第2話 タキと瓜姫子

タキは帰りの、このずしりと重い背中の米やみそ等を自分の腕一つで稼いだものだと思うと満足な気持ちで帰って来ました。

この調子で行けば瓜姫子を育てて行ける。

確かな自信が湧いて来て、躍り上がりたい程でした。

タキは食べ物の他に店先にぶら下がっていた小さな鈴を一つ買い求めて来たのでした。

途中でおかみさんと別れて歩きながら、その鈴がタキが歩く度にリンリンと鳴ります。

それはあたかもタキが幸せだ、幸せだと思う気持ちに拍子をつけてくれるようでした。

タキは家に帰り着くと真先に瓜姫子の寝ている所に行きました。

何と、寝ているとばかり思っていた瓜姫子が起き上がって座っていたのです。

タキはそれはそれはびっくり仰天しました。

まだまだ生まれたての赤子だとばかり思っていたのに自分で起き上がっていたのです。

「瓜姫子、お前寝たまんまで起き上がれないと思っていたんだヨ。おっかさんは嬉しい。とっても嬉しいヨ。」と言っていっぱい、いっぱい抱きしめて頬ずりしてやりました。

瓜姫子はタキが抱きしめるままにされながら、相変わらず目は閉じたまま声も出しませんでしたが、しかしタキには、

瓜姫子がうっすら嬉しそうに見目ました。

それからタキはますます一生懸命働きました。

瓜姫子はやがてつかまり立ちし、よろよろと歩き始めました。

その度に大きな喜びを感じて返事をしない我が子に色々話しかけました。

自分が小さい頃のあの無口なジジとの鼻水の話や母親が話してくれた昔話等。

自分がこんなに話す事が沢山あるのが、自分でも驚く程いくらでもあるのでした。

瓜姫子からは返事はないけれど、どんな些細な事もタキは語って聞かせました。

話す相手がいるという事がこんなに楽しい事で、自分に必要だったのだと知りました。

私は本当はこんなにおしゃべりだったんだと気が付き、おかしくて笑ったりしました。それから、もう一つ気付いた嬉しい事がありました。

瓜姫子は耳が聞こえるのです。

タキがリンリンと鈴を振ると音の方へ振り向くのです。

鈴を振りながら「瓜姫子こっちへおいで。」と言うと、ヨチヨチ歩いて来ます。

この子は耳が聞こえるのだ。間違いない。

試しに手に鈴を握らせてみると、いつまでも鈴を握って時々リンと鳴らしています。気に入っているのが解ります。

タキがそれをそっと取り上げてタキの手の平に乗せると、瓜姫子はためらいもなくそれを掴みました。目が見えないとばかり思っていたのに。

タキは不思議に思って、膝の上に抱いて瓜姫子の閉じた目を覗いてみました。

すると閉じている筈の目がほんの少し開いているのです。

その時のタキの喜びはいかばかりだったろう。

瓜姫子は耳も聞こえるし目も見えるのだ!

いろんなものを瓜姫子に取ってこさせました。

大きくなって来ると、「瓜姫子、そのお箸を取っておくれ。」とか「そのお茶碗取っておくれ。」とか言って手伝わせました。

動きはゆっくりで普通の人のように機敏では無いけれど、我慢強く待っていると、ソロリ、ソロリと言われた物を取って来てくれます。そして、少しずつタキの手伝いをするようになりました。瓜姫子は驚く程の早さでグングン大きくなって行くようでした。

月日の流れるのは夢のようで何と早い事だろう。

瓜姫子はいつの間にか背丈もタキの肩程まで伸びて増々美しく成長しています。

この分ではタキを追い越すのもそう遠い日ではないだろうと思うと、タキは思いきって瓜姫子にごはんの支度をさせてみる事にしました。

お米のとぎ方や、野菜の切り方、裏から薪を持って来て火をおこして煮炊きをする事等、タキは丁寧に教えました。

すると瓜姫子は嫌がらずにソロリ、ソロリとゆっくりではあるが少しずつ少しずつ、それをやり通すのでした。

途中で投げ出す事はありませんでした。

一度、しっかり見せて教えた事はかなりの時間をかけてもやり通すのでした。

この子は知恵が遅れている訳ではない。

ただ人の何倍も時間がかかるというだけだ。それが解ると、タキは早くに家の中の用事をあれこれ頼んで、自分は土間でせっせと草履作りに励みました。

それにしても日々美しくなって行く瓜姫子を、時々仕事の手を休めてみるのはタキの喜びでした。

こんな美しい娘は国中のどこを探してもいないだろう。

肌は白く唇は薄く紅をひいたようにほんのり赤い、黒々と艶のある長い髪、形の良い鼻、睫毛の長いその目がぱっちり開いたなら、どんなにか息を飲む程の美しさだろう。

だが瓜姫子はいつまで経っても目を開いてタキを見る事はなかった。

いつも少し俯いたように目を伏せているばかりだった。

タキは瓜姫子を見て、いつも溜息をついてしまう。

それから、いや、いや、これ以上望むのはやめようと思う。この子が人並みに目を開けて人並みに話が出来るのだったら私の傍にこうしている筈が無い。

この子は私だけのものだ。

私だけの宝物だ。例え口がきけなくても、この美しさならどこかの誰かがこの子を見つけて大騒ぎをするやも知れない。そうなったら大変だ。

ある日出来上がった草履を売りに出かける時、タキは心配でたまらなくなりました。

「瓜姫子、おっかさんは草履を売ってくるからネ。一人で留守番をしているんだヨ。誰か知らない人が来ても戸を開けてはいけないヨ。絶対にしんばり棒を外しちゃいけないヨ。」

