21回目のキス

絵空こそら

21回目のキス

 それまで欲しいものと言えば、高めの化粧水だったり、ブランドのバッグだったり、期間限定色のリップだったりしたものだけど、ある日を境にそういった物欲はふっつり姿を消した。というより、別のものに成り代わったといったほうが近いかもしれない。全ての欲が大集結して唯一人に向かっていった、という風に。


 永愛の傷を初めて見たのは、体育館二階の女子更衣室だった。

 ストッキングがロッカーの金具に引っかかって伝線してしまい、スカートの下にジャージを履くか、それとも上下ジャージで過ごすか悩んでいたら、更衣室にいるのはいつの間にか私一人になっていた。全身ジャージにする決意をして制服をたたんでいると、ドアの開く音がした。誰か忘れ物をしたんだろうと思って放っておいたけど、一向に出て行く気配がない。

 ロッカーの端からひょいと様子を窺って、息が止まった。男子の制服が見えたから。さらにその奥に、シャツをたくし上げられた女子がいたから。男子は私に背を向けて、窓際に並べられた机の上で、女子の制服を次々剥いでいく。女子のほうはというと、窓に背をもたせかけて、つまらなさそうにしていた。風化したカーテンから漏れる陽の光が、彼女のふるふるとした、白い山の上で踊っていた。あの冗談みたいな傷の上で。

 彼女は一つも声をあげなかったし、私も声を殺していた。男子の荒い息遣いだけが、埃っぽいロッカールームに響いていた。チャイムが鳴って、男子のほうが先に出て行った。女子はふーっと息をつくと、こっちに近づいてきた。そして、私なんか存在しないみたいに隣のロッカーをあけた。それなのに、こんなセリフを吐いた。

「私もジャージにしよっかな」

 その日の午後は、教室の中で私と永愛だけがジャージ姿だった。


 男は悲劇的な匂いに、惹かれるものらしかった。

「女の子が引っかかったのは初めて」

 散らかったベッドの上で、永愛はそんなことを言った。私の目の前には、あの白い二つの丘陵があった。そして左の胸の上部には、花みたいな傷。幼稚園児が描くみたいな、デフォルメされた花。

「義父が、煙草でね」

 私は何もいえなかった。そこそこ円満で、家族役割が機能した家で育ったから、そういった悲しみに添うべき言葉を見つけられなかった。

「何にも言わないのね。男の子は、ここぞとばかりに慰めるのに」

 私は代わりにキスをした。彼女もそれで充分と言わんばかりに目を閉じて応えた。初めて触れた彼女の唇は、柔らかかった。


「これで何回目かわかる?」

「何が?」

「キスした回数」

「知らなーい」

 私が「15回」と教えてあげると、彼女は「きも」と言って笑った。そこに親愛の情が込められていたので、私はもう一回キスをした。

「これで16回だね」

 永愛は私の隣で言った。

「卒業までに、あと何回できるかね」

 永愛は不特定多数の男子から引っ張りだこだったから、できる日は限られていた。季節はもう、冬から春に変わるか変わらないかというところだった。

「卒業した後は駄目なの?」

「だって永愛、東京行くんでしょ」

「しに来たらいいじゃん」

 私はがばりと身を起こした。

「いいの?行っても」

 彼女が笑って頷くので、17回目のキスをした。


 永愛は大学に入学したものの、すぐに中退して十も年上の男と結婚した。それでも私は動じなかった。どうせ、男のことが好きなわけではないのだと高を括っていたからだ。

 ところが、待ち合わせの喫茶店に現れた彼女は、様子が一変していた。

 あの気怠げな雰囲気はことごとく消え失せ、なんだか溌剌としていた。笑い方も、自嘲するような笑みを浮かべるのではなくて、ころころと鈴が転がるような、明るい笑い声に変わっていた。私の胸には俄かに不安が押し寄せた。決定打は、

「赤ちゃんができた」

と言われたことだった。はにかんだ顔で。限界だった。

 気づくと永愛は水浸しになって、呆然としていた。私は無意識のうちに、コップの水を浴びせかけたらしかった。私は喫茶店から夢中で逃げた。

「待って、美岬!」

 永愛が走りながら追いかけてくる。ああ、駄目だよ。赤ちゃんがいるのに走っちゃ。そんなことを考えてしまう自分もまた情けなくて、急に脚から力が抜けた。コンクリートにぶつかった膝が痛い。私は泣いた。天下の往来で、泣きじゃくった。息を切らして追いついた永愛は、ただオロオロするばかりだった。

「どうして?今まではどんなに男の子と付き合っても、全然平気な顔してたじゃん」

 そんなの、永愛が誰のものにもならないと思っていたからだ。だって、永愛は誰のことも信じていなかった。誰のことも好きにならないと思っていた。だから余裕だった。どんなに肩書は変わっても、苗字が変わっても、永遠に彼女の心は誰のものにもならないと。「赤ちゃんができたの」と言った時の彼女の顔が焼き付いて離れない。私は負けたんだ。そう思ったら、今まで感じたことのないくらいの痛みが、全身を襲った。

「私、美岬を傷つけたの?ごめんね」

 彼女が後ろから優しく私を抱きしめる。髪から雫がぽたぽたと降りかかってくる。要らない。優しさも、同情も、愛も要らない。何も要らないから、誰のものにもならないで。

 私は振り向いて、キスをした。通行人がいっぱい見ていたけど、構わなかった。長い抱擁の後、唇を離すと、私は言った。

「これっきりだよ。二度と連絡してくんな、バカ女」

 そしてもう一度走った。もう永愛は追ってこなかった。痛かった。擦りむいた膝も、胸も、噛みしめた唇も。

「これで21回目だね」

 永愛の声で脳内再生されたその言葉を振り払うように、私はどこまでも走った。

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21回目のキス 絵空こそら @hiidurutokorono

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