穢れを知らないままでいて

すめらぎ ひよこ

 殺風景な部屋に、夕日が射し込む。男は心穏やかに、箱を眺めていた。ときおり聞こえてくる喧噪けんそうやカラスの鳴き声は、男の耳に届くことはない。男にとってこの瞬間は、自分と箱だけで成り立っていた。他の一切は、男の世界に存在しなかった。


 その箱は金属板を溶接して作られたもので、男が仕事場で作ったものだった。一メートル四方の立方体。腐食しにくく、硬度の高い合金で作られている。箱が腐ったり、壊れたりすることを防ぐことが最重要だった。


 くすんだ銀色の、ひんやりとした表面。その内側にあるが愛おしくて、尊くて仕方がない。


 仕事が終わり、家に帰ってくると、男は寝るまでの間その箱を眺め続ける。ときには寝食を忘れてしまうほどだった。目の下には隈ができ、痩せ衰えたとしても、眺めるのを止めようとはしない。


 男の人生は陰惨なものだった。


 両親による虐待。学校でのいじめ。職場での嫌がらせ。


 『愛』とは何なのか。『和』とは何なのか。『情』とは何なのか。


 はなから欠如したものを知ることは、とても難しい。誰かに聞こうにも、そんなことを教えてくれるような人間は、男のそばにはいない。


 何か大切なものを欠いたまま、男は人生を歩んでいた。人生とは惰性だった。


 ただ、流されているだけ。ただ、生き続けているだけ。ただ、死んでいないだけ。


 人生とは何のために存在しているのか、男はあてどもなく考えていた。人生とは哲学だった。


 生きる意味を探していた。生きる意義を探していた。生きる動機を探していた。


 そんな時、男はと出会った。灰色だった人生が、途端に色づいた。


 理屈ではない。一目見た瞬間、心を奪われた。がこの上なく尊い存在だと直感した。男の人生において、そのような経験は初めてだった。知らぬ間に頬を伝う涙の温かさを、男は片時も忘れはしない。


 自分が何のために生きているのか。それを見つけた。穢れのない存在を、穢れのないままに。


 男は箱を眺めている。膝を抱え、うっとりとため息を吐きながら。日が沈み始め、体が空腹を訴え始めても、男は温かな視線を送り続けた。思考がとろけるほどに甘美で、幸せなひと時。


 箱が置かれた床には、おびただしい数の傷がついている。箱を作ってからすぐは、その箱は激しく動いていた。暴れる箱は次第に落ち着き、一時間もしないうちに完全に動かなくなった。


 この世のすべてのものは、移ろいゆく。何一つとして、変わらないものは無い。無垢な存在はいつしか穢れ、醜い汚泥と成り果てる。


 だから男は、を世界から切り取ろうとしたのだ。無垢な存在を穢す一切を寄せ付けないために、六枚の金属板で世界から区切ろうとしたのだ。


 誰も見ることが出来ない。誰も触ることが出来ない。誰も知ることが出来ない。


 箱の中身は自分と同じ世界に存在しながら、六つの平面で隔絶された世界だ。尊い存在の実在性と、穢されることのない確実性に安心出来る。


 あの日見かけた少女の無垢な笑顔は、誰からも穢されずに箱の中で在り続ける。


 この汚泥にまみれた世界にも尊いものが存在すると教えてくれた笑顔は、誰からも穢されずに箱の中で在り続ける。


 人生の道しるべになってくれた笑顔は、誰からも穢されずに箱の中で在り続ける。


 ありがとう。


 ありがとう。


 ありがとう。


 男は心の中で呟いた。

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穢れを知らないままでいて すめらぎ ひよこ @sumeragihiyoko

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