タキと瓜姫子

やまの かなた

第1話 タキと瓜姫子

昔々のお話である。

海沿いの賑やかな村から暫く山の方に登った小高い所に、茶畑のある小さな村がありました。

茶摘みの頃には多少、人の往来も増えるが、それ以外の時期はまるでひっそりとして家がポツポツとあるばかりの静かな隠れ里のような所だった。

昔、平家の落人達が逃れて来て、ここに棲み付いたという噂も成程と頷ける、そんな山里でした。

そういう気風のせいか、この辺りでは他人の事を詮索したり、陰口をたたいてふれ回るような者もなく、それぞれがひっそりと静かに暮らしているような所がありました。

その里からさらに山の方へ細い道を登った、まるで人家の絶えた所に、一人の老人が住んでいました。

老人は元々この土地の者ではありませんでした。

その老人がどこから来ていつからそこに棲み付いたのか、誰も解らぬうちに、いつの間にか、小さな小屋のような家を作って住んでいたのでした。老人はその小さな家でワラジ等を作り貯めた物を村の荒物屋まで持って行って、何がしかの物に替えて暮らしを立てているようでした。

別に人に迷惑をかける訳じゃなし、山道の脇の草藪の中に建つその家でひっそりと暮らしていたので、それを集まって批難したり追い出したりする村人では無かったので、そのままにしておかれました。

只、山の方の畑や茶畑の行き帰りにそこを通る人だけがここに小さな家があり、老人が住んでいるらしいという事を知っているだけでした。

その老人の所に小さな女の子を連れた女がいつの間にか棲み付きました。

子供のいる三人家族なら尚更の事、村人との交流をはかりそうなものなのに、その若い母親も老人同様、人の目を避けるようにひっそり暮らし始めました。

この若い母親はどんな事があって何から逃げて来たのだろうか?

罪を犯して逃げて来たのだろうか?

あるいは悪党から逃げて来たのかは解らない。

人にはいろいろな事情があるものだ。

それにしても、老人と女が親子であるならばお互い言いたい事を言い合うものだが、子供の母親はいつも老人に気を遣い、幼い子が元気良くはしゃぎまわる事を極力抑え込むようにしていました。無理を言って身を寄せている負い目があったのだろう。

老人は寡黙な質で、声を荒げて怒る事はしないが、元々がそういう顔付きと性分なのか、笑顔一つ見せた事が無く、恨めしそうな濁った眼を炉の灰に落として黙りこくっているばかりでした。

この無邪気な女の子に愛想の一つもした事がないのでした。

まして、お前は可愛いナだの、めいこいナだのと言った事が只の一度もないばかりか始終、苦虫を嚙み潰した顔をして黙っているばかりでした。

幼い女の子は老人の声を聞いた事がありませんでした。声が出ないとか、ものが言えないという訳では無いが、とにかく寡黙だったのです。

だが三・四歳の女の子は、まだあどけなくて、子供が持つはち切れそうな元気がありました。何せ、村からはずれての一軒家なので、遊び相手も居りません。

今日も炉縁に座って黙りこくっている老人を、そのクリクリっとした目でじっと見ています。老人はいつもの事ながら、眠っているのかそれとも只目を瞑っているだけなのか。それとも近くにいる幼児が煩わしいのか目を瞑ったまま作り物のようにじっとしたまま動かないままです。

母親は土間のむしろの上で老人から受け継いだ草履作りをしています。

老人は気ままな一人暮らしの中に突然入って来たこの親子が迷惑なのか、そうでないのか解りません。きっと迷惑だったのでしょうが、それでも出て行けとも言いませんでした。母親も置いて貰っている肩身の狭さからか老人に対しては本当に必要な事以外の無駄話をしないように心がけているようでした。

さりとて、むっつりと黙り込んでいる人の前で幼児相手に楽しそうに遊んでやる事も遠慮して自然、口数の少ないひっそりとした雰囲気が形作られていきました。

そんな大人の事情や思惑を知らない幼い女の子は今日も何かを待っているように黙りこくった老人のすぐ近くで老人の鼻の先を見ています。

すると老人の鼻先からツーッと鼻汁が長い糸を引いて出て来ました。

女の子はすかさず、「ジジ、鼻水それ!」と教えてあげるのです。

すると、その鼻汁は今にも炉端に落ちそうな瞬間に、また老人の鼻の中にスーッと戻りました。当の老人は相変わらず目を瞑ったままです。だが、さっきから女の子はそれを見守る事を止めません。

また、鼻汁が出て来たら教えてやろうと真剣に待ち構えています。

やがて、また、老人の鼻先からツーッと鼻汁が垂れて来ました。すかさず、「ジジ、鼻水それ!」女の子は教えてあげます。

するとまた、鼻汁は老人の鼻の中に戻って行きます。だからといって、老人はうるさい!とも何とも言わないので、この状態はいつまでもいつまでも続きました。

全く滑稽な話だが、それでも老人は瞑っている目を開いて女の子を叱る事もありませんでした。

女の子は老人が何か一言、言ってくれるのを待っていたのかも知れません。

だが、この女の子がずっと後になって思い出しても、老人が何か言った声を一度も聞いた事も無く、その声をどうしても思い出す事は出来ませんでした。

ジジの声は勿論の事、笑顔も知らずにジジとの唯一の思い出と言えばその時の、「ジジ、鼻水それ!」のあの事件だけを残して老人はその後、いくらもしないで亡くなってしまいました。

その粗末な家には母親と女の子が二人で住むようになって、静かな月日が流れて行きました。

女の子がやがて大きくなって知恵がつくようになった時、母親に、ジジの事を聞いた事がありました。すると母親は、「あの人は本当のお祖父さんではないのヨ。」と淋しそうに言いました。

「本当のお祖父さんはどこにいるの?」と聞くと、母親は首を横に振るばかりです。母親も自分の本当の父親を知らないと言うのです。

母親の母、つまりお祖母さんが生前に、そのお祖母さんという人は目が不自由で按摩をしていましたが、ジジの名前と居所を口に出して、その人は赤の他人だがいつか困ったらそこを訪ねてみろと言い残して逝ったと言うのでした。

どういう間柄なのか?ちょっとした只の知り合いなのか又は昔の按摩のお客さんだったのかは今となっては解らない。

それ程、女の子の母親も、そのまた母親も力になってくれるような身寄りのない淋しい身の上だったのだろう。

女の子はその時更に、自分のお父はどこにいるのと母親に聞きました。

名前は何て言うの?どういう人なの?どこに行けば会えるの?知りたい盛りの女の子は母親に尋ねましたが、いくら聞かれても母親は困った顔をするだけでした。

女の子はやがて質問する事をやめました。その頃には母親は病気がちでしょっちゅう立ち眩みをして床につく事が多かったからです。

女の子は弱い体の母を困らせたくないと思いましたしたがって、

病弱な母親と娘の生活はおのずとひっそりとしたものになって行きました。母親は一つ宝の娘を大切にし娘もまた他に身寄りのない身であり、二人はお互いを守るように暮らしていました。

やがて、娘も幼い頃の無邪気さや元気も無くなり、母親同様、口数の少ないどちらかと言うと陰気な性格の娘になって行きました。

人というものは持って生まれた性質もあるが、環境によって大きく変わるものかも知れない。母親は老人の草履作りを引き継ぎ続けながら、家の周りにわずかな野菜を作って、どうにかこうにか娘と二人食いつないでいました。

母親にはそれ以外に知恵や手立てが無かったのでしょうか。

せめて母親に体力と気力があったなら、この奥まった淋しい暮らしを捨ててどこかに行って別の暮らしをする事もが出来ただろうに。ただ雨露を防げる家があるという

事だけを頼りにそこにしがみついて暮らしておりました。

やがて娘も母親の草履作りを手伝うようになりました。

そしてそれが貯まると、母親が村里にある店に出掛けて行って、出来上がった草履を米や味噌や、醤油等の食べ物に変えて来るのでした。それでも母親と娘は静かで優しくあたたかい思いやりのある言葉を交わしながら、それなりに幸せでした。

それ以外に人との交流も殆ど無かったと言っていいだろう。

だがその母親も日に日に弱って行きました。

以前から突然立ち眩みをして倒れる事はよくある事でした。

最初の頃は少しの間横になるだけで、また起き出して仕事をしていたのが、段々と横になっている時間が長くなって行きました。

幼児を育てる為に細い体にムチ売って、ろくに精の付くものも食べず、具合が悪くとも薬も買えずに只気力だけで生きて来たからだろうか。

それでも母親は娘が十五の年になるまで生きていました。

だが、まだ四十にもなっていない身でとうとう、床から起き上がれなくなってしまいました。最後の頃には娘が一生懸命草履を作っている姿を床の中から黙ってじっと見ていました。

やがて厠にも起き上がれなくなって、自分の余命がいくらも無い事を知ったのだろう。

夕方、「お前を一人ぽっちにして逝くのは可哀想だが、困った時にはこの観音様におすがりするんだヨ。きっとお前を助けてくれるだろう。」

そう言って三寸(10センチ程)の小さな木彫りの観音様を娘の手に渡すと、それが最後の力を使い果たしたように呆気なく死んでしまいました。


娘にとっては突然の母親の死でした。

また元気になってくれるとばかり信じて母親の分も二倍、草履作りを頑張っていたのです。

寝たっきりでもいいから生きていて欲しかった。

寝床から自分を見守っていて欲しかった。それよりも母親はこんな淋しい所に十五の娘を一人残して逝くのはさぞ心残りだったろう。

娘は渡された観音様を握ってただ泣くばかりでした。

眠っているような痩せた母親の遺体に取りすがって泣くばかりでした。どうしたら良いか誰に相談したら良いかさっぱり解らなかったからです。

泣いて、泣いて、泣き疲れてそれでも朝がやって来ました。

するとまだ人目のない早朝、その事をどうして聞きつけたのか、五人の男達が突然入って来て母親の亡骸の前でゴンゴンとお経を唱えたかと思うと、持って来た棺桶に母親の亡骸を入れて村の墓場まで持って行きました。

娘も後をついて行きました。

五人の男達はそこに黙々と穴を掘り、そこに母親を埋めるとまた、ゴンゴンとお経を唱えました。

それが終わると何も言わずどこかに行ってしまいました。

娘はその時、何故かそれらの事を不思議にも何とも思いませんでした。

だが墓から一人ボンヤリ歩いて家に帰って一人ぽっちになるとガランとした家の中で小さな観音様を抱きしめてまた、母親を思い出しては泣き、思い出しては泣きました。

泣いては眠り、眠ってはまた泣きました。それでもまた朝はやって来ました。

どんなに悲しくてもお腹は空きました。娘はもう丸一日以上何も食べていなかったからです。娘はいつものように少しのお米と野菜の刻んだものを入れて雑炊を作りました。

とにかく食べなければいけないとそう思っていつもより沢山食べました。

観音様、これからどうすればいいですか?娘が聞いても観音様は何も答えてはくれないけれど、十五の娘はこうなったら自分がしっかりしなければいけないと思い立ちました。

しっかりしなければ!と何度も自分に言い聞かせました。

まず家の中と外を丁寧に掃除しました。わずかな物入と、その中の衣類もごくわずかで必要な普段着以外は何もありません。

母親の寝ていた布団を片付けてしまうと、家の中はさっぱりしたものです。

ガランとして一人ぽっちの娘にとってこの小さな家がこんなにも広く感じられて心細くなりました。

とりあえず黙っていると悲しくなるばかりです。掃除した後は母親が着古したものを出して見ます。

母親の匂いがしてまた涙が出ました。娘は母親の着物の所々傷んだ所を繕って着て見ました。母親の匂いが娘を優しく包んでくれるような気がしてまた涙が出て来て泣きました。

だが泣いた後、少し力が湧いて来て、自分の着ていた物を近くの川に持って行って洗濯をして干していると、それを見計らっていたように一人のお坊様が家の前に立ちました。

大層立派な様子のお坊様です。

「こちらでどなたか亡くなられたと聞きました。」とおっしゃって下さいます。

若くはないけれど立派な様子のお坊様だったので、娘は母親が亡くなった事、五人の男達が墓地に埋葬してくれた事を話しました。

「でも位牌もなにもありません。」と言うと、坊様は心得ていたように、ごく自然に懐から小さな母親の位牌を取り出して、ジジの位牌の隣にそれを置きました。

それから長い長いお経を唱えてくれました。心に染み入るような有難いお経でした。いつまでも、いつまでも聞いていたいようなお経でした。

娘はまるで初めて温かいものに触れたような気持になりました。お経を聞きながら、母親もきっと安心して安らかに眠れるだろうと思いました。

お坊様はお経が終わると娘の方へ向き直って、娘の顔をじっと見ました。

このお坊様の目は心の深さを感じさせる目をしていると娘は思いました。

お坊様は、「さぞ、心細い事でしょうが、人生は何につけ、なるようになるものです。悪い事の後には良い事があり、良い事の後には悪い事が来る。人が生きるという事はその繰り返しなのです。世間には悪い人もいるが良い人もいます。もしかしたら、あなたの力になって仕事を見つけてくれるやも知れません。」と言って、村の世話役の名と場所を教えてくれて帰って行きました。

話した事は当たり前のことなのに、そのお坊様の目と声で話されると真実そういうものかも知れないと有難く思われました。

娘は坊様に聞いた通り世話役を訪ねて行きました。それより他に娘には道はなかったからです。娘からその話を聞いた世話役は、お坊様の話を聞くと怪訝な顔をしましたが、身寄りのない娘を放り出す訳にもいかず、村の女達がする茶摘みの仕事を紹介してくれました。

娘は世話役には勿論だが、その人を教えてくれたお坊様に感謝の思いでいっぱいでした。

今はまるで身寄りの無い身の上であり、年の行かぬ若い娘が奥まったあの家で一人っきりで、この先どうすれば良いのか往生するばかりだったからです。

娘の名はタキと言いました。

タキは次の日から茶畑で働くようになりました。タキの家は大分村から離れているので、朝早くに起き家を出てかなりの道を歩いて通いました。まだ慣れぬ仕事なので、緊張しながらの毎日でした。でもその仕事や生活にも少しずつ慣れて行きました。

ただ人に混じって働くという事が初めてな上に、人と会って会話をするのも不慣れで他人にとっては何でもない挨拶やちょっとした会話にも緊張し、それが一番の苦労でした。

周りの人達が自然に話す空模様や軽い冗談等にも自然に相槌を打ったり、笑ったりする事がタキにはなかなか出来ないのでした。

それが一番の気苦労になりました。

仕事は辛くは無いけれど、今まで無口なジジと口数の少ない母親との暮らしの中だけで育って来たタキはすっかり人付き合いの苦手な口下手な娘になってしまっていました。

しかし、それが解ってもすぐに変えられるものではありません。

周りの人達から浮いたとしても仕方がないのです。タキの責任ではないのです。

一人でもそこの所を解って味方になってくれる者がいたなら良かったが、人々も皆、忙し過ぎました。タキもそのうち自然に人となじむ日が来るだろうと思いながら、ただ黙々と仕事をして、終わると自分の家に帰って行く毎日でした。

周りの人達もやがて、あの娘はああいう娘だと決めつけてしまったようでした。誰も話しかけては来ません。

仕事をして家に帰り着くとやはり一人ぽっちの生活でしたが、それでもタキの心に潤いを与えるささやかな事が二つありました。

一つは村はずれの家の、お婆さんに会う事でした。

タキが仕事に向かう為に歩いて行くと、一人のお婆さんがいつも家の前の長い腰かけに座っていて、ニコニコ優し気にタキを見ています。

タキが恐る恐る「おはようございます。」と言うと、いつも決まって、「はい、おはようさんです。お出掛けですか?」と言うのです。

タキが少し困ったように小さな声で“はい”と返事をすると、「いってらっしゃい。」とお婆さんは言います。タキはそう言われると嬉しくてうれしくて“はい”と答えて、そこを通るのでした。

次の日もお婆さんはタキをニコニコと優し気に見ています。

「おはようございます。」

「はい、おはようさんです。お出掛けですか?」

「はい。」

「行ってらっしゃい。」

「はい。行って参ります。」

毎日毎日、それだけの印で押したような同じ挨拶の繰り返しでしたが、タキにとっては心が温まる事でした。

かなり年をとっているので、もしや他の言葉を話せないのかも知れませんが、お婆さんの優しい眼差しと“行ってらっしゃい”の言葉は一人ぽっちのタキにとっては、かけがえのない励ましになっていました。

もう一つはお婆さんの言葉に見送られて暫く行くと、大きなお寺の前を通る事になります。

タキはその前を通る時、いつもあのお坊様がおいでになるのではないかと気にかけて、チラリと門の中を見て通ります。

あのお経を唱えてくれて、タキに世話役の所に行くように教えて下さったお坊様は、このお寺のお坊様ではないかと考えたからでした。

だが、そのお坊様は寺の中においでになるのか一度も見かけた事はありませんでした。

その朝もお寺の前を通る時、タキは門の中に目をやって通り過ぎようとしました。

その時、あのお坊様では無く背の高い若いお坊様の後姿を見かけました。

あのお坊様では無いナ、そう思って通り過ぎました。

その後、茶畑で働いている女子衆が噂話をしているのがタキの耳に入って来ました。

お寺に新しいお坊様がおいでになった事。その方は若いが本山でも大層優秀で位も高く立派な方で、このような田舎のお寺においでになるような方ではないが、ここの寺におられて、最近亡くなった住職を大変尊敬していて自分からここのお寺に来て下さった事。

前の和尚様も大層御立派な方だったが、新しい和尚様はあじゃり様だそうだ、等と話しているのです。お坊様の位等何も解らない女達が話す事を更に何も解らぬタキが耳にしました。

あの立派なお坊様は亡くなったのだろうか。とてもそうは思えなかったけれど。

そしてタキはあの新しいお坊様の事をとんでもなく有難いお方に違いないと思うようになりました。

それにしても、母親が亡くなった後、どこから聞きつけたのかいきなり五人の男達が来て、母親の亡骸を墓地に葬ってくれた事といい、翌日には立派なお坊様が来て、すべてを心得ているように位牌を持って来てくれて、長い有難いお経を唱えて下さった事といい。不思議な事ばかりでした。

しかも、あのお坊様はここのお寺の和尚様では無いらしい。

ここの和尚様はタキの母親が亡くなる前にすでに亡くなられてこの世の人ではなかった。そう言う事が解って来ると、それで世話役は怪訝な顔をしたのだろうと思う。いくら考えてもタキには解らない不思議な事ばかりだったが、もしかしたらこの観音様がして下さった事なのだろうかと小さな観音様を手に取ってしみじみ見つめてみるのでした。

いつからか長い事人の手から人の手に渡りやがてはタキの目の見えない祖母の手に渡り、祖母からタキの母親に渡ったのであろうこの小さな小さな観音様。幽かに微笑んでおられる。

観音様、これからもどうぞお守り下さい。タキは心から観音様にお願いしました。

それからもタキは小さな観音様に朝な夕なに手を合わせ一日一日を生きて行きました。

朝は村はずれのお婆さんに挨拶をし、それから途中にある大きなお寺の門の中に目をやり仕事に行きました。

新しいお坊様を見かける事は滅多にありませんでしたが、ある朝、寺男の爺様と何か境内で話をしている所を見かけました。

タキの胸がドキンとしました。

その時も後ろ姿で背が高く、青々とした剃髪のうなじが清々しく、女房達の噂を聞いたせいか、大層頭が良く御立派に思えて遠くからでもお姿を目にした日は、タキの心はいつもより何故か嬉しく心躍る気持ちがしました。

お顔を一度も見た事が無く、一度でもいいから正面からお顔を見てみたい気もしましたが、例えお顔を見れずとも、いつも通るこのお寺にその御立派な方がおいでになるのだと思うとタキの心は満足しました。

山奥の方から朝早く出て来て黙々と仕事をするとまた、一人ぽっちの自分の家に帰って行く。無口なので周りの人も遠慮をするのか、いつまで経っても特別親しい友達も出来ないままこれといった楽しい語らいも無く、ただ黙々と働いては帰る毎日のタキでした。

若い娘でありながら遊びに行く宛ても無く、話し相手も無いタキでした。

楽しみと言えば家の周りに植える野菜の育ち具合や、それを収穫して食べる時の美味しさだけが喜びを与えてくれました。そして、それをジジと母親の位牌と小さな観音様にお供えして、このように一人でいながらも生きていられる事のお礼を言うのでした。

その中でも瓜は特別でした。


母親がまだ生きていた頃

出来上がった草履を食物に替えて来た事がありました。米やみその中に一つの瓜が入っていました。

母親が娘を喜ばそうと珍しい瓜を一つ品物の中に入れて来たのです。

タキは喜びました。

嬉しくって嬉しくって、その時の母親と一緒に食べたあの瓜の何と甘く美味しかった事!タキはその時の瓜の為を大事に取っておいて春になると家の横の猫の額ほどの小さな畑に蒔きました。

種を蒔き双葉が出て来て、すくすくと育ちつるが伸びてその所々に花が咲きます。やがてその花がしおれる事には花の根元が膨らんで小さな実をつけると、その何とも言えぬ可愛らしさ、それが少しずつ、少しずつ膨らんで来る毎日、その育ち具合を見る楽しさ、タキは瓜に向かって、

大きくなりやんせ、甘くなりなんせと毎日話しかけました。

そして毎朝、瓜の育ち具合を見てから仕事に出掛けました。

今日もいつもの所にお婆さんがいます。

「おはようございます。」

「おはようさん、お出掛けですか?」

「はい、行って参ります。」

「はい、行ってらっしゃい。」

いつもの決まったそれだけのやりとりだが、タキは心の中であの瓜が大きくなったらお婆さんに持って来て食べて貰おうと思っていました。

その時のお婆さんの喜ぶ顔が目に浮かびます。

何日か経つとやがて瓜は大変立派に育ち大きくなりました。特に二つの瓜は香りも良くいかにも熟して食べ頃になりました。

その一つを観音様と仏前にお供えをしました。

もう一つをお婆さんに持って行ってあげました。

「これは私が作ったものです。どうぞ食べてください。」と言うとお婆さんは両手にその大きな売りを抱いて匂いを嗅いで嬉しそうにニッコリ笑いました。

そして、何度も何度も嬉しそうに頷いていました。

タキは母親が亡くなって以来、久しぶりに幸福な満ち足りた気持ちになりました。

仕事から帰ってお供えした瓜を下げて食べてみると、ほっぺたが落ちる程甘く美味しい瓜でした。

だけど畑が狭いせいか瓜の数はそんなに沢山は採れませんでした。

瓜だけにすると他の野菜があまり作れません。タキは考えました。

一番大きな甘い熟した瓜から種を採ると来年用に大事に取っておいて、次の年には少しずつ少しずつ瓜畑を広げるようにしてボーボーの草の生い茂った所を少しずつ少しずつ畑にして行きました。

