第3話

 芳原邦彦先生はあたしが所属している美術部の顧問。


 20歳後半。

 眼鏡でちょいチビ。

 もしゃっとした髪が可愛らしい小動物系男性教師。

 性格も優しくて男女問わず生徒に慕われてる。


 ちなみに漫画が趣味。

 よく仲の良い生徒と流行っている漫画の話をする。


 連載が終わった古い漫画の話をすると、わざわざ貸してくれたりもする。他の先生からは、生徒との距離が取れていないって言われてるけれど。


「松山さん。ドラゴンボールって何巻くらいまで読んだ?」


「今、フリーザ戦がはじまった所です」


「おぉ、けっこういい所だね。あの辺りが一番熱いよね」


「ごめんなさい、急いで読みますね?」


「いいよ。急かしている訳じゃないんだ。ゆっくり読んで」


 申し訳なさそうに頭を掻くと芳原先生は立ち去る。

 美術室の隅にある机に座った彼は、取っ手付きのマグカップをわざわざ両手で抱えるように持ってちびりと飲んだ。


 いつもの放課後。

 美術部員のあたしは美術室でデッサン練習をしている。

 スケッチブックには名前も知らない石膏像。


 スケッチがいまいちなのは、最近の部活への取り組みが不純だから。

 先頭にある芳原先生の似顔絵は巧く描けたのになぁ――。


「はい! それじゃ10分休憩! 次は人物がやるわよ、本栖くん準備してね!」


 三年生の部長が声を上げる中、あたしはまた芳原先生を盗み見る。


 書類仕事だろうか。

 ノートパソコンを忙しそうに叩く芳原先生に、あたしはこっそりウィンクを送る。


 気づいては――やっぱりくれないよね。


「けどもう少しよ由乃。細工は流々、後は仕上げをご覧じろ。ドラゴンボールをあたしに貸した時点で、すべては終わっていたのよ」


 ぐふふと胸の内で握りこぶし。


 あたしは今、部活動の顧問教師への道ならぬ恋に燃えていた。

 問題があるとすれば悲しいくらいに片思いだってことね。


「松山さん」


「びぁあああっ!」


 恋する乙女モードのあたしを背後から謎の声が強襲する。

 びっくりして四つ足の椅子から転げ落ちたあたしは、年季の入った木目の床に尻をついて大きな音を立てた。


 大丈夫とかがみ込んだのは声の主。

 ダビデ像をプロテインで強化したような大男。

 なんで美術部に入ったの柔道部いけよ大賞2021最優秀賞。


 同級生の本栖逸紀くんだった。


「もっぴー! ちょっといきなり話しかけないでよ!」


「ごめん……」


「これからデッサンモデルでしょ! こんなことしてていいの!」


「いや、だからだよ。悪いけどさ、ちょっと頼んでいいかな?」


 本栖くんはなりはアレだが性格はとても大人しい。

 なので、普通にあたしも仲良しだ。


 仲良し過ぎて、つい強く当たっちゃう。

 そんな感じの関係性。


「いいけど、内容と条件次第かな?」


