第4話

「邦彦は真面目過ぎるんだよ。合コンで先生オーラなんて出すなよ」


「そんなこと言われてもなぁ……」


 時刻は午後11時。

 さびれた駅前商店街。その入り口にある焼き鳥居酒屋で、僕は大学時代からの友人である香山とサシで飲んでいた。

 合コンでなんの成果も残せなかった男たちの反省会だ。


 煤と手垢で磨かれたカウンターに肘を突いて香山はため息を吐き出した。

 まだ泡立っている生中を掴むと、彼は一息に飲み干す。元ラガーマンのごつごつとした手がジョッキを握りしめるのには妙な迫力があった。


 そんな友人の隣でなまっちょろい手を僕は静かに挙げる。

 人当たりの良さそうな壮年の店主に、僕は「レモンサワー」を頼んだ。

 ついでに「塩」も。


「邦彦。お前な、教師やめないと一生結婚できないぞ?」


「それは教職に対する偏見だよ」


「ちげーよ。バカ正直に『教師やってます』なんて言うなって話だよ」


 香山は中ジョッキを店主に返すと、湿った手で竹かごの枝豆を摘まんだ。

 その横で、僕は店主から「レモンサワー」と小皿に盛られた塩を受け取る。


 小指サイズの塩の山を割り箸で崩す。

 泡立つ透明なアルコールの中に僕はそれを振りかけた。


 今日の合コンは香山がセッティングしてくれたものだった。

 生まれてこのかた恋人のいたことがない僕を見かねて手を尽くしてくれた友人。その期待を僕は見事に裏切った。


 数ヶ月ぶりのアルコールは、恋人のいない人生のように塩辛い。


「……ごめんな」


 ため息の代わりに弱気が漏れた。


「いいよ、分かってるよ。長い付き合いなんだから」


「分かんないんだよね、どういう話を女性とすればいいのか」


「それも知ってる。大学時代から酷かったものな。今はもっと酷いけど」


「ほんと、ごめんな」


「これは何か合コン用の持ちネタが必要だな」


 グラスに映る香山の様子を窺う。

 直接彼を見る勇気も元気も既に僕にはなかった。


 水滴にまみれたグラスの中で枝豆を弄りながら香山が天井を見上げる。「そうだ」と呟くと、彼は手ぬぐいで指を拭いた。


 指先が伸びた先は、箸置きの横に置かれたスマホだ。

 太い指で器用にそれを弄ると、彼は「これだ」と僕にとあるアプリを見せる。


 アプリの名は『経験カウンターくん』。


「スカウターかな。撮影した相手の経験数が表示されるの?」


「おっ、正解」


「冗談だろ?」


「という体のジョークソフトだ。本当は告白した回数をカウントするんだとよ」


「くだらないなぁ……」


 けど、種明かしだけで笑えた。

 確かに合コンの席で出したら盛り上がりそうだ。


 なんて思っていると、香山がにやけ顔で僕にスマホのカメラを向けてきた。

 物は試しということだろう。

 断りもなく彼は僕を撮影する。


 見せてもらった素面の堅物教師の頭には「0」と虚しい数字が浮かんでいた。


「なるほど優秀だ。これをきっかけに女の子と話すってことかい?」


「いや、こんなの男から出したら普通に嫌われるぞ」


「……なんで紹介したのさ?」


「けど、女の子が撮影するなら話は別だ。そこでだ――撮られた時に驚くような告白回数にしておくんだよ。告白ならなんでもカウントするからさ、これって」


 ドヤ顔をする香山。

 スマホを置くと彼は空の中ジョッキを店主さんに渡した。


 女の子がこのアプリを使うのを待つのはちょっと気の長い話のように思う。

 けど、53万とか出たら面白いかもしれないな。


 フリーザさまかよって。


 酔った頭でくだらないことを考えながら、僕は塩辛いサワーを舐める。

 ふと、香山がアクリルスタンドを手に取って唸った。


 なにを悩んでいるのだろう。

 いつも生中ばかりなのに。