いつの間にか月日が流れて行きます。

何年かするとタキももうお嫁に行く年頃になっていましたが、いつも無口と見られる上に知り合いの無い悲しさで誰も嫁の口を世話してくれる人も無く、人里離れているせいで人との出会いも無く一年、また一年と月日は流れて行きました。


あれからどれ程月日が経っただろうか。

タキは娘ざかりも過ぎて、いつの間にか亡くなった母親の年に近づいていました。

誰かの世話があったら誰でもいい、嫁に行って貧乏暮らしでも子供を沢山産んで賑やかに暮らしたいと思っていたのに。

どういう訳か一人として世話をしてくれる人も無く、またそういう男の人と巡り会う事も無く、どんどん月日だけが流れて行きました。

今年も夏が過ぎて秋の気配がして来ました。

夕空を見ているとさすがに淋しくて悲しくなって来ます。

そう思いながらタキは、夕方仕事から帰って来ました。

だが一つだけ楽しみがありました。

瓜が美味しく熟す頃合いだからです。

そういう楽しみを見つけて自分を励まし早速瓜を見に行くと、そこには本当に今まで見た事も無い程、立派に大きく育った売りがタキを待っていました。

特に大きなものが二つ、どちらも甘くていい匂いがします。

一つは勿論、お婆さんにあげよう。お婆さんのニコニコ喜ぶ顔を思い浮かべると先程の淋しい気持ちはすっかり消えて元気になりました。

翌朝、二つもいで一つを観音様にお供えしました。

観音様、私をいつも見守ってくれてありがとうございます。お陰様で今年も甘い瓜が採れました。どうぞ召し上がって下さいと言ってお供えしました。

そして、もう一つをお婆さんに持って家を出ました。

早くお婆さんに渡したいと思うと心は躍り出す。お婆さんの家の前まで行くと、お婆さんの姿は見えません。

昨日の朝はニコニコして

「おはようさん、お出掛けですか?」と言ってくれたのに…。

キョロキョロしていると、裏手から中年の女の人が出て来たのでお婆さんの事を聞くと、お婆さんは七日前に亡くなったというのです。

今日が初七日だと言うのです。

だけど、だけど昨日の朝もおとといの朝もその前の朝もいつもここに座っていて、

「おはようさん、お出掛けですか?」とニコニコ声を掛けてくれて確かにいたのです。

タキは驚きと悲しさで何も言えずボーッとしていました。

その様子を見た女の人は、

「うちのお婆に持って来てくれたのかネ。それは本当にありがとうさんです。お婆の仏前に供えさせていただきます。お婆もさぞ喜ぶでしょう。」

そう言って受け取りました。

だがタキはその後、仕事場に行って仕事をしながらも、昨日まで見たお婆さんの姿が目に浮かび、その姿がもうこの世から消えてしまってこれからは会えなくなると思うと、淋しくて心細くて一日中、その事ばかり考えて仕事をしました。

仕事が終わると、そしていつものように誰とも話をしないまま暗くなるのが早くなった秋の山道をトボトボ帰って来ました。

家の中に入って簡単な夕餉を一口、口に入れても少しも味がしません。何も食べたくないのです。あんなに楽しみにしていた瓜も割って食べる気にもなりません。

あのお婆さんはもう居なくなってしまった。

誰一人だけタキに優しく話しかけてくれた人でした。

タキを温かく見守ってくれる人でした。

タキに優しく話しかけ行ってらっしゃいと励まし送ってくれる人はもう死んでしまったのだと思うと悲しくて淋しくて、これからの自分を思うと急に心細く、自分が誰とも繋がっていない哀れな者に思えてならなくなりました。もうどうにもならない程不安で悲しくなりました。

辺りはとっぷりと日が暮れて、細いお灯明のユラユラ消えそうな灯りの下、観音様を見つめてタキはとうとう泣き出しました。

今まで、耐えに耐えて来たのが堰を切って溢れ出ました。

もう我慢できずに思いのたけを吐き出して訴えました。

「観音様、私は何の為にこの世に生まれて来たのでしょう?おっかさんは死んでしまって私はこの世に一人ぽっちです。この人里離れた山の中には他に誰もいません。私を励ましてくれる人は一人もいません。どんなに貧乏でもいい、誰かと所帯を持って自分の子が欲しかった。おっかさんには私がいた。だからおっかさんは頑張って来れたんです。

