もう少しだけ早い季節に出会っていれば変われたはずの彼らについて

ミヤシタ桜

 

 


 買ったばかりなはずなのに薄汚れたカーテン。そんなカーテンの裾から漏れた淡く優しい光のことを僕が拒絶したのは、桜が芽を出し始めて、そう。まるで、僕だけを置き去りにして、世界が希望へと歩き出したような。そんな春の夕方だった。


 寝ている間に充電され「100%」というデフォルトの字体を表示しているスマホを見る。あまり好きではない上司からのメールが1件、”彼女”からのメールが5件が来ていた。まず彼女からのメールに既読をつける。「ねぇ、まだこれないの?」「電車遅れてるの?」そのほかも同じような催促に似たたメッセージだった。それに返信はせず、そのまま別アプリを開き上司のメールに目を通す。こちらは催促というより、怒り、警告、と言ったものが端正な文からも伝わってくる。そのメールに「誠にすいませんでした」そんな類の社交辞令を送り、そのままメッセージアプリを閉じた。そして重苦しいベットから体を起こす。



 でも、何もしたくなかった。正確には、何をすればいいのかわからなかった。先の見えない暗闇で手探りしながら彷徨い続ける——いや、手探りさえも僕はしていない。未来に希望を失い、ただひたすらに時間の流れに沿って生活をしている。だから今も時間の流れに沿って、目的もなくただ部屋を見渡した。


 淀んだ春の空気。止まることのない時計。死体みたいな花束。埃の溜まったフローリング。白色の一人分のテーブル。雑に飲み干した缶チューハイ。無駄だった自己啓発本。

 

 そこでふと、ほんとうに突然。”彼”のことを思い出した。それはまるで、この生活を覆い隠すように。






 いわゆる”素敵な人”に彼は当たるのだと思うし、実際素敵な人だったと思う。気遣いはできるし、彼の作る料理は美味しいし、時折見せる笑顔には小さなエクボがあって、それがどうしようもなく愛おしく思えた。また、野球部から出来上がった筋肉質な腕や、本来ならそれに相反するはずの清潔感も兼ねそなせていて、クラスの女子の大半は彼に惹かれていたと思う。そして僕も自分でも知らないうちに彼に溺れていた。そこで自分は、男の人が好きなのだと気が付いた。


 よく彼とは遊んだ。いろんなところに行った。彩度の高い海、少し古びた映画館、学生の集まるボーリング場。そうやって彼に会うたびに好きになっていくのがなんとなくわかった。会えるとわかっているだけで胸の鼓動は早くなっていき、手を繋いだり頭を撫でたりそういう友達同士の戯れにも馬鹿みたいに頬が赤くなった。またその戯れの中の会話で「家に帰るとすぐにソファで寝ちゃってさ」「最近、この番組見てるんだけど」とか、彼の生活を知ることもあって、そういう些細な情報でさえ僕にとっては彼の全てを知ることができた様な気がして、それだけで嬉しくなった。


 時々、彼は彼女のいる僕に嫉妬の様な感情を言葉にした。でも「嫉妬」と言えるほど暗く黒いものなんかではなくて、「お前の彼女可愛いよな」とか「俺も欲しいなぁ」とかいわゆる"明るい嫉妬"みたいなものだと思う。でもその度に、僕は複雑な感情に襲われた。本当は君のことが好きなのに、なぜ気づいてくれないのだろうか。早く気づいてよ。そんな気持ちが溢れた。




 そう。そういえば、僕には彼女がいる。彼が「可愛い」と言っていた人物、先程催促に似たメールを送ってきた人物。


 付き合った理由は我ながら身勝手だと思う。


 元々、彼女とは仲が良かった。部活も同じ吹奏楽部で、担当パートも同じフルート。必然的に話す機会は増えるし、それに伴い仲は深まった。彼女の吹くフルートは僕なんかよりも上手かった。滑らかな旋律の中には、それを支える確かな意思とメッセージが込められていて、それが心に響いた。


 そういう中でたまに、胸元を見せてきたり上目遣いをしたり、彼女が僕に好意を持っていたのは明らかだった。でもその度に、自分は女の子を好きになれない、という事実が酷く虚しく僕を蝕んだ。