「……なぁ、ボトルで良い酒とか頼んでもいいか」


 アクリルスタンドから視線を動かさず香山は僕に言う。

 その顔つきが妙に真剣で、喉まで出かけていたからかいの言葉が引っ込んだ。


 大学時代の延長線上みたいなくだけた空気が急にシリアスに変わる。

 壁のエアコンから吹き付ける冷風に酔いが覚めた。


「どうしたんだよいったい?」


「お前と飲むのも最後かもって思うと、しんみり来ちゃってさ」


 そう言って、香山がアクリルスタンドを握る指をわざとらしく動かす。

 ごつごつとした左手の薬指には――銀色のリングが光っていた。


 合コンの時にはしていなかった。

 いつの間にはめたのだろう。


 人生のほろ苦さを味わうには、塩入レモンサワーでは少し物足りなかった。


◇ ◇ ◇ ◇


 盆前の土曜日。夜も更けて午後10時過ぎ。

 繁華街は帰省した若者たちでいつになく賑やかだった。

 そんな喧噪のただ中にあるチェーン店居酒屋に僕はいた。


 4人がけの座卓をつなぎ合わせ、無理矢理10人座れるようにした座敷席。集まったのは、香山の結婚式で知り合った男女たちだ。

 結婚式の二次会で意気投合したメンバーによる日を改めての合コンだ。


 開始から一時間ちょっとが経っている。

 いい感じにメンバーの緊張は解け、リラックスした体勢でのまったりモードに場は突入していた。やけに盛り上がったのは、やはり年齢が近いからかもしれない。


 座敷の中央で新婦の高校時代からの友人が手を叩く。

 誰に頼まれるでもなく自然に場を取り仕切る彼女は「ラストオーダーです」と、ほどよい声量で天井に叫んだ。


 そんな彼女を眺めて、僕は甘いソルティドッグを舐める。


「芳原さん、次は何を飲みます?」


「……えっと、また同じので」


「へぇ、好きなんですか、ソルティドッグ?」


 その隣にはちょっと小柄で幼い格好の女性がいた。

 ショートボブに淡いピンクのワンピースを着た女性。赤いペディキュアをした生足を、挑発的に見せつけてくるような娘だった。


 香山の奥さんの友人。

 たぶん年下。


 子供みたいな手が握りしめるのはカシスオレンジ。

 途中から数えていたが三杯は飲んでいる。一向に変わる気配のない彼女の表情や目の色が、僕をなんだか無性にアルコールに走らせた。


「そういえば、高校の先生なんですっけ?」


「そうですよ。数学教師やってます」


「優しそうだし女の子にモテモテなんでしょ?」


「そんなことないですよ。からかわれてばっかりです」


「えー? 若い子には魅力が分からないのかな。私だったら「好き好きオーラ」出して迫っちゃうのに」


「からかわないでくださいよ。もう」


 ぐいぐいくる彼女を肩を押して離す。

 けれどもそれは彼女の僕への興味を増幅させただけだった。怪しく微笑んだその顔に、教師生活で培った危険センサーが反応する。


 グラスをテーブルに置くと、彼女は足下のスマホを持った。すぐに「ほら、芳原センセ!」と、きわどいからかいの言葉が襲う。


「これ知ってます? 『経験カウンターくん』って言うんですけど?」


 ピンク色のスマホの中で僕がよく知るアプリが動いていた。


「……いえ、はじめて見ますね」


 計画通りに僕は嘘を吐いた。


「これ経験回数をカウントしてくれるアプリなんです」


「へぇ。すごいですね」


「芳原センセがどんな女性遍歴を辿っているのか気になるなぁ」


 言うが早いか前のめり。

 僕に覆い被さるように彼女が身を寄せてきた。

 これまでで一番顔の距離が近い。


 たまらず身を引いた僕を逃がすまいと、彼女がお尻でキュッと床を擦る。

 太ももに軽くのった彼女の体重がもどかしい。


