尊きデクノボー

緋糸 椎

 明治6年(1873年)、300年にも及ぶキリスト教禁制が解かれた。とはいえ、西洋各国の圧力によって日本政府がしぶしぶ解禁したに過ぎず、一般国民のキリスト教への嫌悪感は依然として残っていた。とりわけ、地方の農村ではその傾向が根強く、キリスト教徒・斎藤宗次郎の住む岩手県笹間村(現・花巻市)では「ヤソ教」と揶揄され忌み嫌われていた。

 笹間村で小学校教師をしていた斎藤は、もともと仏教徒で国粋主義だったが、内村鑑三の書物に触れ、洗礼を受けてキリスト教徒となった。

 それからはまるで人が変わったようにキリスト教に夢中になり、学校の授業中でもキリストの話や反戦を説くようになった。

 当然のことながら、生徒の保護者たちからは学校に苦情が寄せられるようになる。校長もその対処に困惑していた。

「斎藤先生、信念はよろしいが、そういうのは胸の内にしまっておいてくれんかね」

「お言葉ですが校長、滅びゆく魂を前にして放っておけますか?」

 斎藤の熱意に校長は口をつぐむしかなかった。そして同僚たちの反対にもかかわらず、斎藤は学校でますます熱心にキリストの話をし、それに伴って周囲の反感を募らせていった。


 そんなある日、事件は起こった。9歳になる斎藤の娘・愛子がクラスの腕白坊主たちに囲まれたのだ。

「やーい、おまえの父ちゃんヤソ坊主!」

「ヤソなんて言わないで。キリスト教の何がいけないのよ」

「みんな言ってらぁ。ヤソ教は災いをもたらす邪教だってな」

「そんなことないわ。イエス様は人を愛すること、赦すことを教えているわ」

「なにいーっ!」

 いきりたった腕白坊主たちは愛子に殴る蹴るの暴行を加えた。「右の頬を打たれたら左の頬を差し向けなさい」というキリストの教えを思い出した愛子は、彼らのするがままにさせた。そして教師が止めに入った時には、愛子はもうボロボロになっていた。そして、この時の損傷が原因で愛子は腹膜炎を患い、幼い命を閉じた。


 娘に暴行を加えた子供の親たちは、斎藤に対してろくに謝罪することもなかった。内心では邪教徒に対する制裁くらいに思っていたのだ。さらに、かねてから斎藤に手を焼いていた学校側も、とうとう斎藤に免職を言い渡した。

 職を失った斎藤は、自分で新聞を売る仕事を始めた。毎朝夜が明ける前に、村中を駆け回り新聞を配達する。そして、娘を死に追いやった加害者の家の前にくると、そこでひざまずいて、その家の祝福を祈った。それを見た村人たちは、「ああやって娘を殺した人間を呪っているんだ」と気味悪がった。

 それで開業当初は売り上げも芳しくなく、斎藤家の家計は苦しかった。だが、そんな斎藤を好意的に見るものもいた。村の顔役であり、花巻仏教会の主催者でもある宮澤政次郎だった。雨の日も風の日も新聞配達に励み、家々の門前で祈る斎藤の姿を見て、それが純心な善意によるものであることを見抜いていた。そしてその姿に次第に惹かれていった。

 ある日、宮澤は重い新聞の束を抱えている斎藤に声をかけた。

「ご苦労様です。もしよければ、私に手伝わせていただけませんか?」

「ありがとうございます。でも、お気持ちだけいただきます。これは私の仕事ですから……それに、こうして家々の前で祈ることが、私にとって救いとなっているのです」

「これが……救い?」

「ええ。祈っていると、その相手に対してイエス様がどれほど愛しておられるか、伝わってくるのです。そして、いつしか私も同じ気持ちになっているのですよ。そうすることで、私の心は憎しみや苦しみから解放されるのです」

「なるほど」

 それから、宮澤は積極的に斎藤を支援するようになった。村人には斎藤がいかに素晴らしい人格者であるかを説き、そして斎藤から新聞を買うように促した。そのおかげで、斎藤の売り上げは伸び、生活も少しずつ楽になった。

