野良猫
小学生の時、他の生徒と比べても随分長い距離を歩いて校舎まで向かっていた。家から一人で歩き出し、少しすると近くに住む美濃君と北原君と道連れになる。校舎へ近づくにつれて段々生徒の数が増え賑やかになる。余程近くに住んでいる者の中には、予鈴が鳴るのを聞いて、慌てて玄関を飛び出してくるのもある。そういう子を、当時は羨ましく思っていた。
毎日行き帰りにそれだけ歩いていても、退屈はしないものである。わざと遠回りして探検してみたり、道路脇の白線の上から出ないように気を付けて歩いてみたり、その辺の石灰石で落書きをして、その石を蹴って家の近くまで運ぶこともあったりと、往復の道のりが長ければ長いほど、ある種娯楽施設の様相を呈するようになるというのは発見であった。
特に記憶に残っているのは道々で出くわす動物のことで、中でも野良猫に関するものがほとんどである。以前は町中に野良犬がわんさといたと耳にするが、今日ではあまり見かけなくなった。私にとっては、野良で生きる四つ足の動物といえばやはり猫である。鴉や雀も野良には違いないが、彼らはあまり近寄らせてくれないので、思い出らしい思い出がそう多くない。また、「野良猫」と題してある以上、読者の興味は猫に集中していることと思われるので、猫の他に話をするのはよしておこうと思う。
人に飼われていない猫を初めて見たのは九歳の時で、足の先まで真っ黒な猫だった。陽が沈んでいて暗かったので、まだ動かない内には気がつかなかった。自転車に乗って走る私の目の前を、急に何か大きなものが横切って行ったので、大変に驚いて、腰を抜かしそうになった。黒猫は道路を横断した後、私の方を振り返って数秒の間固まっていた。どこか私を馬鹿にしている風でもあった。黒猫を見るのは凶兆だと聞いていたので、余り長く目を合わせているのはつまらないだろうと思い、すぐにその場を去った。すると黒猫も振り返ってどこかへ行ったようである。
それから同じ道で何度か同じような黒猫に遭遇したけれど、何しろ誰も彼も真っ黒な身体に満月のような目をしているのが変わらないので、初めに見たものなのか別の猫なのか見当もつかなかった。
美濃君と一緒に下校している時に、野良の仔猫が現れたので撫でてやったこともある。妙に人に懐いていたので心配になったけれど、美濃君は特に何も気にせず背中から尻の辺りを頻りに撫でていた。「クロ」と名前を付けてそう呼ぶことに決めた。クロはそれから一年ほど、二日か三日おきくらいに姿を現しては道の端でくつろいでいた。いつも同じ場所から現れるので、巣が近くにあって、そこに母猫がいたのだろうと思う。母が巣から出てこないのは身重であったからかも知れない。冬になるとクロは姿を見せなくなり、到頭死んでしまったかと心配したけれど、暖かくなったらまたひょっこり現れた。しかしその時には、野良猫は汚いから触ってはいけないと母に言いつけられていたので、くつろぐクロを横目に見つつ、目を合わせないように、クロがこちらに気付かない内に小走りで通り過ぎるようにした。少し経ってから、美濃君と北原君はクロの他にもう一匹仔猫が出るようになったと騒ぎ出した。その仔猫を見たことは無い。クロはいつからか姿を現さなくなった。
中学生と高校生の間は特に野良猫に構うことも無かった。通学に徒歩を用いなくなった上に、散歩にも時間を割かなくなったからだろうと思うけれど、今にしてみれば随分寂しい話である。ともあれ次に野良猫と
どうやら野良猫がよく動き回るのは人が寝静まった頃かららしい。猫の方では、まさかそんな夜更けに人間がいるなどとは考えないようである。その時分に出会う猫出会う猫皆意外そうに目を大きくして私を見る。寂れた商店街の裏路地で、私と真っ白なその猫とが睨みあっていた。首輪をしているから野良ではない。今時飼い猫が勝手に出歩いてしまうような無用心な家も無いと思ったけれど、猫にしか通れぬ抜け道があってそこからこの白猫が抜け出たのだとすると、それは大方人間に通れるような大きさでもないだろうし、無用心と決めつけるのは早計であったかも知れぬ。
白猫が、にいやおと小さく鳴いて踵を返した。「付いて来い」と言われているようだったのでその後を追った。白猫は道角を曲がったところで私の方を見やった。付いて来ているのを確認するとまた、にいやおと鳴いて歩き出した。その後を追った。白猫はやがて住宅と住宅の間の細道にするすると入って行った。そんなに細い道の上を追うことなどできないので立ち尽くしていると、それを察したのか白猫はこちらを振り返って暫く立ち止まっていた。にいやおと小さく鳴いた。「そんなところには入れない」と言うと、ちりちりと首輪の鈴を鳴らしてどこかへ行ってしまった。もしあのまま無理にでも白猫に付いて行ったらどんなことになっていたのだろうと、今になっても時々思い返してみることがある。
野良猫が動き回るのは夜遅くであるが、昼間は何をしているのかと問われたならば、日に当たりながら眠っていると答える。草原も路地も構わずそこかしこで気持ち良さそうにしている。寝ていると言っても人間のように無警戒にぐうぐう寝ていることはないので、こちらが近づいて行けばその振動を受けたか風のうねりを髭で捉えたのか知らないけれど、すぐにぱちりと目を開けてこちらを見据え、警戒の色を示すのである。目を合わせながらじりじりと近づけば襲われることはないので、隣まで寄ってそこで弁当を食うこともできる。もっと近づいて撫でてやることも出来るかも知れないけれど、余り近づいて刺激しすぎると引っ掻かれたり逃げ出したりしてしまわないとも限らない。適切な距離を見極めることが
付き合いと言えば、猫の世界にも井戸端会議のようなものがあるらしい。夏の盛りに訪れた武蔵国分寺跡の野原でそれを見た。まず二匹の野良猫が例に漏れず陽気に当てられて眠っている。近づいてみると、一匹は敏感にそれを察知してこちらを睨みつける。もう一匹は
「この暑いのによく日向で寝てられるものだね。しかも変な人間の近くでさ」と、藪猫。
「そんなに暑くもないよ。第一夏は暑いものじゃない」と、警戒猫。
「人間なんていたかな」と、暢気猫。
「あなた馬鹿ね。あそこに立っているじゃない」と、藪猫。私の方を見やる。
「ああ、あの間抜け面か」と、暢気猫。
「気づきもしなかった君の方が間抜けだろ」と、警戒猫。
「あの人間はお知り合いなの」と、藪猫。
「知らないよ。あんなやつ」と、警戒猫。
「ううん。ぼく、何だかお腹が空いた」と、暢気猫。
「また人間に貰えば良いじゃない。ちょうど誂え向きの馬鹿面があそこにいるわ」と、藪猫。また私の方を見やる。
「よしておいた方が良い。何か良いものをくれたらそれに越したことは無いけれど、最近の人間はどうも僕らに優しくないからね。最悪蹴飛ばされかねない」と、警戒猫。
「でもお腹が空いたなあ」と、暢気猫。
まだ何か話し続けていたようである。時刻は正午をとうに過ぎていた。そろそろ私も腹が減っていたのである。また済ませなければならない用事もある。猫に付き合っているばかりで、日が暮れてしまっていけないと思い、三匹の野良猫に背を向けて歩き出した。
TETSU短編集 TETSU @tetsu21
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