ページ越しにつないだ手が、ほどけたら

市亀

あとがき/まえがき

 首元の冷気に起こされる。午前三時、こたつ、寝落ちしていた土曜日の未明。

 せっかくの金曜夜だからと酒を入れ、気になっていた小説を読みはじめたという組み合わせがまずかったのだろう。そもそも寝不足の体にアルコールなんかいれるもんじゃない。


 持ったままだったスマホを充電器に挿して歯を磨き、今度はちゃんと布団で寝ようとするのだが。寝落ちした直後だからか、しばらく寝つけそうになかった。


 なんなら眠くなるまで読み直そうと、枕元のスマホを点けて電子書籍を立ち上げるのだが、どうも入り込めない。ディスプレイの光のせいか、疲れのせいか、あるいは小説が合わないから、だろうか。ウェブで話題に上っていたからと新しい作家にトライしてみたのだが、数十ページも読まないうちに小さな違和感が積み上がっていく。


 文体が合わない、そんな感覚は小さい頃から持っていた。けどあの頃の、本に夢中だった小学生の私は、それでも迷わず読み進めていたし、読了した頃には「これはこれで悪くない」と思えるような頭の柔らかい少女だった。小さな手には手に余る分厚さだって面倒ではなかった、図書室で自分の番を待つ時間だって楽しかった。すぐに図書室には入ってこない、書店の新刊が眩しかった。


 今となっては。発売日になった途端に、スマホですぐにダウンロードできるようになった。品切れにやきもきすることもなくなったし、社会人にとってはそれほど高い買い物ではない。置き場所がなく泣く泣く蔵書を手放した、大学の頃のような悩みもない。就職して電子書籍に切り替えて、読書からあらゆる制約がなくなった、のに。何かと不便だった小学生の頃の方が、ずっと多く本を読んでいた。


 大きな表紙、おしゃれな装幀、紙の手触り。それらだって大切な付加価値だった、確かにそう思うけれど。

 あんなにも紙の本が懐かしいのも、その温もりが取り戻せないのも、あの頃しかいなかった友達のせいだろう。



 小学三年生のときに出会った、相田あいだ遥樹はるきくんというクラスメイト。小柄で大人しそうで、体を動かすのは苦手だけど勉強はよくできるという、典型的な悪目立ちする子だった。人の輪にいるといじめられてしまうからだろう、図書室で見かけることが多かった。それだけなら私も興味を抱くことがなかったのだが。

 彼が読んでいたのは、同学年よりは明らかに年上をターゲットにしているような本だった。そんな本に興味を抱きつつも、低学年らしい本でないと悪く思われるという恐怖があった私にとっては、やっと出会えた同好の士である。私から声をかけて、仲良くなるのはすぐだった。


 感想を語り合うことも、薦め合うことも初めてだった。読むのが速かった彼に薦められて次の本を決める、そんな読み方をすることも多かった。喜びを分かち合える人への友情、先生のような知識や考察への尊敬、初めて仲良くなった男の子へのときめき、それらが一体となった未知の愛着。

 彼が図書室に返し、すぐに私が薦められて借りるたびに。彼はそのページをどんな気分で、どんな表情で読んでいたかを想像しながら読むのが好きだった。私と、彼と、無数のキャラクターたちの温もりを、ページをめくる指先は確かに感じていたのだ。


 それだけ楽しい時間を過ごせていた、のに。

 学年が上がってクラスが分かれ、新しいクラスで悪化したいじめに襲われていた彼のことを、私は見捨ててしまった。私まで攻撃される、その予感から保身を選んだ。その恐怖に勝てなかった。もう少ししたら男子は別の生き物になっていく、その恐怖に勝てなかった。


 学校で顔を合わせないようにした。学校の図書室ではなく近所の図書館に行くようになった、その頻度も減っていった。仲の良い人はそれなりに多い方がいい、他の女の子が観ているテレビに合わせることが増えるようになった。

 その一方で彼は、休みがちになり、やがて不登校になり。


 そこから先は、ほとんど知らない。親の転勤で別の小学校に行ったと噂で聞いたことはある、そこで仕切り直せたとは信じたい。


 高校から大学になると、本が好きという子も周りに増えたので、学校でものびのびと読むことができたが。遥樹のことが、ささくれのようにずっと心にこびりついていた。物語からもらったはずの勇気も優しさも、あんなに大切な人にあげられなかった、私はその程度の人間なのだ。ページをめくる指先は、何年経っても後悔にひっかかる。あのとき、つながなきゃいけなかった君の手を探している。


 ――今夜は久しぶりに、こんなに強く昔を思い出してしまった。

 あのとき、彼が一番好きだった小説家は元気だろうか。検索をかけると、現役で更新中らしいアカウントが目に入った。スクロールしていくと、別の小説家の作品への絶賛が目に入り。


「……あいだ、はるき?」


 間ハルキ、という小説家のデビュー作への絶賛だった。その文字で検索をかけ、アカウントに辿りつく。読み方ははざまらしいが、文面や作品のムードは強烈に記憶を刺激する。投稿を辿っていき、ほとんど公開されていない個人情報から手がかりを探す。出身地、同じ。年齢、恐らく同年代。


 そしてインタビューの文面。かつて不登校だった時期に小説に救われた、だから今度は僕が小説で支えたい、とある――きっと遥樹だ。


 出版社が公開している試し読み。子供でも読めるよう分かりやすくて、大人も飽きないくらいの格調もあって。学校で追い詰められた男女がバディとなって謎解きに挑む展開は、昔の私たちが夢中になった物語のようで。


「――だから、優梨ゆうりちゃんが読んでくれて嬉しかったよ」


 遠い昔の遥樹の声が、脳裏に響く。山場からは遠い序盤なのに、何かが溶けたように涙がこぼれていく、小さな液晶を濡らしていく。


 この物語の先。彼は、人を、世界を、どう解釈したのだろうか。かつて自分を見捨てた友人との記憶は、投影されているのだろうか。

 きっと私たちだけが知っている、苦すぎるプロローグの結末を。この目で確かめにいかなきゃいこう。


 もう予約は始まっているだろう、明日は書店に行こう。便箋も買ってこよう。

 

 もう友達に戻れない、それ以上なんて望むべくもない。それでも、君の本に救われる人がいることを、手紙で伝えよう。読んでもらおう。


 ページをめくる指先どうしで。もう一度、君と手をつなごう。

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