 馴れた感じで彼女はスマホのカメラレンズを僕に向ける。


「撮っていいかな、芳原センセ?」


「……いや、その」


 駆け引きでもなく縁起でもなく素で返事に迷った。


 見上げる格好だと、彼女の女性の部分がやけに目につく。

 逃げるように向けた視線が彼女のサディスティックな顔を見つけて止まる。ぺろりと、小さな舌先が唇を舐める姿に一瞬息が詰まった。


 沈黙を責めるように、意地悪な彼女の顔がさらに僕に近づく。


 鼻と鼻が触れあうんじゃないかという距離になった所で――彼女の手からスマホが天井に打ち上げられた。横から割り込んだ白い手がそれを奪い取ったのだ。


「こーら、ダメよきいちゃん。またそうやってウザ絡みする」


 白い手の持ち主はさっぱりっとした格好の女性。


 青みがかった襟なしのブラウス。

 ガードが堅そうなクリーム色したストレッチパンツ。

 安そうな茶色い腕時計。メイクは薄く、ナチュラルメイク――と言うよりもどこか投げやりな感じがした。


 シニヨンで結んだ短いポニーテールが、頭の後ろでぴょこぴょこと揺れているのが、なんだか無性に視線をひいた。


 先ほど「ラストオーダー」を叫んだ新婦の友人だ。


「ちょっとぉ、邪魔しないでくださいよ能島先輩」


 能島さんというらしい。

 思い返すと、まだ一度も話していなかった。


 僕から「きいちゃん」をひっぺがすと、能島さんはシニカルな笑顔を浮かべる。

 視線の先にはスマホ。呆れたようなため息を彼女が吐いた。


「また『経験カウンターくん』じゃない。きいちゃんってばこればっかりね」


「だって面白いんだもの」


 すぐに「きいちゃん」はスマホを奪うと逃げるようにお店の廊下に消えた。


 咳払いをして能島さんが僕の隣に座る。

 後輩と違い、能島さんは僕と充分に距離を取った。

 ちょっと傷つくくらい。


「危うく騙される所でしたね。このアプリの経験回数って、告白した回数のことなんです。だから、身に覚えのない数字が出て驚くんですよ」


「へぇ、そうなんですか」


 僕に容赦なく屈託のない笑顔を向ける彼女。「騙されなくてよかった」「いいことをした」という顔が、嘘つきの胃にずっぽり刺さった。


 顔色を隠したくてアルコールを飲む振りをする。

 だがグラスの中身は既に少なく、からりと虚しい音が僕らの間に響いた。


 ぷっと能島さんが吹き出す。


「ソルティドッグでいいですか?」


「あ、大丈夫です。実はもう同じのを頼んでいて」


 すると、見計らったように店員さんがドリンクを持ってきた。


 小柄な若い女性。

 たぶん学生アルバイトだ。


 僕と能島さんの前にグラスを置くと、「ウーロン茶と特製ジンジャーエールでよろしかったですね?」と、彼女は少しも疑いのない声色で僕に尋ねる。


 薄いウーロン茶と、しょうが色のジンジャーエール。


 確認した通りだ。

 けれど注文通りではない。


 まぁ、別に構わないか――。


「すみません。こちらの方はソルティドッグを頼まれたそうです。注文間違いではないですか?」


 ジンジャーエールを頼んだことにしようとした僕の前で、能島さんがなんでもない感じに指摘した。ちっとも嫌味じゃない感じに僕も驚く。


 店員さんがはすぐに伝票を確認すると僕たちに頭を下げる。

 テンパる彼女に「いいのいいの、大丈夫だから」と能島さんがフォローする。「ですよね?」と僕に向いた顔もまた、なんだか爽やかなものだった。


 キンキンに冷えたジンジャーエールのグラスを僕は持ち上げる。

 そのまま店員さんに返してしまってもよかった。


 けれども――。


「これはこれでいただきます。それとは別に、ソルティドッグをいただけますか?」


 なんだかそれも違う気がして僕はグラスに口をつけた。


 塩みとはまた違う辛さが口の中に広がる。

 嫌いじゃない味だった。


 心底助かったという顔をした店員さんは、「はい。すぐにお持ちします」と言い残してすぐに厨房へと駆けて行った。

 その背中を見送った能島さんが少し戸惑った顔をする。


「……差し出がましかったですかね」


「……あぁ、いえ。こういうのどうも苦手で」


 ウーロン茶を手にしょんぼり俯く能島さん。

 頭頂部に向かって垂れたポニーテールにもなんだか元気がなかった。


 けれど、そんな仕草が不思議と愛らしい。

 もっとそんな彼女を眺めていたかった。


 けどまぁ、大人げないか。


 僕は自分のグラスを能島さんのグラスに打ち付けた。

 グラスの鳴る音に遅れて、氷が涼しい音を立てる。はっとした感じに顔を上げた能島さんに、僕は不器用な愛想笑いを浮かべた。


「言ってくださってありがとうございます」


「……いえ。こちらこそすみません」


「貴方みたいな人でも、取り乱すんですね」


「どういう意味ですか、もう!」


 笑い合って痛み分け。「さぁ、飲み直しましょうか」と、すっかり元の調子に戻った能島さんが少しわざとらしく身体を起こした。


 ウーロン茶をこぼさない辺り、酔いはまだまだのようだ。


「やだ、能島先輩ってば、芳原センセが気になるならそう言えばいいのに」


 なんて思っていると、座敷の入り口の方から視線が飛んできた。

 スマホで口元を隠した「きいちゃん」がそこには立っている。


 すぐに彼女は靴を脱ぐと滑るように能島さんに近づいた。能島さんの腕に抱きついた彼女は、僕にしたのと同じようにその赤らんだ顔を寄せる。

 一方で、詰め寄られた能島さんはといえば――またたいそう取り乱していた。


 まるでゆでたみたいに顔が真っ赤だ――。


「違うわよきいちゃん! 別にそんなつもりじゃないの!」


「またまたー、素直じゃないんだから」


「ちょっと話してただけだってば!」


「芳原センセ。能島先輩ってかっこつけなんです。声かけたら二つ返事で合コンにくるのに、ほんと素直じゃないんだから」


「やめてきいちゃん! 違うの!」


「お堅い者どうし、よかったら仲よくしてあげてくださいよ」


「真に受けないでくださいね芳原さん!」


 大人びた能島さんと今の能島さん。

 いったいどっちが本当の彼女なんだろうか。


 僕にはさっぱりと判別がつかない。


 振り向いた能島さんの瞼にはうっすらと涙がにじんでいる。

 どうやら、本気でそんなつもりはないらしい。


 やっぱり、この気持ちをはっきりと言葉にしない限り、僕は彼女を手に入れることはできないんだろうな――。


 そう思うと、29年目にしてはじめて僕の心に勇気が湧き出てきた。


「僕は仲よくしたいですよ」


「……はい?」


「能島さん、よろしければ僕と連絡先を交換しませんか?」


 きょとんとする能島さん。

 暴れていたポニーテールが彼女の頭の上で息を吐いた。


「……貴方みたいな人でも、そんなずるいこと言うんですね」


「そうみたいです。僕も、ちょっと驚いています」


 顔から赤みが引いていくなか、唯一色づいている唇を彼女はグラスで隠す。

 色の薄いそれがウーロンハイだったと僕たちが気づいたのは、翌朝のことだった。


【了】


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経験回数が見えるアプリで学校一の美少女を見たらその回数に思わず驚いてしまった僕。勇気を出して本当か確認したら「責任を取れ」と21人目にされた。 kattern @kattern

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