最近、とみに娘らしくなった瓜姫子が心配でタキは何度も言い聞かせました。

「ここは人が多く通る道から奥へ入っていて人目につきにくい所でもあり、今迄は人が滅多に訪れた事が無いけれど、気をつけるんだヨ。」

日に日に輝くように美しく成長する瓜姫子。しかも口のきけない瓜姫子の事を思うと、赤子の時よりずっと心配になるのでした。

タキは出かける時、戸口に佇む瓜姫子を改めて眺める。

もう母親の私に並ぶほど、背もスラリと伸びた濡れたように長い黒髪、花びらのような小さな桃色の唇、透き通るような白い肌、俯いているように伏せられた長い睫毛の下のその目が一度でいいからぱっちりと開いた所を見てみたい。タキはもう一度念を入れて話しました。

「瓜姫子、おっかさんが帰って来るまでは絶対戸を開けてはいけませんヨ。私が出て行ったら必ずしんばり棒をするのですヨ。」と念を押して出掛けました。


先日、あの親切なおかみさんが、草履を作るのならこんな物でも足しになるだろうと知り合いに声をかけて着られなくなった古い着物や布切れを集めておいてタキにくれ、タキは大層嬉しく頂いて帰って来ました。

草履の鼻緒にそのちょっとした布を一緒に編み込めば、ずんと見栄えが良くなるのでした。

タキは小さな布はしも粗末にしないで、色とりどりの鼻緒の草履を作りました。

そして、おかみさんを通して古着を提供してくれた人達へお返しをする事を忘れませんでした。

今、自分がこうしていられるのは、おかみさんをはじめ、多くの人達の情けに支えられているからだとしみじみ思いました。

以前タキの母親が草履を編みながら話をしてくれた事がありました。

「人から受けた恩は必ず心がけて返すようにする事だヨ。いつかいつかとのんびりしていると、死ぬ時にそれが目に見えない大きな借財になってしまって、あの世に行く道すがら重い荷物になるからネ。」そう言って力無く笑っていたっけ。

「ちょっとした人様からの好意でも、何らかの形でコツコツ返しながら生きて行く。

ましては、こちらからお願いして借りた物は米一升であれば返す時は少なくともそれに一握り二握り分の米を足して返すものだと。

決してきっちりではなくて、それにお礼の気持ちを足して返さねばいけないヨ。

その後もまた、いつ何時どんな困った事が起きて、人様の助けが必要になるかも知れないからネ。だから普段から自分に出来る事や物があればちょっとした手伝いや、お裾分けを普段からしておく事が大事なんだヨ。自分の身の丈に合わない無理をする必要は無いけれど、自分に出来る時は少しずつ、少しずつ花の種を蒔くように心掛ける事だヨ。」

そう言っていたっけ。

タキは母親はそういう気持ちを持っていながら、結局貧しさ故に人に与える事の出来ない人生だったろう。

幼いタキを抱えて苦労し、きっとその頃に受けた情が余程有難く、いつか返そういつ返そうと思いながら自分の代で返せずじまいだったのがきっと心残りだったろう。

いつか人並みの暮らしが出来るようになった暁には、こうもしよう、ああもしようと考えていた心の現れだったに違いない。

そんな話をタキは物言わぬ瓜粲子に語って聞かせたりした。

瓜姫子はきっと聞いていてくれるに違いない。

返事はしないし、目も明けないが、私の話す事を一つ一つしっかり聞いていて、胸に畳んで心に収めてくれている筈だ。そして、いつか夢のようにあの子の目が開き、口が開いて鈴の鳴るような声で言葉を話す日が来るかも知れない。

私が話しかけたら黒い目をぱっちり開けて、笑顔で「はい、おっかさん」と返事をしてくれる日が来るかも知れない。

不思議な事は今までだって数々あったのだもの。希望を捨てないで行こう!と思ったりした後、また、いやいや欲張った考えを起こしたら罰が当たる。これで十分だ。今この私に与えられた瓜姫子を精一杯の心で慈しみ、有難く感謝して生きて行こう!と思い思い歩くのでした。

荒物屋に行く道すがら、あれこれ考えて歩くと、いつの間にか荒物屋に着いているのでした。

いつもの店が今日は違って見えました。

店の奥の方に、目の醒めるような美しい着物がタキの目に飛び込んで来ました。

生まれて初めて目にする豪華な着物でした。

しょいこの草履を降ろすのも忘れて見ていると、

タキに気が付いた亭主が、「ああ、この着物ですか?きれいでしょう。昨日町に仕入れに行きましたら、この着物が無造作に置いてあるんですヨ。あまりに美しい高価な物の筈なのに不審に思いましてネ。訳を聞きましたら、どこぞのお大名の姫様のお輿入れの時の物だったそうです。それが、その姫様がお輿入れの途中で急に倒れて亡くなってしまいまして。それが不吉だって言う事で誰も引き取り手の無いままに流れて来たそうなんです。それが随分と安い値が付いているんですヨ。それでそんないわくのある物なので私もどうしようか迷ったんですが、目の保養にと思いこうして買って帰って飾っているんですが。人によっちゃ気味悪がる人もいますが。着物に罪はありませんよネ。でもこれ程の物、なかなかお目にかかれるものじゃありませんヨ。」