 あたしは尻餅をついたお尻を、これ見よがしに払って立ち上がる。


 意地悪に焦った顔をする本栖くん。

 背筋をピンと伸ばしていい姿勢なのに、おどおどと顔だけで狼狽えた彼は、こちらのご機嫌をうかがように話を切り出した。


「あのさ、俺のデッサンなんだけれど。後で見せてくれない?」


「……なにそのお願い? 自分のデッサンみてどうするの? 趣味なの?」


「違うよ。そうじゃなくてね」


「ははーん! さてはもっぴー、あたしのことが好きなのね? 残念でした! あたしにはもうすでに好きな人がいるんです! なのでごめんなさい!」


「……そうなの?」


 きょとんとした顔をする本栖くん。

 真顔。大きな身体した人が、そんな顔するとちょっと変な感じがするよね。


 急にあたりもシンと静まりかえる。

 もっぴーが変なリアクションするから、あたしたち噂の人じゃない。


 助けを求めるように芳原先生に視線を向ける。ノートパソコンから顔を上げた彼は、あたしと目が合うなり誤魔化すような苦笑いを浮かべた。


 なにそれ。


「ごめん、その前にお手洗い!」


「あ、松山さん」


「返事は後でするね! 期待しないで欲しいけど!」


 いたたまれなくて美術室からあたしは逃げ出した。


 校舎の廊下には西日が差し込んでおり、白い床には大きなオレンジの格子模様ができあがっている。それを乱暴に踏み抜いてあたしは校舎の端に向かう。


 トイレに入ると下級生たちが洗面台にもたれかかってだべっている。

 その横を通り抜けてあたしは個室に駆け込む。


 あぁ、もう、なんなの――。


「せっかく今日、作戦実行しようとしてたのに。士気下がっちゃうな」


 蓋したままの便座に腰掛けて、あたしは弱音を吐き出した。


 作戦というのは他でもない。

 芳原先生とあたしがお付き合いするための深謀遠慮なる恋愛計画。

 そのセカンドステップのことだ。


 ファーストステップは先ほど芳原先生が口にしたドラゴンボールだ。

 たいして興味も無い少年漫画をあたしがわざわざ借りたのは、先ほどの芳原先生の言葉が欲しかったからに他ならない。


 セカンドステップのセリフはこうだ。


~ ~ ~ ~ ~ ~


あたし 「芳原先生、もしお急ぎでしたら漫画お返ししましょうか?」


芳原先生「そうかい。じゃぁ、そうしてもらおうかな」


あたし 「すぐの方がいいですよね。先生の自宅までお待ちしますね」


芳原先生「え、いや、流石にそこまでは……」


あたし 「お急ぎなんですよね。遠慮なさらないでください。それじゃ住所を」


~ ~ ~ ~ ~ ~


 そこからサードステップで芳原先生のお家に来訪!

 電車・バスなら終電作戦! 徒歩圏内なら、道に迷ってからの自宅保護コース!


 お布団に入ってからの――ファイナルステップ承認!


 これでバッチリ!

 確実にヤレるわ!


