始まりは一人の読者から
楠秋生
第1話
体育館のギャラリー西側、前から二番目の柱のところ。高校時代、そこは一馬の特等席だった。そこからは、演劇部の練習がよく見えたからだ。
「ねぇ、あの三年の人また来てるよ」
「何しに来てるんだろうね」
階段を降りていくと、一年生の女の子たちの声が聞こえてくる。ギリギリ聞こえるくらいの小声。上にいるときに言ってくれたらいいのに、わざわざ一馬が近づいたときに聞こえるのは、やっぱり聞かせたくて言っているのだろう。
一馬は聞こえないふりをして、そのまま通りすぎた。
文芸部に所属している一馬は演劇部のための脚本を書いているのだが、それを知っているのは両部の顧問を兼任している白井と、演劇部部長だけだった。
「柳元くん! これ、すごくいいじゃない。演劇部の文化祭の演目用に脚本にしてみない?」
入学してすぐの頃に、一馬の書いた作品を読んだ白井が、その作品をすごく気に入ってくれたのだ。
一人でこつこつと書いていた一馬は、どちらかというと人づきあいが苦手で、クラスでも目立たない存在だった。デブでメガネの地味な自分が書いている事が知られても、いい反応がもらえるとは思えなかった。作品そのものの評価よりも、自分の評価が作品にまで影響を与えて、色眼鏡をかけて見られそうに思えた。作品の評価が下がることも嫌だったし、文章を書いていることで更にネクラと思われるのも嫌だった。
結局そんな一馬の意見を尊重して部長意外には内緒にしてくれたので、いまだに演劇部員たちは一馬の脚本のことは知らないのだった。
ゴールデンウィーク明け、一馬が廊下を歩いていると、前から一人の一年生演劇部員が歩いてくるのが見えた。一年生の中で一番可愛らしくて、いつもみんなの中心でちやほやされている子だ。肩に少しかかるストレートの髪がさらさらで、色も白く、日本人形のようだ。
小道具らしきものをいくつか抱えている。そのバランスは、なぜそんな持ち方をしてるのか不思議に思えるほど危うくて、今にもどれかを落としそうだった。
危ないなと思った瞬間、その一つが落ちかけた。ちょうどすれ違うところだったので、一馬はキャッチできた。
「危なかったね」
今度は落ちないように荷物の上に置いてあげる。『手伝おうか?』と言ってみようかと思ったけれど、嫌がられそうなのでやめておく。
「ありがとうございます!」
一馬が卑屈な思いで手伝いを申し出なかったのに、その子は丁寧にお礼を言ってくれた。爽やかな笑顔に戸惑い、なんとか笑顔らしきものを返す。
それから顔を合わす度に、軽く頭を下げてくれるようになった。
文化祭が近づいて小道具、大道具の制作時期になると、一馬も駆り出されて手伝いをした。例年のことだが、制作するのも好きな一馬は隅で細々と作業をした。それを見たからか、今まで不審者を見るような目つきだった一年生の数人の態度が変わった。そういえば、去年の一年生もそうだったな、と思い出す。その中でもこの間のお人形のような女の子は、いつも柔らかい笑顔を向けてくれるようになった。
ちやほやされているように見えていたけれど、顔が可愛いだけじゃないんだな、と仄かな好意を抱く。勿論、自分が対象外なのはわかっているから、こっそりと見るだけだ。
見ていると、意外にドジなところがあるのがわかってきた。どうしようもないドジっ子というわけではないのだか、ちょこちょこへまをする。完璧でないところがまた可愛らしい。
文化祭間近の昼休み、中庭をバタバタと走り抜けてきた彼女は、よそ見をして一馬めがけて突っ込んできた。どちらに避けるか迷った一馬とまともにぶつかり、一馬は持っていた封筒を落としてしまう。
「すみません!」
反射的に謝る彼女は、辺りに散らかってしまった封筒の中身を拾ってくれようと手を伸ばした。
焦った一馬は思わず大きな声で制止する。
「大丈夫だから!」
落ちたのは生原稿だ。慌てて自分でかき集めて逃げ出した。こんなのを見られたら、バレてしまう!