亭主の話を聞きながら見つめるその着物は、赤い地に色とりどりの色糸で花や草や川や舟や鳥、御殿まり御所車、等々凝った刺繍が施された見事な物でした。

庶民が到底手に入れる事もまた、娘に着せる事も出来ない衣装でした。

それを見た途端、タキの心はどうする事も出来ない程、その着物のとりこになってしまいました。

「いくらですか?」思わずタキは荒物屋の主人に聞いていました。

主人は驚いたように、

「あの、おたくには娘さんがいなさるんですか?」と聞いた。

どう見てもタキはもう若い娘ではありませんでした。亭主の目には何歳に見えたのだろう。一人者のタキだったらそんなことを考え淋しく思ったろうが今のタキは瓜姫子の母親だった。タキは、

「はい、おります。この着物、私に買えますでしょうか?」と勢い込んで尋ねました。

主人はまたまた驚いてタキを見ていたが、「この着物はいくら安く買い取って来たといってもそうだナー。お前さんの編んで持って来る草履の五回分ぐらいはするヨ。」と言います。タキは決心したように、

「この着物どなたにも売らないで下さい。夜鍋してでも頑張って草履を作りますから。必ず取っておいて下さい。」と必死の思いで願っていました。

その様子に主人も負けて、

「いいヨ。これには帯も、それに姫さんが使ったという笛も付いているんだヨ。そういう曰く付きの物でも良いのかい?」

「ええ、構いません。私の娘に着せてみたいのです。」タキは喜びを隠さずに答えました。亭主は他の誰にも売らずに待っていてくれると約束してくれました。


夢のような着物だ。あんなに美しい着物。

タキも今まで見た事が無いし、これからも出逢う事はないだろう。夢のように美しい着物だ。自分が若い娘だったらどんなに欲しいと思っただろう。

瓜姫子は嬉しいとも何とも言わないだろうが、あの着物を羽織ったならどんなに美しくなるだろう。

間違いなくこの国一の美しい姫になるだろう。それに瓜姫子は観音様から授かった子だ。曰く付きの着物だからと言って何を恐れる事があろう。

タキは帰り道、目に焼き付いた美しい着物に酔いしれ興奮しながら帰って来た。

あの豪華な着物が手に入る。

それを瓜姫子に着せて眺める時の喜び。どんなに美しいだろう!

躍り上がるような気持ちで家の前に着くと不安になって来る。瓜姫子は中にいないのでは無いかと心配になってそっと呼んで見る。


「瓜姫子?瓜姫子?おっかさんだヨ。戸を開けて頂だい?」

中から返事は無い。恐ろしくなってもう一度、

「瓜姫子、おっかさんだヨ。」

優しく繰り返し言ってみる。もう心配で泣きそうな気持だ。

もしや誰かに連れ去られたのではないだろうか?

暫くすると、カタンとしんばり棒を外す音がして戸がゆっくりと開けられて、

今、初めて見るような感動と喜びを与えて美しい瓜姫子がそこに立っているのでした。

今もタキは夢のような幸せの中に帰って来たのでした。

ああ、私は本当に幸せ者だ。瓜姫子という宝物があるんだもの。

それからタキは朝から夜更けまで休みなく今までの倍、働きました。

ごはんの支度や洗濯は瓜姫子に言いつけておくとゆっくりではあるがしてくれます。

タキは無我夢中で働きました。

そして不思議に疲れを知らずに頑張れました。

あの美しい着物を我が子に着せたい母の一心でした。

そしてとうとう、着物が手に入る日が来ました。

タキが何日も何日も夜鍋をして作った約束の草履と引き替えに受け取ったその着物は、ズシリと重く、間近に見たそれは、赤黄桃緑青紫に加え金銀の糸がふんだんに使われ、見れば見る程見事な物でした。

それと一緒の帯は、木綿や麻の単衣しか来た事の無いタキには恐れ多い程まばゆい豪華な帯でした。

とうとう手に入れる事が出来た。

感無量のタキに荒物屋の主人は、「随分、娘さんの為に無理なさったのー。」と言って、タキの顔を気の毒そうに見ました。タキは荒物屋の亭主の言葉が何を意味するかも気付かずに只々着物や帯に見とれていました。

この笛も着物に付いておったので嫌でなければと言って笛も一緒に渡されました。

細い可愛い笛でした。

その笛を手に取った時、この衣装を身に纏い、この笛を吹いた姫様はどんなお方だったのだろう。と改めて思いました。

その亡き姫様に、「安心なされませ。この衣装と笛は瓜姫子が大事に致します。どうぞ御安心なされませ。」タキは着物に優しく語りかけながら持って帰って来ました。


「瓜姫子、おっかさんだヨ。戸を開けておくれ。」

戸が静かに開くと、やっぱりそこにはいつ見ても溜息が出る程美しい瓜姫子が待っていました。瓜姫子は孝行娘だ。私をこんなにも嬉しい幸せな気持ちにしてくれるのだもの。

タキはいつもそう思い仕事の疲れ等吹き飛んで行くのでした。

「瓜姫子、お前におみやげだヨ。」家に入って風呂敷を広げて、まばゆい衣装を広げて見せました。

瓜姫子はやはり何も言いません。

「さあ、さあ、羽織ってごらん。その着物を着ておっかさんに見せておくれ。」

物言わぬ瓜姫子の肩にかけると、それはそれは美しくこの世のものではないようです。

「お前は何も言ってくれないがおっかさんは嬉しいヨ。この笛はネ。亡くなった姫様が吹いていた物なんだヨ。嫌でなかったらお前、受け取っておくれ。」そう言って差し出すと瓜姫子は黙って受け取りました。

「お前は声を出さないが、この笛は吹けるだろうか。」

瓜姫子は笛を見るのは初めてだ。

タキは自分も笛など初めてだが、その横笛を唇にあてて穴を指で押さえてピーッと吹いて見せて、「こんな風に吹くものだそうだヨ。」と教えると、瓜姫子はタキを真似てピーッと吹きました。

「お前、笛が吹けるんだネ。」その事もまたタキを喜ばせました。

タキは瓜姫子の為に衣装を手に入れると、安心したのか寝不足がたたったのかフラリとめまいがしてその日は早々に床につきました。

その枕元で瓜姫子が幽かに笛を吹いています。

やがてピーシャララ、ピーシャララ。こつを掴んだのか美しい音色が流れて来ます。

驚いた、この子は天才だネ。こんなにすぐ笛を吹けるなんて。きれいな音色だ。何て子なんだろう。まるで静かな湖を吹き渡るそよ風のように青い空をゆっくりと流れる薄い雲のように、静かに静かに流れて行く。

それからの瓜姫子は笛を手にしてからひと時も手離さず、家の中の手伝いがあくと、いつも笛を吹いているのでした。

衣装もそうだが、この笛はきっと瓜姫子の言葉の替わりになってくれるかも知れないとタキは思うのでした。

母親として娘に何かをしてあげて何だかホッとしてようやく一休みしてみると、タキはこの頃、自分が急に年老いてしまった事に気付くようになりました。

今までは無我夢中でいたから解らなかったけれど、瓜姫子があんなに美しい娘になったのだもの。この自分が老いるのも自然な事だと思ったりしました。

それにしても瓜姫子を授かったあの日からどれ程経ったのだろうか?どう考えてもつい先日の事のように思えて来ます。でもきっとかなりの年月が経っているのだろう。

一日一日がたのしくて夢中で走って来て、あっという間の短いものだったように思うけれど。この頃、髪をとかすと抜け落ちた髪の中に白髪が目立つ。

手の甲を見ても若い頃には無かったシミやシワはもう年寄りの手だ。

自分がかなり老いている事が解る。

この頃では少し無理をすると胸が苦しくなる。それに気付くと、これから先は無理をしてはいけないと思う。自分の母親が亡くなったのはタキが瓜姫子の年頃ではなかったろうか。

つい昨日の事のように思うけれど、あれから随分経つのだろう。母親が亡くなった時は心細かった。けれどあれからタキは、観音様や人様の情を借りてどうにかやって来たが、瓜姫子は目も開かず口も聞けない。

私が居なくなったらこの先どうなるのだろう。

とにかく無理をしないで瓜姫子の為に一日も長く生きなければならない。

タキは無理をしないで出来るだけ横になるようにした。自分は母親のように早く死んではならないのだ。瓜姫子の為に長生きをしなければならないのだ。

瓜姫子が笛を吹いている。美しい音色だ。

静かな時間が笛の音と共にゆったりと流れて行く。極楽というものがあるのなら、きっとこの今のようなものを言うのだろう。

タキが楽しい思いに浸ると瓜姫子はそれに添うような音色の笛を吹いた。

また時々、暗い雲に覆われたように不安な先々の事を思うと、瓜姫子の笛は物悲しい音色でタキの心に添うのでした。

瓜姫子は物言わないが私の心持ちが解るのだ。

この子は本当は賢くて心根の優しい子なのだ。

ああ、この穏やかな日がずっと続けばいい。いつまでも、いつまでも続けばいい。

このままずっと美しい瓜姫子の傍らで笛の音を聞いていられたらどんなにいいだろう。

だけれども、そう思ううちにもタキの体の中から少しずつ少しずつ命の気が漏れて行っているような気がするのでした。

思えばタキを残して逝った母親も同じ気持ちだったのではないだろうか?とふと思ったりする。

もしもそうなら、私に残された時間が残り少ないのならこうしてはいられない。

命あるうちに手立てを考えなければならない。そう思い立つとのんびり横になってはいられない。

タキはだるくて重い体にムチ打ってあのおかみさんの所に出掛けて行きました。

おかみさんはいつものように気持ち良く迎えてくれました。

この人のお蔭で随分助けられたのだ。

そう思うとタキの目にはおかみさんが後光をさしているように見えました。

タキはこれまで本当に良くして頂いた事のお礼を述べ、深く頭を下げました。

それから自分の体の調子が悪い事を話し、一時的なものならいいが亡くなった母親と同じ症状なので自分にもしもの事があったら、目も殆ど見えない口も聞けない娘の行く末の事が心配だと正直におかみさんに話しました。

おかみさんはタキの話を黙って聞いた後、何か事情があるだろうとは思っていたが、あなたから言い出すまでは聞いてはいけないと思っていたと話しました。

その思いやりある言葉に触れてタキはすがるように話しました。

名前は瓜姫子と言い、目はまるっきり見えないのではなく幽かに見えているようだという事。普段から何でもさせているのでゆっくりではあるが、一通りの事は出来るという事。ただ人の二倍や三倍時間がかかる事を正直に話した。

私が死んだ後、誰もいない家でとても一人ぽっちにしておく事は出来ないので、嫁に行く事が無理でも、どこかの気持ちの優しい人の家で事情を承知の上で下働きに使ってくれる所はないでしょうかと洗いざらい話して相談しました。

すると、それを聞き終わったおかみさんが、

「今、話を聞きながらずっと考えていだのだけれど思い当たるところが一つあるんだヨ。」と言い出しました。

先方に聞いてみないと解らないけれど、実は自分の家の本家にあたる家で若くはないが、一人暮らしの男の人がいて、その人は昔は子供の頃から頭が良くて賢くて明るく思いやりのある、それは親の自慢の子供だった。