 と、その前にやることがあった。


 あたしはスマートフォンを胸ポケットから取り出すと、中学校の頃からの親友が教えてくれたとあるアプリを立ち上げる。

 アプリストアにあったけれど、説明もレビューもない変なアプリ。


 その名も――『経験カウンターくん』。


「たしか、告白した経験の回数が分かるんだよね。これ使って先生の告白回数を確認しておかなくちゃなんだった」


 一年生の頃にひどい恋愛をした楓ちゃん。

 彼女が言うには――。


「男なんて猿だから、いけそうと思った女にはすぐ声をかけるわ。告白の回数=性欲のエグさだから、これ使ったらそいつがどういう奴かわかるよ」


 とのこと。


 まさか芳原先生に限って猿ってことはないと思う。

 けれど、楓ちゃんも心配して言ってくれたのだ。親友の言葉に素直に従おう。


「これで先生を撮影する。大丈夫、きっと先生のカウンターは0。いや、それはそれで不安よね。そうね二桁――男性として平均的な数値だと信じているわ」


 スマホの電源を切るとあたしはそれを胸に当てて抱きしめた。

 別にこんなポーズに意味はないけれど、けど、こういう験担ぎって大事でしょう。


 引き戸を乱雑に引く音がする。

 たぶん、さっきの下級生が外に出た音だ。

 ちょっとミッションの前に身だしなみを整えておこうと、あたしは洗面台の前へと移動した。


 額縁みたいな鏡を覗き込む。

 真ん中に描かれている女の子はブルーのリボンで結い上げたミドルツインテール。Zoffで買ったクラシックな丸眼鏡が妙に似合う愛嬌のある顔をしていた。


 中学校の頃の三つ編みお下げツインテよりはちょっとはマシかな。


 ツインテールを持ち上げて鼻の前へ。


 口の上で垂らして――おひげ。

 なんてやりながら、変な匂いがしないか確かめた。


 だいじょうぶ。

 シャンプーとリンスでできた、女の子のいい匂いだわ。


 鏡の中のあたしにバイバイするとお手洗いの扉を横に引いた。


「あ、松山さん。なんだ、そっちのトイレにいたのか」


「……どうしたんです、先生?」


 あらまぁなんてこと幸先がいい。

 二人っきりになる手間がはぶけてしまった。


 外に出ると夕闇の海の中を芳原先生が泳いでいた。

 口ぶりから、私を探してくれていたみたいだ。


「急に飛び出すから、びっくりしたんだよ」


「……あたしのことを心配してくれたんですか?」


「君と本栖くんかな。二人とも、僕の大事な生徒だから」


 真面目な人だな。

 こういう時に、嘘でもいいから君のためって言えばいいのに。

 そうしたら女の子なんて簡単に、貴方のことを好きになっちゃうんだから。


 先生が教え子と付き合うなんて、漫画にもなるくらいありふれた話じゃない。別にいやらしいことでもなんでもない。男女として当たり前の営みだわ。

 なのに芳原先生はちゃんと一線を引く。


 そういう所が、好き。

 男の人として安心できる。


 楓ちゃんの自分を壊すような恋愛を近くで見ていたからかもしれない。


 あたしは恋にひどく臆病だ。

 幻想なんて抱けない。


 どうせ、最初の恋なんて実らないのだ。

 だったら安全な方がいい。


 きっと芳原先生ならあたしのことを大事にしてくれる。


 女の子としても。

 生徒としても。


「ほら、早く帰ろう。デッサン始まっちゃうよ」


「先生。ひとつ、お願いしてもいいですか?」


 盗み撮ろうと思っていたけれど、それはやめた。

 計画も全て白紙だ。あんなの、恋する女の子の勢いの前にはなんの意味もない。


 この勢いのままあたしは芳原先生に告白する。

 けど、その前に楓ちゃんとの約束だけはちゃんと果たしたい。


「面白いアプリを見つけたんです。それで、先生の写真を撮りたいんですけど」


「顔が入れ替わったりする奴かな? いいけれど、変なことには使わないでよ?」


「大丈夫ですよ。信頼してください」


 いい生徒のフリができるのもあともう少し。

 それが名残惜しくもあるけれど、どこか楽しみでもある。


 人を安心させるような笑みを浮かべる芳原先生。

 彼の顔をスマホのフレームの中へと収める。


 おどけてピースなんて先生はしない。

 ただちょっとだけ、格好つけて彼は背筋を伸ばした。


 シャッター音。

 そして、アプリに撮影した画像が表示される。


 朗らかに笑う芳原先生の、ふわふわとした頭の上には――。


「53万!!!!!!」


「どうしたの松山さん!」


「スーパーヤリヤリチンチンティーチャー⁉」


「なに言ってんの、松山さん⁉」


 信じられない数字が載っかっていて、私はその場で卒倒した――。


◇ ◇ ◇ ◇


 びっくりした。

 まさか芳原先生のヤリチン力が53万もあっただなんて。


 目を覚ますとそこは保健室。