急いだのがいけなかった。放課後、部室に行って確認したら、一枚足りなかった。
……あそこ、だよな。あの子がきっと拾った、よな?
一馬は泣きたくなった。きっとバレただろう。落としたのは、赤で加筆修正をたくさんしてある手書きの原稿だ。しかも内容は今回の文化祭でやる演目。修正前のはもう渡してあるから、目を通しているだろう。いつも印字したのを配っているのに、手書きの原稿を持っているとなると……。やっぱり、バレるよなぁ。
一馬が頭を抱えていると、当の彼女が文芸部に飛び込んできた。
「先輩! これって、先輩が書いてるんですか!?」
直球で聞いてきた彼女に嘘をつけるわけもなく、一馬は覚悟を決めて頷いた。
「すごいです! すごいです!」
オタクと思われるかと思いきや、大絶賛だ。
「もしかして今までのも書いていたんですか? 脚本の元のお話も先輩が書いているんですか? それって読ませてもらえませんか」
矢継ぎ早に質問され、今までの作品も読みたいと言う。まさかの展開に頭が追いつかない。
「えっと、何さん、だっけ?」
「あ、ひどい。覚えてくれてないんですね?」
ぷうっと頬を膨らます顔も可愛い。
「いや。あの、知られたくないかな、と思って。聞き回るのもどうかと思うし」
「真面目ですねぇ」
くすりと笑う。
「山下杏花です」
「山下さん、本当に読みたいの?」
「読みたいです! 私、演劇部の今までの劇も見に来たことあるんです。あれも、先輩のだったんですよね?」
「うん、まぁ、そうだけど」
あんまり読みたいと言ってくれる杏花に押しきられ、今までの脚本、原作ともに貸してあげる約束をしてしまう。一馬からも条件をつけて。
「今まで通り他の人には内緒にしてほしい」
「え~? どうして内緒にするんですか? こんなに素敵な作品なのに」
「恥ずかしいから」
公表すべきだという杏花をなんとか説き伏せ、今までの作品を貸し出した。
文芸部にはまともに活動している人はほとんどいなくて、読んでくれる人もいないこと知った杏花は、一馬のファン第一号を名乗り、新作ができる度に読んで感想もくれるようになった。
「先輩! 投稿サイトっていうのがあるみたいですよ。そこなら顔を見られるわけでもないし、気軽に書いて読んでもらえるんじゃないですか?」
ヨムカクというサイトを見つけてくれたのも杏花だ。そこでお互いに読み合う仲間たちにも恵まれた。
「素敵なレビューがついてますね!」
読者第一号の杏花は勿論、ヨムカクでのフォロワー第一号で、一馬の作品をいつも一番に読み、作品につくレビューまでも全部チェックしてくれている。
卒業式の日、降りしきる桜の花びらの下で、杏花が言った。
「先輩。大学でも演劇部の脚本、続けて下さいね。お話を書くのはヨムカクでもできるので、今度は演劇部員として頑張ってください。私、追いかけていきますから!」
ヨムカクでたくさんの仲間ができて、自信を持てるようになってきた一馬は、背中を押してくれる杏花にはっきりと宣言した。
「頑張ってみるよ。読者第一号の杏花ちゃんが応援してくれるから……って追いかけてくるってどういうこと?」
「先輩の作品が大好きですけど、素敵な作品を書きながら、いつまでも自信なさげな先輩も大好きです。全然気づいてくれない鈍感なところも……」
あの頃と同じような体育館のギャラリー。隠れるようにひっそりと一人で観ていた高校時代と違って、今は、仲間がたくさんいる。一馬は舞台から送られてくる合図に軽く手を上げてこたえた。
今は彼女になった杏花が、舞台袖から出てきて主役を演じる。一馬はどんどん輝きを増していく杏花を、眩しそうに眺めた。
ヨムカクの仲間たち。演劇部の仲間たち。みんなファン第一号の杏花から始まった。
ありがとう。杏花。
一馬はポケットに忍ばせたリングケースの感触を、しっかりと確かめた。
始まりは一人の読者から 楠秋生 @yunikon
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