だけれども私には何もありません。誰一人居ません。こんな人里離れた一軒家で、これからも一人ぽっちで生きて行けと言うのでしょうか?たった一人毎朝私に言葉を掛けて励ましてくれたお婆さんももう居ません。私は何を楽しみに、何を励みに生きて行ったら良いのでしょう。私には何もありません。観音様、それでも私は今まで一生けん命頑張って生きて来ました。悪い事をせず、人に迷惑をかけないように人の事を羨まず、妬まず、どんなに辛くとも人を恨まず、人の心を傷付けないように生きて来ました。そうしていたら、自分に運が向いて来て急に金持ちになったり特別な幸せを手に入れられると考えた訳ではありません。ただ、いつか人並みに温かい心持ちになりたかったんです。世間の人達のように温かい家族が欲しかったんです。温かい赤子をこの腕に抱いてみたかったんです。五人も十人もと欲は言いません。たった一人でいい、せめて死ぬまでに、この腕に柔らかいあったかい赤子を抱かせて下さい。欲は言いません。どんな子でもいいのです。お願いしますー。」と言っておいおい泣き出しました。

人里離れた一軒家ですから、タキがどんなに大きな声を出しておいおい泣いても聞いているのは草むらの虫達だけです。

タキはまるで頑是ない子供が手の届かないおもちゃを欲しがるように無理な事を承知で心の中に滞った物を、今までこらえにこらえて我慢して来た気持ちを洗いざらいぶちまけて、きき分けの無い子供のように叫び泣き続けました。

思えば幼い頃からわがままを言ったり駄々をこねて母親を困らせたりした事の無いタキでした。

そんなタキが初めてきき分けの無い事を言ったのです。

自分でも無理な事だと解っていましたが、言わずにはいられませんでした。生まれて初めて心の底をさらけ出したのでした。

泣いて泣いて泣き疲れてその後、うたた寝をしてしまったらしい。

細い蝋燭は短くなってしまったけれど、まだかすかに燃えていました。

その消えそうな灯りの下に瓜と観音様が見えました。思いのたけを吐き出して落ち着きを取り戻したタキは、先程の頑是ない泣き言を思い出し、「観音様、私は大変無理なわがままを言ってしまいました。さっき言った事はどうぞ忘れて下さい。私の丹精込めた瓜をどうぞ召し上がって下さい。」と言うと、とうとう最後の灯りが消えて間暗闇になってしまいました。その暗闇の中に亡くなった母親の顔を思い浮かべながら、力無く寝床に入りました。

「おっかさん、私は生きる元気がすっかり無くなってしまいました。死んでもいいですか?早くおっかさんの所に行きたい。だってこのまま頑張っていてもいつまでも独りぼっちならいっそひっそり死んだ方が良いと思うの。たとえ私がここでひっそり死んでも、誰も私の為にお経を唱えてくれる人は居ないでしょうし、皆、私がここで頑張っていた事もタキという人間がこの世にいて生きていたという事も覚えて気にしてくれる人は居ないでしょう。この家は訪ねる人一人居ないのだもの。仕方がないですよね。

私が今死んだら、誰にも気付かれないままこの家もいつか草の中に埋もれて朽ちてしまうのでしょうね。

何だか何だかとっても淋しい。こんな自分があんまり可哀想。

おっかさん、私が死んだら迎えに来て下さいネ。そして、私を抱きしめて、よく頑張ったと言って下さいネ。」と母親に話しかけました。

タキは本当にこのまま死ねたらいいナと思ったのでした。

その夜、タキは夢を見たようでした。

朝、目が覚めた時、それがどんな夢だったか思い出せないがとても良い夢だったのだろう。

何とも言えない夢の後味の良さ、温かさがまだ家の中に漂っているような明るい朝でした。

どんな夢だったろう?いくら思い出そうとしても思い出せません。

きっと昨日観音様に思いっきり愚痴を聞いて貰って、思いっきり泣いたからに違いない。だから気持ちがすっきりしたのだと思いました。

何だか元気も出て来ました。昨夜の子供のような自分を苦笑しながら、改めて観音様にお詫びをしようと起き上がって観音様の所に行くと、何という事だろう!

お供えしている瓜がユラユラと動いているではありませんか。

ネズミがいて瓜を食べているのかと思い、上の方をのぞいて見ると、やっぱり上の方に穴が開いています。

動いているのはネズミがまだ中にいて食べているのに違いありません。

近くにある棒を持って穴をのぞいて見ると、中にいるのはネズミではありませんでした。

白っぽい丸々としたものがネズミでは無いと解ると、かえって気味が悪くなりどうしようかと思いましたが、このまま御仏前に置いておくことも出来ません。

勇気を振り絞ってしっかり見ると、何と!こんなことがあるものだろうか!

その白い物は赤子の形をしているではありませんか。

これは夢なのだろうか?

自分はまだ夢をみているのだろうか?

それにしてもあまりにもはっきりしている。もしも、これが夢だとしたら覚めないで欲しいと思いながら、タキはその瓜をそっと両手で持ち上げました。

その瓜は手のひらにほんのりと温かく心地の良い、テツテツとした重みが伝わって来ました。

よくよく見てみると、外側の薄皮を残して中身がすっかりなくなっている所を見ると、中身が全部赤子になってしまったようでした。

まるで、小さな卵がひよこになるように、瓜の中身を全部栄養にして赤ん坊になったと思われるのです。そうとしか考えられません。

なおもじっと見てみると、可愛い目鼻、口の付いた頭、手もあり足もあります。まだ小さいけれど紛れもなく人間の赤ん坊の形をしています。

その小さな手足を時々動かしながら眠っています。

タキは瓜の皮の中から赤子をそっとすくい取って、両手に乗せてみました。

赤子は女の子でした。

これはきっと観音様が下さったのだと解りました。

観音様が昨夜の願いを聞き入れて私に女の子を授けて下さったのだ!

“夢のような事”とはこの事だ!

観音様、これが夢なら夢で構いません。この夢のまま覚めないでいさせて下さい。本当に本当にありがとうございました。

瓜の中の赤子をそっとすくい取った後、タキは着ている肌着の中の胸にそっと入れて抱いてみました。赤子は泣きもしないでスヤスヤ眠っています。

あったかい!とてもあったかい!

