書き狂い症候群罹患者の戯れ言

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書き狂い症候群罹患者の戯れ言

 中学生の頃から、ネットで小説を書いている。


 最初は二次創作だった。大好きな作品が終わってしまったことを認めたくなくて、その続きを一生懸命に書いていた。初めは伝えたいことの半分も伝えられなかった拙い文章が、書くたびに上達していくのが自分で分かった。それが嬉しかった。そして何より、ネット小説だと閲覧数が目に見えて分かる。自分の書いたものを、誰かが読んでいてくれる。たまにコメントをくれる人たちがいる。面白いと言ってくれる人がいる。それが大きなエネルギーになって、勢いのままにどんどん書いていった。

 一作完結させた。二作目を書いている途中で、大学受験を迎えた。高校受験は執筆をしながら乗り切ったが、大学受験はそうはいかなかった。二作目は、折り返しを迎えたところでそのまま投げ出してしまった。その罪悪感から、しばらく小説を書かなくなった。


 大学生になった。遠方に通うことになり、片道三時間弱の時間がかかった。さらに家が貧しく、奨学金を最大限もらっても、アルバイトでかなり稼がなければ学費や交通費を出せなかった。時間的に余裕がない生活をしなければならなくなったが、それでもふと何か書きたくなった。二次創作には苦い記憶があった上、以前それをやっていたときには、何か後ろめたさがあって——というのも、ありがたくも少しばかりの数の閲覧者に恵まれていたが、それはあくまで借り物のキャラクターに恵んでもらった閲覧者だ、という引け目があった——だから、今度は自分で一から何かを書こうと決めた。そして執筆を始めたのが、今も連載を続けている作品である。


 二次創作の四年の執筆経験が活きた。この頃にはもう、文章を書くことに一切の苦がなかった。文章の客観的巧拙はともかく(それに関しては無論今でも巧いというレベルには達せていない)、書き続けるにはやはり自分が自分で満足できるレベルを得ることが大事だと個人的には思うのだ。自己満足に足る文章力がないと、書いていて苦しくひたすらにストレスが溜まる。そのレベルを超えられれば、楽しんで物語を書いていける。趣味として書き続けるためには、楽しむことが最重要だろう。言うまでもなく、楽しいことは続けられるからだ。

 そして一度この楽しむ域に達してしまうと、我々は不治の病に罹ってしまう。それは「書かずにはいられない」という病だ。大げさかもしれないが、私はもう一生何かを書かずにはいられないと思う。なぜなら、考えてみて欲しい。真っ白な紙の上に、文章一つで世界を丸々一つ創造できるのだ。誇張でも何でもなく、私たちは文章だけあれば造物主になれる。思うままの世界を自由に創り上げられていけるのだ。やめられるわけがない。めちゃくちゃに楽しい。最上級の娯楽だと本気で思う。


 さて、そういうわけで私は一次創作にのめりこんでいった。どんなに多忙でも、週一の定期更新を固く守っていった。しかし、また生活の変化が訪れる。就職だ。就職試験と、その後の社会人としての生活。実を言うと、通学とアルバイトで右往左往していた頃よりは、時間の余裕は大きかった。しかし、精神的な消耗が学生時代の比ではなかったのだ。ただ従順でいれば何も問題なく過ごせていた学生時代とは違い、自分で仕事を模索して働かなければならない社会人としての暮らしは、大変に頭と心を使い、摩耗が著しかった。家に帰ってきても、疲れて何一つ言葉が浮かばない。楽しんでいた一次創作も、ちょうど辛い展開が続いていたのもあり、しばらくまともに書くことができなかった。かなりの年数の間だ。


 しかし、私はまた帰って来れた。理由は、やはり書き狂い症候群とでも呼ぶべき病に侵されていたのが一つであるが、もう一つある。それは、学生時代に書いていたときにいただいたコメントに、時を超えて励まされたというものだ。

 就職後一定の時間が経ち仕事に慣れて心の余裕が生まれたときに、ふとまた病を再発した。ちょうどそのとき、小説を掲載していたサイトがお亡くなりになっていた。バックアップが中途半端で、一部データを失った。また新しく連載を始めようか、と思った無責任な私だったが、頭の中に当時いただいた応援の言葉が——「面白い」「続きを読みたい」という励ましが——次々蘇ってきたのである。きれいごとのように聞こえるかもしれないが、本当に私はその言葉に励まされた。いただいた言葉を無下にできない、だから書かないと、と思った。そして私はカクヨムにやって来て、今もこうして書き続けているわけである。


 カクヨムはいい。何がいいって、一話ごとにコメントをつけられるところと、レビューに本の帯のような紹介文をつけられるところだ。自家発電(自分で書くエネルギーを補い続けること)ができなければ小説書きは続けられないと思っている私であるが、一話ごとにコメントをいただけるというのは、単にエネルギーを与えてもらうこと以外にもう一つ、『作品に影響を与えてもらう』、つまり『読み手と一緒に物語を編んでいける』という大きな魅力があると思う。実は前にいたところにもチャットがあって、更新のたびにそこで感想をいただけた。そして「こういうのはどうだろう?」と発案をしてもらえることもあった。カクヨムも同じだ。リアルタイムで作品に感想をつけていただけると、直接的な提案がなくとも、「ああ、こんな視点があるんだ」「ああ、ここは伝わらないか」などと、書き手が自分では気づけなかったことに気づくことができる。それを物語に活かすことができる。私の連載はそうやって出来上がっている。一人の力ではない。もう一度書こうと決められたことも含めて、尊い読者の方々にとても助けられているのだ。もう作者名に名を連ねてもらいたいくらいに、力をいただいている。ある意味で執筆仲間のようなものなのである。

 紹介文については、ここで私が触れるまでもないだろう。本文付きレビューをいただくと、必ずと言っていいほどフォロワーさんが増える。その魅力的な紹介文に誘われてだ。やはりたくさんの人に読んでいただけるのは嬉しい。なんとお礼を申していいのかも分からないほど、感謝が尽きない。

 当然、そっと読んでくださっている読者の方々にも支えられている。一回のPVがどれだけ作者に力を与えていることか。


 ちなみに、散々鬱展開を書いておいて全く説得力がないが、一応私が書きたいのは救いではある。私は死が嫌いだ。死んでしまうと、ほとんどの場合においてその先に救いが存在しなくなってしまう。現実世界は辛くて苦しいことがたくさんで、時には理不尽なことに追い詰められる……なんてこともある。自由に創作できる世界くらい、救いで溢れさせたい。ただ、苦労して手に入れた救いだからこそ、大きな喜びを伴うものだ、という頭でいるために多分鬱展開になっている。ありがたい読者さん、特にたくさんの時間をかけて読んでくださった長編の読者さんにとっては特に、「読んでよかった」と思えるような後味の作品でありたいと思っている。貴重な時間をいただき読んでもらっておいて何もできない書き手から、尊い読み手さんへ唯一できる恩返しとして。


 エッセイだから許されるだろうという考えに甘えた、はなはだまとまりのない文章になってしまった。ここまでこのような駄文に目を通してくださり、ありがとうございます。これからも一緒に不治の病を楽しんでいきましょう。

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