一人息子の上、学問好きで、この子はどんな偉い人になるだろうと親も期待し、親戚も周りの人達も噂した。

誰もが言うともなく、アジャアジャと可愛がられ期待されていたが、アジャが十五・六の頃、街道を身分の高い人の行列が通るという事がこの辺の村に伝わった。本人がそう願ったのかそれともアジャを認める誰かが進言したのか、アジャはその高貴な人について都にのぼり、その人に仕えながら学問をするという事に決まった。

たった一人の息子だったので親達は淋しかったが、息子の才能を伸ばしてやろうとアジャがその行列に加わって行く事を許した。

だが、それから何年経っても息子からは何の便りも無かった。やがて母親が先に死に、老いた父親も今年こそは帰るだろう、今年こそはと毎年待ち続けながらとうとう死んでしまった。

ところがこの春、その息子がひょっこり帰って来た。何とあれから二十年も経っていた。

広い家に帰って来ても今じゃ両親も亡くなって、家の中はガランとしている。

アジャが帰った事に気が付いた親戚の人や近所の人が見に行った。

するとアジャは、昔の少年の面影がなく、がっちりとした立派な大人の男になってはいたが、身につけている衣服は粗末なものでどこでどんな生き方をしていたのか知れたものではない。

あんなに快活だった少年が大層無口になって不愛想になり周りが何を聞いても一言の返事もしないで、ただ一日中ゴロリと横になっているばかりで何もしようとしない。

親戚や近所の人達が親切に代わる代わる食べる物を持って行って届けるので何とか食いつないで生きている。

土地も畑も茶畑もあるので本人がその気にさえなればいくらでも仕事があるが、まるでその気が起きないらしく一日中ゴロリと横になっているだけだ。

そういう人だから嫁の来てもないし、本人も嫁を貰う気もないようだ。

このまま一人にして置く訳にもいかないんだヨ。

何があったのか、とにかく人との繋がりが煩わしいらしんだヨ。人が話しかけても返事一つしないんだヨ。うんともスーとも言わないんだから本当の変わり者だ。

それかと言って怒ってる訳でもないらしい。

ただの面倒臭がりなんだろうネ。とにかく根は悪い人間じゃないんだけど、人付き合いが悪くてネ。そんなんだからお前さんの娘さんの話を聞いていて、これはひょっとすると丁度いいんじゃないかと思ったんだヨ。

ただし気の毒だけれど、そういう変わり者のアジャだから嫁入りという形にはならないヨ。

家の中の事を手伝いながら置いて貰うという形になるけれど、それでも良かったらどうかネ?

アジャはネ。元々の性格はとっても優しいんだヨ。途中で放り出すような事はしないと思うヨ。

どうかネ?丁度、良い話だと思うんだけどネ。おかみさんは遠慮がちにそれでも親切に言ってくれている。

タキはおかみさんの話を聞いて、親の身になれば不安でもありました。

しかし、目も開かず口の聞けない瓜姫子の事を思えばこの話にすがるしか無いと思われました。おかみさんは本当に良い人だし、こうしている今も少しずつタキの体から命か力か何かが抜けて行くような気がするのです。

自分がそう長くは無いという事を人は解るものなのかも知れません。

もう今では何をするにも力が出ず、少し体を動かすだけのちょっとした事でさえ、急な崖を登るように難儀になってしまっているのでした。ですから

おかみさんの所からようやくの思いで帰って来ました。

その夜、タキは自分の枕元に瓜姫子を座らせるとしみじみと話して聞かせました。

「おっかさんはまだまだ生きていたいが、人の寿命は決められているんだヨ。でも瓜姫子のおっかさんは幸せだったヨ。その事は本当だヨ。ごめんネ瓜姫子。おっかさんが死んだらお前の事は知り合いのおかみさんがいいようにしてくれるからネ。瓜姫子はそのおかみさんの言う通りにするんだヨ。その後の事はこの観音様が導いてくれるだろうからネ。」と言って自分が大事にしていた三寸ばかりの観音様を手に握らせました。

その時、瓜姫子はタキが買ってやった豪華な着物に金襴の帯を締めて帯の間に金の鈴をつけていました。本当のお姫様も叶わぬ美しさで静かに座っていました。

タキはその手に観音様を握らせて言いました。

「瓜姫子、おっかさんはお前のお蔭で本当にいい人生だった。本当に幸せだったヨ。こうしている今も、あんまりお前が美しいからまるで夢を見ているようだヨ。私はこうして幸せだったが、お前の事だけが心配だ。もしも死んでもおっかさんはお前の傍らについていて見守っているからネ。安心するんだヨ。いつも、そばについているからネ。」そう言ってタキは目を閉じました。

何故か解らないけれど悲しい辛い気持ちはありませんでした。体がスーッと楽になって心はもっと自由になれるような気がしたからです。

これが死ぬ事だとしたら、死んでからも何とかなるような気がしました。

そしてタキは死んでしまいました。

翌朝、誰も何も知らせなかったのに五人の男達が来てゴンゴンとお経を唱えてタキの亡骸を棺桶に入れて墓地に埋葬してくれてどこかに行ってしまいました。

タキは天井の梁からそれを見ていました。

するとそれが解ったかのようにその後におかみさんがやって来ました。

瓜姫子を見るとびっくり仰天しています。

「まあ、こんなに美しい姫様だとは思わなかったヨ。それに何というあでやかな姿だろう!タキさんはこんなにも大事に育てたんだネ。あの人のその心に誓って、この姫さんは大切にしないといけないネ。それにしても何という美しさだろう!目が開いて言葉が喋れたら国一番のお姫様になれるのに、本当に惜しい事だ。」