自分の赤子を胸に抱くとはこんなにもあったかい幸せなものなのだ!こんな幸せが私にも味わえたのだ。

タキの目にはいつの間にか嬉し涙が盛り上がり、目頭からも目尻からもポトポト流れ落ちました。赤子に涙が落ちないように赤子の頭を肌着でそっと覆って話しかけました。

よく私の所に来てくれたネ。ありがとうネ。

私の所に来てくれてありがとうネ。

タキは何度も何度も赤子に話しかけました。

自分には到底叶わないと思っていたものが今、この腕の中にいある。

夢みたいな話だが本当に願いが叶ったのだ。

タキは赤子を懐に入れて抱いた瞬間心に決めた事がありました。

自分の全てをかけてこの子を守ろうと。もう死んでなんかいられない。

この子を育て守って生きて行こう!

そう思うと何だって出来そうな力がグングン湧いてきました。

赤子はひたすらタキの懐でスヤスヤ眠っています。

タキは自分の肌と赤子の肌をぴったりくっつけて、その暖かさ柔らかさを感じながら、いつまでも飽きる事なく赤子を見つめていました。

そして暫く眺めると、自分が着古した柔らかい肌着を出してきて、それで赤子を幾重にもくるむと、丁度良い小さな籠にそっと入れました。

赤子はまだ目を覚まさずにスヤスヤ眠っているばかりです。

それを仏壇の下の戸の付いた棚にそっと隠すとタキは外に出て走り出しました。

外の空気は今まで感じた事が無い程、新鮮で美味しい。空の色だってこんなに目に染みる程青いし、お天道様もまるでタキを祝福してくれているようにサンサンと光を降り注いでくれています。

頭の中も目も冴えに冴えています。

生きる力が全体に漲って、昨日までの自分ではないようだ。

タキは走りながら、これからすべき事をいろいろ考えました。

まず赤子の為に外の仕事は辞めよう。

走りに走っていつもの茶畑に行き、仕事の段取りを組む者の所に行き、

申し訳ないがわけあって仕事をやめると話しました。

何故かと聞かれたらこう言おう。ああ言おうと考えていたタキだったが、

何も聞かれないであっさりと辞める事が出来ました。

タキは帰りも急かされるように喘ぎ喘ぎ走りました。

赤子が待っている。赤子が私を待っているのだもの。

その思いは叫び出したい程でした。

帰る途中、あのお婆さんの家の前を通りかかりました。

すると瓜を渡したおかみさんが家の前で仕事をしていました。

タキを見ると、「昨日は瓜をありがとう。」と声をかけて来ました。

タキは「いいえ。」と返事をしながらも、

「実は今、わけあって外の仕事を断りに行って来た所です。これからは家の中で草履を作って暮らしを立てなければなりません。

どこか稲わらを譲ってくれる所は無いでしょうか。」と話すと、おかみさんが、

「うちは田んぼを作っているから納屋にいくらでも積んであるヨ。欲しいだけいくらでも持って行きなさい。」と言ってくれました。

そしてタキを納屋に連れて行ってくれました。

そこは大きな広い納屋で稲わらがびっしり詰まれていてワラの良い香りがしました。

おかみさんは背負子にどんどんワラの束を積んで山のようにして縄で縛ると、「背負子を返すのはいつでも良いヨ。」と言って、タキの背中に「よいしょ。」と背負わせてくれました。タキは有難くて何度も礼を言って帰って来ました。

背中の稲ワラは、見た目はタキが下敷きになって潰されそうな程の山だったが、背負ってみると意外に軽く感じました。

心と体からグングン湧き上がって来る力が少しも重いと感じさせないせいでもあったろう。

タキはワラの山を土間に降ろすのももどかしく、赤子の所へ飛んで行きました。

帰りの道々、もしかしたらあの不思議な赤子は幻のように消えて居なくなっているのではないかと心配で不安だったからです。

恐る恐る戸棚の戸を開けると、

赤子はいました!どこにも消えずにスヤスヤ眠って、ちゃんと居てくれました。

タキは嬉しくて嬉しくて、そっと抱き上げると頭や頬にそっと触れてみました。

柔らかくてあったかい確かに生きています。

この子は私の宝物だ!生きている私の宝物だ!

長い間欲しいと願っていた宝物だ!お前は本当にいい子だネ。本当に本当にいい子だネ。

きっと観音様からの授かりものだ。

よく私の所に来てくれたネ。

ありがとう、ありがとう。本当にありがとう。

大事にするネ。大事に育てるからネ。

嬉しくて嬉しくてタキは始終赤子に話しかけました。

話しかける相手がいるという事がこんなにもタキをおしゃべりにしてくれました。

赤子は眠ったままだがタキは話しかけました。

色白の目鼻立ちのポンとした口元の愛らしい、美しい子だヨ。

いくら眺めても頬ずりしても飽きる事がありません。

お前の名前は何にしようかネ。

少し考えて、「お前は瓜から生まれたお姫様だから、瓜姫子にしよう。瓜姫子、私がお前のおっかさんだヨ。これから二人で一緒に生きて行こうネ。」

すると今まで眠ってばかりの赤子がその小さな口を開けて可愛いあくびをしました。

タキには瓜姫子が「それでいいヨ。」と返事をしたように思いました。

考えてみれば、瓜姫子はまだ一度も泣いていませんでした。普通の子ではなく観音様が授けて下さった赤子だからだろう。

それでもきっとお腹は好く筈だ。

タキは何を与えて良いか思案した末、家の脇の畑からよく熟した瓜をもいで来て、その内側の果肉をすりつぶして小さな木の匙に入れて赤子の口の所に持って行ってみました。

すると赤子は目を瞑ったまま、小さな口と舌でコクコク、コクコク飲むではないか。

タキは嬉しくなって自分が食事をしなくてもこの子には第一に与えねばならないと思うようになりました。

それからは、ジジや母親の着古した着物や、残してあったものを取り出して来てほどき、きれいに洗って何枚かのおしめと小さな産着をこしらえました。

自分が母親であることの満ち足りた気分に包まれて、何でも出来そうな気がするのです。

着古したものは幾度も水をくぐっているので、ポタポタと柔らかく赤子の肌にはかえっていいのです。それから自分の着物の中で一番ののお気に入りの黒地に赤白の絣が一番鮮やかな物を惜し気もなく子供の着物用に縫い直しました。