 あたしは窓際のベッドで横になっていた。


 寝相が悪いのに制服で寝たせいか、スカートがしわくちゃになっている。

 窓から外を覗けばまだ日が出ている。それほど長くは寝ていなかったようだ。


 保健室の先生に話を聞いた所、廊下で卒倒したあたしは壁で頭を打ち、そのまま美術部総出でここに担ぎ込まれたらしい。


 芳原先生は校長や親に謝りに回っている真っ最中らしい。

 けっこうな大騒動よと、まるで人ごとのように保健室の先生は言った。


「……あたし、芳原先生に謝ってきますね」


「やめておきなさい。貴方、何も悪くないもの」


「けど」


「これも芳原先生の仕事の内よ。邪魔しちゃダメ」


 仕事の内という言葉がなんだか妙に身体に沁みた。


 先生は、あたしの隣にいることより、先生であることを選んだんだ。

 それはもう決定的に覆らない、この恋の結末のように思えた。


 裏返しに行く勇気は、残念ながらあたしにはない。


 そんなの、本当は最初からないんだ――。


「……分かりました、そうします」


 ちょっとタバコを吸ってくるわと、保健室の先生が部屋を出る。

 夕闇に染まった部屋にぽつりと取り残されたあたしは、なんだかなにもかもがどうでもよくなってまたベッドの上に寝転がった。


 ご町内の防災無線が鳴り響く。


 部活、もう終わったかな。


「そうだスマホ」


 確か、倒れたときにスマホを手に持っていた。

 どういう倒れ方をしたか分からないが無事だろうか。


 辺りを探すと、窓際の傍机の上に私のスマホが置かれていた。

 ベッドから起き上がって手に取れば――やっぱりそれはちょっと壊れていた。


 ぐすりと、鼻が鳴る。


 あたしはスマホの電源を入れる。

 側はともかく中身はどうやら無事らしい。

 ロック解除して点灯した画面には、さきほど撮影した芳原先生の笑顔があった。


「……53万って、なによ」


 ほんと、バカみたいな恋だったな。


「松山さん」


「ひゃぁいっ!」


 とかなんとかおセンチしてたら、また後ろから声をかけられる。


 本日二回目のずっこけ。

 今度はつるつるの白い床でお尻を打ったあたしは、お尻をさすり上げるのもそこそこに、その声の主を睨み上げた。


 そんなでかい図体して、なんで音も無く人の背後に忍び寄れるのよ。


「ちょっともっぴー! 急に話しかけないでよ!」


「ごめん。意識が戻ったのが嬉しくて」


 立っていたのは美術部の本栖逸紀くん。

 心優しき我が部のお絵かき巨人は、あたしの荷物を手にしてそこに立っていた。


 あいかわらず男のくせにどうもしまらない顔。


「アンタって、ほんと心優しき巨漢の戦士キャラよね。まさか目指してんの?」


「誰のこと?」


「山のフドウとか」


 ピンとこない顔をする本栖くん。

 ダメだ、彼ってば北斗の拳は読んでないようだ。


 このとぼけた顔をした男も、大切なものを傷つけられ豹変するのかな。


 なんて思ったのにね。


「そう言えば、中学時代はドカベンって呼ばれてたよ」


「はぁ? なんで? 柔道部って感じなのに?」


「柔道部の先輩が言うにはね、ドカベンって最初は柔道漫画だったんだって。それでなんか、野球やる前のドカベンだなって」


 なにが楽しいのか本栖くんが顔をほころばせる。

 このやり取りに笑うところなんてあったかしら。


 ただ、笑っても彼の顔が口しか変わらないのはちょっとだけ面白かった。


 はぁ――。


「あぁもう、すっかり気が抜けた。やめやめ青春終了。これより通常モードよ」


「もう動いて平気なの?」


「大丈夫。問題ないよ。ありがとうねもっぴー。お礼に一枚写真を撮ってあげよう」


 荷物を持ってきてくれた恩人にくだらない悪戯をしかける。

 あたしはスマホのレンズを本栖くんへと向けた。


 シャッター音の後、うちの部の優しき巨漢がスマホの中に収まる。


 その額に浮かんだ数字は「21」。


 多いのか少ないのか、判断に困る微妙な数字だ。

 ただまぁ、フリーザ様を見た後じゃ、ちょっと拍子抜けだよね。


「戦闘力、たったの21か。ザコめ……」


「あれ? そのセリフって5じゃなかったっけ?」


「ドラゴンボールは分かるんだ。いいのいいの、こっちの話。もっぴーらしくていいじゃない。これくらいが女の子としては安心な数字よ」


 ほどよく恋して、失恋してそう。

 安心できる数字。


 もし、この数字が芳原先生の頭に浮かんでいたら――。


「松山さん?」


「……なんでもないよ、もっぴー。なんでもない、から」


 どんなことをしても表情が変わらないのをいいことに、あたしは少し泣いた。


 ううん。


 しっかり泣いた。


【了】


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