おかみさんは花嫁さんの手を引くように優しく瓜姫子の手を引いて連れて行きました。

ソロリ、ソロリと静かに行く後姿をタキの魂はじっと見送っていました。

瓜姫子は今、生まれて初めてこの家を出るのだったが、嫌がりも怖がりもせず涙一つ見せないでゆっくりとではあるけれど、それでいて目の見えない人のようでも無く、お姫様のように静かにソロリソロリと歩いて行きました。

タキの魂はそれをいつまでも見送っていたが姿が見えなくなると、その後を追うようにフワフワとついて行きました。


瓜姫子が親切なおかみさんに手を引かれて着いたのは村でもかなり大きな家でした。

家の周りの庭もかなり広く、母屋の周りには大きな納屋や蔵のような物がずらりと立ち並ぶ由緒ある屋敷のようでした。歴史のあるかなりの暮らしの家なのだろうとタキの魂は思って見ていました。

おかみさんは母屋に入ると、

「アジャ。お前の所にきれいな娘さんを連れて来たヨ。それはもうこの辺じゃ見た事の無いきれいな娘さんだヨ。こっちを向いて見てごらん。」と言いましたが、

男はゴロリと横になり、背中を向けたまんまこちらを見ようともしません。


本当に変わり者だと後からついて行ったタキは思いました。この先どうなるのか心配でフワフワと追いかけて来て瓜姫子の後ろから見ていたのです。

だが返事もしない振り返りもしないのに慣れっこなのかそれにはお構いなしにおかみさんは、一通り瓜姫子を紹介しました。

名前や、口の聞けない事。おっかさんが亡くなって可哀想な身の上の事。ゆっくりだが一通りに事は出来る事。これからアジャあんたの身の回りの世話をしてくれる事。そして最後に「今まで大事に育て上げた娘さんだ。アジャどうかこの娘を可愛がって守って大事にしておくれ。」とおかみさんは話したが、相変わらず男はどうでもいいとばかりに返事をしません。

まあ、呆れた。出て行けと言われないだけ良しとしなければならないんだろうか?タキはハラハラしながらそう思って見ていました。


だけどおかみさんはそれを気にせず、瓜姫子の手を引いて勝手に家に上がり、物のあり場所や水場や洗濯場等を連れ歩いて丁寧に細々と教えました。

厠や風呂場等も一通り教えると、最後には勝手口に一番近い四畳半程の部屋に連れて行って、「瓜姫ちゃんやここがお前さんの部屋だヨ。昨日、お前さんの為にここを掃除して、布団や何やかやと必要な物は揃えておいたがこれでどうだろうかネ。私は明日もあさっても顔を出すから困った事があったら…。そうだ!この鈴を二回振っておくれ。それで良いと思ったら鈴を一回リンと鳴らしておくれ。」そう言っておかみさんは瓜姫子をじっと見ました。

瓜姫子は鈴をリンと一回鳴らしました。

それを聞くとおかみさんはニッコリ笑って、「それじゃ私は帰るからネ。」と心配そうに瓜姫子に言った後、男の方に向かって「アジャ、また明日来るから瓜姫さんの事、呉々も宜しくお願いしますヨ。」と言って帰って行きました。

それでも男はピクリとも動かず横になって背中を向けたままでした。


タキの魂はそれらを最初からジーッと見ていました。見ながら心配していました。

男はうんともスーとも言わず黙ったままです。

瓜姫子は部屋と勝手口の間に座ったままです。タキの魂は瓜姫子の耳元へ行って、瓜姫子にだけ聞こえるように囁きました。


「瓜姫子、もう昼も過ぎたから夕餉の支度をしなければいけませんヨ。さあ、台所にに立って。」と言うと、瓜姫子は立って台所に行きゆっくりゆっくり米を炊き始めました。

タキの魂は傍らについて小さな声でこっそり教えました。

瓜姫子は野菜を見つけてそれで味噌汁を作り、台所の下のかめから漬物を見つけては、それをお盆にのせて寝転んでいる男の近くに置いて下がりました。

もう夕方になっていました。

それから自分の部屋に戻ると、押し入れから布団を出して敷き眠りました。

タキの魂はそれを見て少しホッとしました。

そして天井の梁から見下ろし、「瓜姫子、それでいいヨ。今日はよく頑張ったネ。疲れただろう?ぐっすりおやすみ。また明日頑張ろうネ。」と言って自分も暫くぶりで眠りにつきました。


朝になるとタキの魂は瓜姫子の耳に「朝だヨ。瓜姫子起きなさい。まだ外は暗いが朝餉の支度だヨ。」と教えました。

男は昨日作った夕餉をきちんと平らげて、やはり同じ所にゴロリと背中を見せて横になっています。

朝餉を作って男に出すと、瓜姫子は自分も台所の隅の上がり縁で静かに食べました。

そうしているとまた、あの親切なおかみさんがやって来ました。

今日は山ほどの稲ワラと草履作りの材料を持っています。

「家の事の合間に草履作りでもしたら気が紛れると思ってネ。」と言って笑いましたが、瓜姫子は黙っているし男も知らんぷりです。

さすがにおかみさんは場が持たないのか、何か困った事は無いかネ。あったら二回。問題無しなら一回鈴を振っておくれ。」と言いました。

瓜姫子は鈴をリンと一回振りました。

おばさんはそれを確認すると「じゃ、また来るからネ。」と言ってサッサと帰って行ってしまいました。

タキの魂はその様子を見ながら気が気じゃありません。

二人のうちせめてどちらかがありがとうの一言かご苦労さまの一言が言えたなら、おかみさんの真心も報われただろうにと思うと、どうしてやる事の出来ない自分が情けありませんでした。

瓜姫子は後片付けと昼餉の用意をすると人形のように黙ってしまいました。

家の中はシーンと静まり返っています。

タキの魂は「瓜姫子、昼の用事の無い時は自分の部屋で休んでいなさい。」と耳元で囁きました。すると瓜姫子はおとなしく自分の部屋に下りました。

何から何まで自分が変われるものなら変わってあげたい。そういう思いでいっぱいになるけれど、どうする事も出来ません。

タキの魂は美しい人形が目を閉じているような瓜姫子の耳元に「辛いかい?悲しいかい?苦しいかい?それともお前は瓜のように心が無いのかい?」と囁いて見ました。

瓜姫子はただ黙って俯いているばかりです。

辛いとか悲しいとか苦しいとか思うのは私だけなのかネーと呟いてタキは瓜姫子の周りをフワフワ漂っているしかありませんでした。

それにしてもあの変わった男はどんな気持ちなのだろう。

瓜姫子がここに来て以来、一度だって起き上がってこちらを見た事が無いヨ。いつも背中を向けてゴロリとよこになっているだけで瓜姫子をチラリとも見ようとはしない。背中に目でもついているのだろうか?それに生きているのか解らぬようにピクリともしない。本当に変わり者だヨ。

タキの魂はどんな男か気になり出しました。

それかといって、まさかフワフワ飛んで行って前に回って顔を見る勇気もないのでした。

それからも、今日こそは今日こそはと思いながら月日が流れて行くのでした。

あの優しいおかみさんもたまに何か持って顔を出してくれるけれど、男も瓜姫子も黙ったままで何の愛想も無いのに場が持たないのか、持って来た物を置いていつもすぐに帰って行きました。

今日も男は大仏様が横になっているように、そのまんまの広い背中を向けたままでした。

しかし、朝餉、夕餉を出すと、いつ食べたのかきれいに無くなっているのです。

美味しかったとか、まずかったの一言があったって良いようなものの顔さえ見せないのです。

そんな日が一日、また一日と流れて行きました。

ここに来て幾日経っただろう?

その日タキは霞むような心地よい春の景色を眺めていて、ふいに自分がやがてはここを離れて更に遠くに行かねばならない事に気が付きました。

自分が死んでから幾日経っただろう?

死んだ者の魂がこの世に留まれるのは四十九日だと言う。何だかその期限が来ているような。瓜姫子のトロトロした後ろをまとわりつきながら、温い夢を見ているような日々も残り少ないような気がする。

私がここにいてあげられる間にあの男をびっくりさせてこちらに振り向かせる手はないものだろうか?

タキはその時突然思いつきました。

そうだ!瓜姫子、一生懸命草履を作って旦那様をびっくりさせてあげよう!そうしたら、あのゴロ寝の旦那様だってお前を見直してくれるだろう。

夕餉の後始末を終えるとタキの魂は、瓜姫子を促して納屋に連れて行き戸をピタリと閉めさせました。

外はまだ明るかったが灯の用意をし作業にかかり出しました。

瓜姫子はタキの仕事を見ていて作り方は解る筈です。

「瓜姫子、もう少し手早くネ。そうそう、ここをこうして、そこをそうして。」

瓜姫子の背後から声を掛けながら手を取るように教えていると、今までトロリトロリとしていた瓜姫子の指がシャキシャキ動き出すではありませんか?

タキの魂がいつの間にかするりと瓜姫子の中に入り瓜姫子に溶け込んでいるような感覚になりました。

ためしに右腕を動かそうとすると瓜姫子の右腕が動きます。

左腕もそうです。足も何もかも自分のもののように自由に動きます。

私は瓜姫子の中に入れたんだネ。きっとこれも観音様の最後の贈り物だろう。これは時間があといくらも残っていないという事だろう。

「さあ、瓜姫子、頑張ろうネ。」タキと瓜姫子は一つになって無我夢中で夜通し草履を作り続けました。タキは最後の力を振り絞りました。草履は今まで無い程の小山が出来ました。

「これだけ作れば十分だろう。旦那様はきっとびっくりしてお前を見直してくれるだろうヨ。」

夜はまだ明けきっていない。遠くの山の端が幽かに白みかけて空もほんの少し青みがかって来た。

こんな夜明けって新しくって懐かしくって嬉しいけれど何だか胸がつまるネ。ねえ瓜姫子?」と話しかけて顔に手を当てると自分の顔のように違和感が無い。

夢中で草履を作っているうちに目もいつの間にかしっかり開いているのが解る。

「瓜姫子、お前が私になったのかい?それとも私が、お前になったのか?一つになったんだネー。あーこんな事ってあるんだネ。だけど私はもうじき天に帰らなきゃいけないんだヨ。もうそろそろその時が来たヨって誰かに急かされているんだヨ。死人が四十九日間この世に留まって居られるというのは本当だったんだネ。瓜姫子、私が消えてもこの先はお前の懐の中の観音様が守って下さるヨ。何と言ったって観音様のお力でこの世に授かったお前と、そしてそのお前のお蔭でたくさんたくさん喜びを頂いた私だもの。全てお任せしようじゃないか。私は今はとっても安らかな気持ちなんだヨ。何だか、この先のお前の行く末も何の心配も無いような気がしているんだヨ。それにしても、ここの旦那様のお顔はとうとう見れずじまいだったネ。どんなお方なんだろうネ。まあ、それも今となっては全て観音様の思し召しだろうけどネ。」