七つ八つまで着られるように、たっぷりの揚げをして、タキは母親らしく瓜姫子の赤ん坊の着物を縫い上げました。

この子は目鼻立ちの良い色の白い子だ。

大きくなるに従いどんどん美しくなるだろう。私は母親だもの自分の出来る限り精一杯の事をしてやろう。

タキは夜鍋をしても少しも眠いとは思いませんでした。

かえってうっかり眠ってしまって目が覚めたら、何もかも消えていそうで恐かった程です。心を込めて一針、一針縫っては脇に眠る赤子を見るのです。

ああ、私のおっかさんもこのようにして私の着物を縫ってくれたのだろうと思います。この満ち足りたゆったりとした優しい気持ち、幸せとはこれを言うのだろう。

タキは今こそ幸せでした。

瓜姫子がタキの所に来た途端、見る物全てが明るく輝いてみえるのでした。

あんなに薄暗く寒々と見えた家の中が、こんなにも明るく温かく感じるのです。

人の心持ち一つでこんなに世界が変わるものなのだとしみじみと解りました。


このように赤子を育てながら、タキはその合間に土間でワラジや草履を作り出しました。幼い頃から母親の傍らにいて見ていたし、また大きくなってからは手伝って来たので、難なく草履を作る事が出来ました。

何事でも一度身についた事はいつまでも体が覚えているものだ。

茶畑に通い出してから暫く作っていなかったので、まず手慣らしに五足作ってみました。

まずまずの出来なのでワラを頂いた時から考えていたのだけれど、この編みあがった最初の五足はあのおかみさんに差し上げようと思いました。背負子も返さなければなりません。

タキは出来上がったばかりの草履五足と背負子を持っておかみさんの所に行きました。

おかみさんは大変喜んで、草履の出来の良いのを誉めてくれて、また稲ワラを背負子に山と積んで持たせてくれました。

そして稲ワラはいくらでもただで持って行っていい事、その替わり瓜が出来たらまた、一つでいいから貰えないかと言って笑いました。

あんたの瓜は今まで食べた事の無い甘露の味だヨと大層褒めてくれました。

タキはまた持って来ますと約束して、稲ワラの山を背負って家に帰って来ました。

人とのおしゃべりがあんなに苦手だったのに、今は不思議に自然に話が出来るのでした。

何もかもが良い方に動き出しました。

瓜はそれはそれは出来が良くて、赤子に与えてもおかみさんに幾度か持って行ってあげても次から次へと大きく育ち途切れる心配が無い程でした。

赤子は相変わらず眠ったままでした。明らかにスクスク育っているのが解ります。

やはり美しい子です。

タキは赤子を見ながら、せっせ、せっせと草履を作りました。

そしてそれを土間にどんどん積んで行きました。

ある日、そば粉があったので思いついて、そば餅を作ってみました。

美味しく出来たので、あのおかみさんにそば餅を持って行きながら、出来上がった大量の草履の事を話すと、それならと村の荒物屋を紹介してくれました。

この間あんたの作ってくれた草履を履いて買物に行ったら、いい草履を履いているネと褒められたんだヨ。一緒に行ってあげるからできた分を背負子に積んで背負っておいでと言ってくれました。

タキはまた、稲ワラを山程貰って帰って土間に降ろすと、出来上がった草履を背負子に積み上げて、眠っている瓜姫子に、

「おっかさんは行って来るけど待っているんだヨ。淋しいだろうけどいい子にしているんだヨ。」と言いました。

すると赤子はまた可愛いあくびをしました。


目を開けず泣きもしない赤子をタキは時々心配に思う事もあるけれど、手のかからない静かな子だもの。わがままを言ってはいけない。

観音様にどんな子でも構いませんとお願いしたのはこの自分なのだといつも思いました。


タキは山程の草履を背負って出かけました。

途中からおかみさんが一緒について行ってくれました。

おかみさんは道々、今年の天候だの作物の出来不出来だのを話し、タキの身の上についてはあれこれ詮索する事をしませんでした。

やがて村の荒物屋に着いて草履を降ろすと、店の主人がその草履を手に取り品定めをしました。そして、主人は丁寧な仕事だと褒めてくれました。

一足いくらで買い取ってくれるかは、おかみさんが交渉して決めてくれました。それはおもいがけなく良い値段で、タキが瓜姫子と暮らしていける十分な金額でした。

後は出来上がり次第持って来てくれれば、それを米やみそ醤油、その他の反物も置いているから好きな品物に替えてくれるという事で話は決まりました。

タキはおかみさんに礼を言って、お米やみそ等どっさり背負子に背負って帰って来ました。何から何までお世話になっているので何かお礼をしようとすると、ワラだって納屋には腐る程あるものだし、私は頑張っているあんたを応援したいんだヨと言って、おかみさんは礼を受け取ろうとはしませんでした。


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