夏の魔女が泣いたから

庭花爾 華々

「君が……」と、打ち上げ花火の歌いだしとともに、足から花火を出して空を飛ぶ魔女

 由香他は走り出した。

 下駄を履いてきたことに、失敗したな、などと思いながら。

 気の毒なのは、寧ろ置いてきぼりにされた彼の方のような気もした。だが、最期に視界の端で、彼が親しく話しかけられているのを見てしまったから。

 まあ、彼の性格上、ばったり居合わせたクラスメイト、なのだろうが。それで何とか喉の閊えを飲み込むようにして、後は走り続けるのだった。

 やっぱり、辛かったから。

 けれどそれ以上に、今の由香他には時間がなかった。

 祭りが終盤に差し掛かるのが、厭でも分かった。周りの盛り上がり、祭り太鼓の白熱、そしてちらほらと、薄紫の空を仰ぐ男女たち。

 祭りの終盤、本当のクライマックスに、この祭りの一番の売りである、超大玉花火は打ちあがる。全国で数本の指に入るらしいその花火は、確か4尺なん寸玉らしいが、他県からこれの為に足を運ぶ人もいるくらいなのだ。

 それが、この夏の最高潮になる。

 つまり私の最強は、此処なのだ。

 あれやこれやと考えているうちに、気付けば辺りは静まっていた。しかし人は増えていくばかりで、それも足を止めて、皆同じように空を仰ぐ。

「始まるのか」

 由香他は更に加速した。少し不味い。目的の場所は、もう少し、砂浜へ出るには、この海浜公園を抜けて、道路の向かいの階段から、降りていかなければならない。

 下駄が五月蠅い、足の付け根は赤くなっている。

 どう考えても、時間は無かった。

 そして遂に、王の凱旋を祝うファンファーレにも、隕石落下の避難警報にも聞こえる、半狂乱的アナウンスが始まった。

「みなさまーッ、今回の第*回佐波ト花火大会にお集まりいただきありがとうゴザイマスッ!! 最後に控えております、超大玉花火キセキは、惜しくもギネスを取り損ねた、全国でも最高峰の出来となっております。」

 皆が囁き合う。信号の赤も気にされず、誰もが一瞬の為に高揚する様に、由香他は言い知れぬ感動を覚えるのだった。

 彼女はさっと、周りを確認する。

「大丈夫、バレないバレない」

 今度はより大きく、陸上選手のクラウチングスタートのような姿勢を取ってみる。普段これを赤信号でやったりしたら、奇異の目で見られること請け負いだが。

 誰もが自分の背後、色づいた無辺世界を望んでいた。

 大丈夫、飛べる。

 何度かやって、失敗は無かった。怖くなる前にと、彼女は歌いだした。

「きーみーがー、」

 君と、彼が重なる。より丁寧に、その日々を乗せるように、彼女は続ける。

「いた、なーつは、」

 全身に力がみなぎるのを感じる。あとはイメージするのだ、自分が花火を背景に、熱狂の渦を乗りこなす様を。

 わあああああああ。

 始まった。

 歓声の後に、少し遅れてヒュー、続いてドドオオッ。

 一発目が爆ぜるのが聞こえる。と同時、体に血のほかに、もう一つの熱が流れるような感覚も。

「とおいーゆーめーのなかーーーあ」

 夢にさせない。足裏に熱を集めるイメージ、実際、そう何かエネルギーが爆ぜる感覚があるのだ、すぐそこに。

「そーらーにーー、きえてーーーた」

 歯を食いばる。此処が、正念場なのだ。

「続いては、大手カモシカ銀行様より、数十発の柳花火ですッツ。テーマは、」

 魔女の箒。

 魔女が、箒で飛んでいた時代は言うほど長くない。どだい、時代錯誤じゃないか。現代の魔女らが名を冠する様に、特に出しやすい個性こそが、空中浮遊なのだから。

「うちあーげー」

 ……。

 彼女の花火の言葉と、2発目の打ちあがる声が重なった。

 そしてドおおおおおおッと、柳花火が空に大きな箒を咲かせた瞬間に、彼女はそれに重なる様に、空を飛んでいるのだった。

 足の裏から、ロケットエンジンのように、花火が爆ぜている。

 集中しろ、もし途切れでもしたら。

「私は夏の魔女、大丈夫。魔女の母さんから生まれた、立派な魔女なのよ」

 空を浮く由香他は、歩を進める風に足をばたつかせながら、しかししっかりと上昇しているのが見て取れた。

 その様は幅跳び選手が足をこぐように着地するのと逆のことだったし、ある程度心得たスキーのようにスムーズに上がっていった。

 祭りは続いている。

 足裏の花火は、途切れることなく、やはり彼女は上を目指した。目標は……、由香他の視線の先には、盆のように平たい月が浮いている。

 一心に、ばたつかせて上っていく。

「いける」

 既に歓声が届く距離からはずいぶんと遠く離れていたが、その熱狂は今も彼女を空へ押し上げていく。

 手を伸ばす。

 目前に広がる巨大な月は、とても暗黒を間に介していると思えなかった。手を重ねても、輪郭がはみ出てしまうほど、大きな。

 由香他は集中を研磨し、もう一つのイメージを完成させる。

 あとは、タイミングを待つのみ。

 バランスを取りながら、ふと腕時計の針を読む。

 {8時59分55秒}……、来る。

 

 ヅッツ……、っどおどおどおどおおおっッツ。


 背後で、稲光が走ったんじゃないかという轟音がした。実際、耳はキンキンして、下手したら血を出しているかもしれない。

 ただこれが、本当のラストなのだ。


 「いけええええええええ」

 

 足裏のロケット花火が今日一番の唸りを上げ、背後の爆風から逃れようとでもいうように急加速した。上半身が折れかける勢いだが、何とか姿勢を前に、手を前方に、少しでも前に。

 月が、手に収まった。

 彼女は今、少しずつしぼんでいく足裏のロケット花火と、はだけてきわどい着物と共に。

 宙に、浮いている。

 さっきまで月だったはずの、蛇口に手をかけて。

 闇夜に浮いた一個の蛇口を、小さく健気な手でしかしガッチリと掴んでいるのだった。

「どうか、あの夏の一日目迄」

 声が震える。

 それは心底の願いだったからもあるが、単に全力を振り絞ったのちと、空の寒さが容赦なく彼女を襲ったからだと思われた。

 しかしガッチリと、彼女は掴んでいる蛇口を、ツキを離さない。

 寧ろゆっくり、片手でゆっくりと右回しにしているじゃないか。

「どうか、もう一度、夏の一日目に私を戻してください」

 この、もう、を、私は何回使ったのだろう。考え出すと途端、寒気がし出して、ひねることに集中する。

 蛇口は、小学校で右から二つ目の蛇口がそうだったみたいに、誰かが固く締めてしまったみたいだ。

 でもそう言うとき、何処かの引っ掛かりが取れれば、あとは案外興ざめであることも。彼女は知っていた。知り過ぎるほどに。

「どうか」

 最後は懇願というか、そう言う形になって。

 するりと手が抜け、しまった、などと呑気な事を想ったときに、顔に降りかかった液体の味の無味なので確信に変わる。

 全ては、いや全ては無理でもこの夏だけは、水に流せるのだと。


 緩やかに下降しながら、彼女は反省と持ち越しを考える。

 少しずつ、肌が汗ばむのが分かった。

 

 遠くから、聞き慣れたアラーム音が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の魔女が泣いたから 庭花爾 華々 @aoiramuniku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る