 そんなある日、彼女は僕に告白をしてきた。やけに夕焼けが綺麗な放課後の教室だった。


 好きなの。だから、付き合って。


 単純で、でも確かな気持ちが伝わる文章だな。というのが第一印象だった。僕は当然断ろうとした。


 ごめん、恋人としては見れない。


 そう言えばよかったのに、魔がさしたのか、僕はその告白を受け入れた。でも、その思考の根底には自分を変えたいという明確な意思があった。


 家族や同級生には自分が男の事が好きである、ということを知られたくなかった。だからこそ、女の子である彼女と付き合う事で家族に、自分は普通であるのだとアピールするとともに、もしかしたら女の子のことを好きになれるかもしれない、という淡い期待がそこにはあった。





 楽しくはあった。回るのがやけに遅いメリーゴーランドも、しんどくなるぐらいに速いジェットコースターも、綺麗な形をしたソフトクリームも、たぶん今も嫌いではないと思う。手を繋いだり、キスをせがまれたり、そういったものには決まって「まだ早いんじゃない?」と笑って誤魔化した。


 でも、心の中では彼と同じことができたらどんなに幸せだろうかと思った。


 


 結局、彼の事を好きなまま高校を卒業した。高校を卒業をしても、僕たちは付き合っていて、彼女は僕のことをより一層知ってくれて理解してくれて好きになってくれた。けれど、僕は彼女の好きな食べ物もやけに大変そうなバイトの曜日も甘ったるいシャンプーの匂いも、全部覚える事ができなかった。その部分を埋めるように、彼の大好きな食べ物と彼の働いていたバイトの曜日と爽やかなシャンプーの匂いだけが残った。


 


 それは、彼に告白できなかったことの未練が残っていることの表れだった。


 

 その未練を感じるたびに、なぜ男を好きになってしまったのか。その問を自分自身に投げかけると自己嫌悪が大きな黒い波になってやってくる。そして、その度に死にたくなって、でも自殺する勇気なんて存在するわけもなく、ただ鬱屈とした気持ちを大事に抱えるだけだった。


 そしてその陰鬱は更に暗く黒くなっていった。それは大学に入って2ヶ月ほどたったときだったと思う。彼のSNSに1枚の写真が投稿された。僕の知らない女とのツーショット。「大好きな彼女」なんていう短いタイトルと共に載せられていた。見たことのないほどに幸せに染まった笑顔で、エクボはいつにもまして愛おしく見えた。刹那、湧き上がってきた感情に、ありもしない僥倖を望んでいた自分が酷く滑稽に思えた。




 


 窓から外を見る。茜色の空に東京タワーが突き刺さっていた。初デートであの東京タワーに行った。東京タワーから見た世界は全部汚く見えた。造り物のビルが無機質に立ち並び、見た目だけの木が妙に丁寧に整列され、お世辞にも綺麗とは言えない東京湾が見える。でも、彼女はとても楽しそうにしていた。見たことのないほどの幸せそうな笑顔で僕を見るその顔には、小さなエクボがくっきりと出来ていた。


 







 催促のメールが、また1件きた。


 『なにかあったの?』


 いいや、なにもないんだ。ただもう、僕たちは終わるべきだと思う。そう思わないかい?

 

 「ごめん、もう別れよう」


 自分でも驚くほどの慣れた手つきで送った。フルートの旋律よりも滑らかなのでは、なんていう気持ちの悪い冗談が浮かぶ。けれどその冗談はすぐに消え去り、その代わりこの一文は、酷く冷たいなと思った。


 送ってから数秒経ってすぐに既読がついた。それを確認した僕はスマホをベットに投げた。



 こうやって自分は、人生を無駄にしていくのだろう。あんなにも優しくしてくれた彼女を身勝手な考えで捨てて傷つける。その内、生きる上で大事な"何か"さえも失っていくのだろう。もしかしたら既にもう、失っているのかもしれない。けれど、それに気づくことさえ今の僕にはできなかった。


 これから、どうやって生きていけばいいのだろう。想い続けていた彼には愛する人がいて、思い続けてくれていた彼女の事は自ら捨ててしまった。愛すことも愛されることも、僕はどちらも放棄してしまった。




 たぶん、こんなことになったのは彼でも彼女でも世界のせいでもなく、紛れもない自分のせいで。


 でもその現実をを受け入れることは僕にはできなくて。



 ただひたすら。


 もう少しだけ早い季節に出会っていればまた何か変わっていたのかもしれない、なんていうことだけしか考えられなかった。

 

 

 


 


 

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