。
そんな思いで縋りつく璃乃に対し、魔王の答えは実に簡単だった。
こうして始まる聖騎士とその仲間たちの旅の行方は――また今度。
聖女の逃亡 かなぶん @kana_bunbun
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます