二十一分の一の罠

庵字

二十一分の一の罠

 事務所を訪れた警部は、コーヒーを炒れる探偵の背中に向けて、


「先日、ある富豪が毒物を嚥下して死んだ」

「自殺ですか?」


 コーヒーを運んできて、警部の対面に座った探偵が訊くと、


「いや、それは考えにくい。なにせ、その富豪が死んだ状況というのがな……」


 砂糖とミルクをコーヒーに投入しながら、警部は事件のいきさつを話した。


 その富豪は、親族数名を自分の邸宅に招き、一緒に夕食を摂った。食事が終わり、富豪は習慣となっている食後の薬を服用すべく、肌身離さず持ち歩いているピルケースから薬を一錠取り出して口に含むと、グラスの水とともに飲み込んだ、その数秒後……。親族たちの悲鳴が広い食堂にこだました。富豪が口から泡を吹き、喉をかきむしって倒れたのだ。すぐに119番通報がされたが、救急車の到着を待つことのないまま、富豪は死亡した。


「解剖で検出された毒は即効性のあるものだったので、死ぬ直前に服用した薬がその毒物だったと見て間違いない」

「その状況であれば、確かに自殺とは思えませんね」

「ああ、自殺じゃないと考えるのには、もうひとつ理由がある。その夕食後、富豪は遺言書を集めた親族に公開する予定でいたというんだ。そんな状況で死んでみせるわけがない」

「ははあ。ということは、遺産欲しさに親族の誰かが、薬を毒物とすり替えたと?」

「ところがだな……さっきも言ったが、死んだ富豪は薬を入れたピルケースを肌身離さず持ち歩いていたから、そんな隙はなかったようなんだな」

「とはいえ、入浴や就寝時にまでは、そうはいかないでしょう」

「ああ、だから、もし薬が毒とすり替えられたとするなら、それが可能だった人物は限定されることになる」

「その人物が容疑者?」


 ブラックコーヒーに口をつけて探偵が訊くと、警部は、


「そう簡単にはいかないんだな。富豪のピルケースに手をつけられる立場の人間となると、彼はひとり暮らしだったから、通いの家政婦に限られる。だが、彼女には富豪を殺す動機がない」

「親族でないから、遺産をもらえるわけではないと」

「それもあるし、家政婦にとって富豪は雇い主だ。聞くところによると、相場よりもかなりよい給金を貰っていたそうだ。その富豪が死んだら収入がなくなってしまうわけだ。加えて、富豪のことを慕ってもいたそうで、怨恨の線というのも考えがたい」

「では、やはり犯人は親族の誰か?」

「そう思わざるを得ないが、親族のほうには薬をすり替える機会がないと来ている」

「共犯というのは?」

「親族の誰かが家政婦を買収したと言いたいんだな。だが、その線も薄いな。その家政婦は親族たちとはほとんど面識がないし、聴取をしていてもそんな感じはまったく受けないんだ」

「これといった容疑者が浮かんできていないということですか」

「心情的に怪しい、というやつはいる。離れて暮らしている富豪の息子だ」

「どうしてです?」

「ギャンブル好きの男で、あちこちに借金をこしらえている。中にはヤバい筋からの借入金もあって、早くに返済しないと身に危険が及ぶレベルだ」

「父親が自然死するのを待っていられなかったというわけですか」

「親族の中で、遺産を一番欲していたのは間違いないだろうな。しかも、父親の邸宅に来てから終始、挙動不審だったというんだな」

「挙動不審?」


 探偵が頓狂な声を出した。


「そうだ。親族たちが呼ばれたのは、富豪が死ぬ直前の夕方だったんだが、到着直後から何やらそわそわした様子で、落ち着きがなかったそうなんだ。特に、被害者が死んだ夕食の席が一番おかしかったそうだ。ろくに食事も口にしないほどだったと。父親の威厳に畏まっているというのでもなかったらしいし」

「その死んだ父親という人は、そんなにおっかない人物だったんですか?」

「親族の中で、彼の発言力は絶大なものがあったようだ、なにせ、一族の財産のほとんどを掌握している立場だからな。今回の遺言書公開のための集まりも、富豪がその日の昼に急遽決定したもので、親族の中には仕事を早退したり、旅行先から駆けつけたものもいたそうだ。富豪の機嫌を損ねて遺産の分配を減らされてしまうことを恐れていた、ということらしいが」

「なるほど」

「その息子も、当初は集まりに参加するのを嫌がっていたらしいんだが、結局父親に睨まれてしまうことを恐れて、渋々参加した、みたいな感じが明らかだったそうだ。どう思う?」

