act.7 あばよ(終)

「えっ……俺、東京から北へは、行ったことないんだけど」


「言ったろう。オイラ、湯治に行くって。ありゃあどのくらい前か、オイラが落とした金子きんすを追いかけて拾ってくれた坊やだ。けどまぁ、あれはお前さんが六むっつの頃だから、オイラが見えたのかも知れねえな。流石に覚えていないだろう」


 やつの目と声は、どこか懐かしそうに俺に語りかける。

 残念ながら、そんなことがあったのを、俺はまるで覚えていなかった。


「ああ、あの時の……霞んじゃいるが、覚えているよ」


 俺は嘘をついた。それはやつに促された時のように勝手に口からこぼれたものではなく、何故かそうした方が良いと思ったからだった。


「これも何かの縁だ。こりゃまた何処かで会うかもしれねえな。それまで、お互い達者でな」


 黒い毛むくじゃらは、あばよと俺に手を振りながら、そっとドアを閉めた。



 クラクションの音にふと我に返ると、丁度前方の車が数メートルほど移動していた。俺は慌ててサイドブレーキとギアを解除し、ペダルを緩める。車はゆっくりと前進し、すぐに前との距離は縮まった。

 もしかして眠っていたのか……。そう思ってカーナビの画面を見たが、サブが出て行ってから左程時間は経過していなかった。

 そこへ勢いよくドアをあけ、サブが戻ってきた。


「兄《あに》さん、駄目だぁ……石鹸しか置いてねぇ! 食い物、飲み物、新聞まで全部すっからかんでさぁ!」


「えっ、そんなに何もないのか」


 確かにこの人の波だ。皆考えることは同じだろう。そうなると、あるものをあるだけ買っていこうかという心積もりも頷ける。


「すいやせん。何も買えませんで」


 そう言いながら、サブは1万円を俺に戻す。

 ふと俺は、自分の口にカレーの味を発見した。それは紛れもなく、あの甘くまろやかなカレーパンの味だった。同時にダッシュボードに置かれた、長細いバタークリームのパンがあるのに気が付いた。


「ああ、そうだ。これ食えよ」


 俺はサブにパンを手渡した。


「兄さん。これどうしたんで?」


「何、さっき『知り合い』とばったり会ってよ。貰ったんだ」


「いいんです? 兄さんの分は――」


「ああ、俺はもう食ったから。腹、減ってんだろ?」


 俺は言いながら、窓の外を見た。相変わらず車道を車が埋め尽くし、歩道は人があふれている。どこへ向かっているのか分からない、顔も装いもバラバラな人の波は、一様に同じ方向へと歩き、視線の届かない先へと消えていく。

 ふと強く風が巻き、その歩く一群が一斉に身を縮ませる。唸りをあげて通り過ぎるその強風は、窓の内側にいる俺にしてみれば、どこか遠い世界の出来事のように思えた。


(終)

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百鬼夜行の夜 〜臆病者、カレーを食べる〜 カレーだいすき! @samurai_curry_guan

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