鍵[花金]

 アクセス権がありません。IDとパスを確認してください。


 第二営業課の香椎義弘は、今月何度目かのメッセージに、パソコンのディスプレイを睨む。キーボードの横に置かれたメモ用紙に書かれたIDとパスを打ち込んだというのに、なぜ入れないのか。


 改めて、一文字ずつ指で追いながら打ち込んでいった。


 アクセス権がありません。IDとパスを確認してください。

 ――非情なメッセージがディスプレイに表示された。


「香椎さん、変なとこ踏んだりしましたか?」


 社内SEの雪嶋詩織が香椎のパソコンを眺めながら聞いてきた。


「変なとこってなんすか?」

「んー……業務時間に見ちゃいけないやつとか」


 言葉と声音はやわらかいが、詩織の言っているのはいわゆる有害なアダルトなサイトのことなのだろう。香椎は、残念ながら家のパソコンであってもそういうのにアクセスしない男であった。


「見てないですね」

「ですよね」


 詩織は頷きながら、キーボードに何某かを打ち込んでいく。そのスピードたるや凄まじい。IDとパスが間違っているだけで呼ぶべきではなかっただろうか、と香椎は少し声を落とす。


「すみません……雪嶋さんだってお忙しいのに」

「いえ、社内SEの仕事ですから。いつでも呼んでください」

「それにしても今月呼びすぎてしまったかなあなんて」

「いいんですよ、仕事ですから」


 強調するような詩織の言葉に若干肩を落としてしまうのは、香椎にとって詩織がわりとタイプな女性であるからだろうか。カタカタという音がやがて止まり、詩織は新しいメモを香椎に渡して来た。


「これは?」

「新しいIDとパスです。情報を上書きしたので、これで入れると思います」

「ありがとうございます」

「またいつでも呼んでください……と言いたいところなんですけど。人事異動があって、もう香椎さんのパソコンを見に来ることはなさそうです」

「あ、そうなんですか……」

「すごく残念です。もし何かあったら、裏を見てくださいね」

「裏?」

「鍵、です」


 言われるままにメモ用紙を裏返す。

 そこには、少し神経質そうにハネトメが意識された詩織らしい字で――


『一度、お食事でも』


 メッセージと連絡先が書かれていた。


「鍵……」

「雪嶋詩織へのアクセスキーです――なんちゃって」


 そう言って柄にもないことを言ってしまったとばかりに、詩織は顔を赤らめた。その姿はわりとどころかドストライクで。


 ようやく絞り出せたのは、「大切にします」なんて頓珍漢な言葉だった。

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徒然なるままに短編を書き散らす くまで企画 @BearHandsPJT

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