タキは瓜姫子に話すというよりも自分に言い聞かせているのだナーと思いました。

「瓜姫子、最後に笛を吹いて聞かせてくれないかい?もう最後のようだ。お前の笛を聞きながら逝きたいヨ。」

瓜姫子は笛を取り出すと吹き始めました。

夜明けの空にどこまでもどこまでも染み通るような美しい音色の笛でした。

「ああいいネー。私は満足だ。大満足だヨ。」そう思っていると、

納戸の戸がガラリと開いて大きな男がそこに立っていました。

タキは驚いて目を上げその顔を見ました。

そしてがっしりしたその男の目と一瞬目が合いました。

深い情のある大きな目はどこかで見た事のある目だと思いました。

夜がすっかり明けて陽が昇り、まさに男の背中から後光が射すように輝いていました。

見る事が出来ないと諦めていた男の顔が見れたのと何だかずっと昔から会いたかった人と遂に会えたような喜びの気持ちが一つになって何とも言えない心地でした。

タキがその目に懐かしさを感じて見ていると、

「お前、目が開いたのか!」と男が言いました。

それはタキに言ったのか?瓜姫子に言ったのか?解りません。

それでもタキは嬉しくて、何かはっきりした訳も無いけれど、これで本当に思い残す事は無いような幸せを初めて感じていました。


お寺の広い境内に倒れていたのを今、正に看取られて息を引き取ろうとしている女がありました。その女の枕元には目の涼やかな若いお坊様がいてしきりに女に話しかけているが女はとうとう亡くなってしまいました。

最後、はっきりと目を開けてお坊様の顔を見ると嬉しそうにフッと笑い、一言「瓜姫子をお願いします。」と言い息絶えました。

寺の内外回りの世話をする寺男の老爺も側にいてお坊に話しています。


「寺の境内で倒れていたのですが可哀想な女御です。食べ物も一切受け付けないで昏々と眠り続けて今、一瞬目を開きましたが息を引き取りました。

何かとても嬉しそうな顔をしていましたネ。それがせめてもの慰めですナー。」

若いお坊様も何か深く考えながら頷いています。

老爺がまた言いました。

「それにしても不思議ですナー。最初に見た時は随分年老いた女御に見えましたが、今こうして見ますとまた、随分若い美しい娘だったのですナー。勿体無い事です。」と言いました。

お坊様が小さな木彫りの古い観音様を手に

「この観音様を大事に持っていました。他にも何か握りしめているようです。」と言いました。

二人は握りしめている手をそっと開いてみました。

その手には数粒の“あじうり”の種が大切な物のようにしっかりと握られていました。

「瓜姫子を頼むと言ったのはこの事でしょうか?」とお坊様が言うと、

「この女人にとっては命と同じ大切な物だったのでしょうナ。ここの畑に植えて育ててみましょう。」と老爺が言い、

「この女人は手厚く葬って観音様は寺に預かりいつまでの供養してあげようと思います。」と若いお坊様が言いました。

幸せそうに眠る女の亡骸はその言葉を聞いてでもいるように微笑んで見えました。


やがて老爺の蒔いた種は目を出し立派な実をつけました。

あまりに甘く美味しいので、いつの間にか噂が広がり瓜の種を求めて人が寺に来ました。寺の老爺もお坊様もその種を惜しみなく皆に分け与えました。

皆は喜んでその種を畑に植えだしました。


そしてやがてこの一帯は甘い瓜の名産地になりました。瓜の名前はどこの誰かもとうとう分からずじまいの女が最後に言い残した“瓜姫子”と名付けられました。


瓜の“瓜姫子”は評判が評判を呼び、やがて各地に送られる程の名物になりました。

お殿様にまで献上されるようになりました。

瓜が甘く熟し収穫される丁度十五夜の頃には、瓜作り農家の者が次々と寺にお供え物の瓜を持ってお参りに来ます。そして寺の墓地の片隅に小さな墓が建てられそれに「瓜姫子」という名が刻まれ、そこにも毎年甘い瓜が供えられ供養されるのでした。


今年も瓜の時期になりました。今日も寺の本堂から朗々とあのお坊様の有難いお経が聞こえて来ます。

お坊様は毎年、この瓜を見ると思い出します。

あの時一瞬、目が開いて自分を見た時の何とも言えない嬉しそうな顔をした女人の事を…。そして今でも思い出します。この私を誰と見間違えたのだろうか?

あの女人はどのような生い立ちの者だったのだろうか?

この寺の境内に倒れていたのに、村人は誰一人その女を知らないと言う。哀れな一生だと思った。人知れず生き、名も無く死んで行った哀れな女の事はやがて誰からも忘れられるだろう。だが自分だけは生きてここにいる限り、この瓜の実る時には思い出してやろうと思う。お坊様はそういう思いを込めてお経を読みます。あの女人と瓜姫子に届けと心をこめて唱えます。

そしてタキと瓜姫子の小さな墓にも有難いお経は流れて行きます。

大きな仏像の足元にちんまりと置かれた小さな観音様は心なしか安心したお顔で聞いているように見えます。


もう淋しく無いネ。

もう悲しく無いネ。

タキも瓜姫子も二人が一つになってそこで眠っている筈だから。

そこに向かって毎日、朝な夕なに

有難いお経が流れて行くのだもの。

本当に本当に良かったネ。


おわり

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タキと瓜姫子 やまの かなた @genno-tei70

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