 だが、14歳という多感な年頃に差し掛かった息子の賢治は、父政次郎の行動に疑問を抱いていた。

「どうしてお父様は仏教徒であられるのに、キリスト教徒の斎藤さんを支援なさるのです。みな言っていますよ、あの斎藤はデクノボーだって」

「デクノボーか、そうかもしれない。ただし、凡人を逸脱した尊きデクノボーだ。高僧が修行を積んでもなかなかああはなれんぞ。それにだ、キリスト教徒だからといって毛嫌いするのはみ仏の教えに反すると思うぞ。〝宗論はどちらが勝っても釈迦の恥〟と言うからな」


 宮澤のテコ入れのおかげで、村人の斎藤に対する見方は徐々に変わって来た。斎藤自身も村人たちに積極的に仕えた。いつもお菓子を持ち歩き、子供を見ると、それを与えた。雪の日には雪かきをして、子供たちが学校へ歩いて行けるようにした。また、身寄りのない者が病に倒れると、病院に連れて行ったり、医者の世話をしたりした。

 そうして長い年月をかけて、斎藤は村人にとってなくてはならない存在となった。政次郎の息子・賢治も大人になり、花巻農学校の教師になると斎藤と懇意になった。賢治はかなりのレコードコレクターで、斎藤が新聞配達で農学校に来ると、賢治は彼を引き留めて新しく買ったレコードを聴かせて自慢するのだった。それはまるで子供のようだった。

「ベートーヴェンはいい。自然の描写に神の栄光があらわれている。キリスト教徒のあなたならわかるでしょう」

「ええ。賢治君、いっそ君もキリスト教徒になられてはどうです」

「ははは。むしろ僕のほうがあなたを国柱会(日蓮系の信徒団体)に誘いたいですよ」

「それはどうも。ところで、よくこれだけのレコードを集めましたね。資金はどうされたのです?」

「東京で仕入れた便利瓦が結構売れるのです。それを充てているのですよ」

「なるほど。しかし、お金儲けもほどほどになさるとよろしい。身体を壊してしまっては元も子もありませんからね」

「肝に銘じますよ」

「それより君は音楽や文学の才能があるのですから、それで身を立てることを考えてはどうです?」

「いえいえ、あれは単なる道楽で、その世界では箸にも棒にもかかりませんよ」

 このように斎藤は農学校へ来ると必ず長居する羽目になるので、ここへは時間に余裕がある時だけ来るようにした。

 二人の親交は、斎藤が上京するまで続けられた。師である内村鑑三が病に倒れ、その身の回りの世話をするために斎藤は故郷を出る決断したのだ。


 いよいよ出発の日、駅には村人のほぼ全員が斎藤を見送りに来ていた。かつてヤソのクソ坊主と罵っていた人々も、この時は斎藤との別れを惜しんで目に涙を浮かべていた。そしてみな口々に「ありがとう」と感謝のことばを告げていった。

 斎藤は群衆の中に賢治の姿を見つけると、走り寄って抱き締めた。

「どうかお達者で。あまり無理をしないで、身体を大切にするのですよ」

 そう言い残して斎藤は汽車に乗り、故郷を後にした。


**********


 5年後、病弱にもかかわらず賢治はビジネスに身を入れた。心配した父親の政次郎の計らいで、花巻に拠点を作らせたが、結局賢治は西へ東へと忙しく奔走した。その結果、東京で高熱に侵され、花巻に帰り病床に伏すことになった。その時、かつて斎藤に言われたことを思い出した。


──お金儲けもほどほどになさるとよろしい。身体を壊してしまっては元も子もありませんからね──


 結局、あの人の言う通りだ。彼は尊く、そして本当の意味で強かった……そう思いながら、賢治は枕元に置いてあった黒革の手帳を手に取った。そして斎藤を思い浮かべながら、心の願いを書き込んだ。


雨ニモマケズ

風ニモマケズ

……

サウイフモノニワタシハナリタイ

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