「うーん……」


 探偵はカップをテーブルに置いた。警部のほうも手にしていたカップを置くと、


「息子には動機はあるし、おまけに挙動不審。だが、薬をすり替える機会は絶無だったと言える。なあ、何かいい知恵を貸してくれ、いつものように」


 いつものように懇願された探偵は、腕組みをしてソファに背中を預けると、


「警部、薬が毒物とすり替えられていたということですが、残りの薬はすべて正常なものだったんですか?」

「おっと、大事なことを言い忘れていた。富豪が服用した薬――実際は毒物だったわけだが――はな、最後の一錠だったんだよ」

「最後の一錠?」

「そうなんだ。ピルケースの中には、他にもいくつかの薬が入っていたんだが、食後に服用していた薬のスペースだけが空だった、だから、それが最後の一錠だったというわけだな」

「ということは、つまり、夕食を始める――いえ、もっと前、昼食を終えて薬を飲み終えた段階で、そのケースには当該の薬は一錠しか残されていない状態だったわけですね」

「そういうことになるな」

「だったら、すぐに補充しませんか? ピルケースを持ち歩くほど薬にこだわっていたような人物なら、なおさら」

「それなんだが、調べによると、その薬はその夕食後に飲むものを最後に、服用を終えるものだったらしい。だから、補充する必要自体がなかったわけだ」

「それって、何の薬だったんです?」

「食後の消化を助ける作用のものだったようだ。被害者は脂っこいものが大好きだったそうなんだが、歳のせいなんだろうな、最近になって食後に胃もたれをするようになり、主治医に頼んでその薬を処方してもらったそうだ。毎食後、服用を欠かしていなかったようだな。食事を用意していた家政婦が証言している。この薬のおかげで胃もたれがなくなった、と喜んでいたそうだから」

「警部、ピルケースを使っていたということは、被害者は処方された薬を一度出して、ケースにしまっていたわけですね」

「そうだな。処方される薬って、普通、十錠とかで個装されて連なった状態で出されるが、被害者はそれらも全部一度出してからケースに入れていたな」

「その薬は最初は何錠出されたのか、分かりますか?」

「分かる」と警部は手帳を取り出して、「二十一錠だ。食後に飲む薬だから一日三錠の消費で、二十一割る三、イコール七日分だったということだな」

「最後の一錠まで飲みきったということは、その薬が処方されたのは、七日前ということになりますね」

「そうなるな」


 それを訊くと探偵は、しばらく黙考してから、


「警部、薬を処方した医者を調べてみて下さい」

「医者を? どうして?」

「薬は、処方された段階で毒物とすり替えられていたからですよ」

「なに?」

「だって、薬をすり替える隙がないのに、実際にすり替えられていたということは、最初から毒物が混入していたと考えるほかないじゃないですか。処方された二十一錠のうちの一錠だけが毒物だったわけです」

「ということは? 犯人は医者なのか?」

「犯人のひとりとはいえますが、主犯ではないですね」

「主犯? 誰だ?」

「息子ですよ」

「医者と息子がグルだったと?」

「はい、経緯は、恐らくこうです」


 探偵は残っていたコーヒーを飲み干してから話し始めた。


「一刻も早く遺産を手中に収めたいと思っていた息子は、手に入る遺産を元手に主治医を買収して、父親の殺害計画を持ちかけます。その方法というのが毒殺だったわけです。次に父親が薬の処方を頼んできたら、その中の一錠を毒物とすり替えた状態で渡すよう息子は頼んだ。で、後日、富豪は胃もたれがすると医者を訪ねます。医者は一日三錠、一週間分――もっともポピュラーな薬の処方期間ですね――にあたる二十一錠の薬を処方します。富豪は、この二十一分の一の罠にかかり、少なくとも一週間以内に毒死することは確実です。富豪はひとり暮らしのため、死体の第一発見者は通いの家政婦になることは濃厚でしょう。真っ先に疑われるのは彼女ということになります。動機的にはどうあれ、離れて暮らす自分に犯行は不可能と見られます」

「そうなるだろうな」

「ところが、息子をアクシデントが襲います。父親が急遽、親族たちを呼びつけてしまったのです。息子は驚いたことでしょう。まだ父親が健在だということに。仕掛けられた罠を二十回もかい潜ったということに。招集日は薬が処方されてから七日目の昼でした。つまり、薬はあと一錠しか残っていない、そんな状況の中におめおめと入っていかなければならなくなりました。断るという選択肢はありません。召喚を蹴ったりしたら父親の機嫌を損ねてしまい、遺産の分配で割を食う可能性が高いからです」

「息子は、その日の夕食後に確実に死ぬと分かっている父親のもとに馳せ参じざるを得なくなってしまったわけだな。挙動不審だった理由はそれか」

「はい。夕食の席についた息子は、頭の中が真っ白になったでしょうね。食後に死ぬと分かっている人間に対して、最も殺す動機を持つ人物――自分自身――が同席しているという最悪の状況になってしまったわけですから。恐らく息子は、この一週間、いつ父親が死んでもいいように、常に鉄壁のアリバイをこしらえていたのだと思います。それらがすべて水泡に帰してしまったのですから」

「よし」と警部は立ち上がると、「息子と主治医の関係を洗ってみよう」


 そう言い残して事務所を出た。

 探偵の推理が的中していたことが分かったのは、それから数日後のことだった。

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