結 - 1
全国民の敵である月曜日は、散弾銃みたいな雨を持ち出して、憂鬱を生み出すモンスターへと成長した。
芸術の選択授業に美術を選んでいる佐久は、教師から与えられたテーマである『自由』に則り、重力に逆らうことなく机へ突っ伏す。
大学に関係ないところはやたらと緩いんだよな、この学校。
『神田栞天気予報によると、本日の天気は晴れ──』
──止む気配がねえよ。
栞からのLINEも、既読だけ付けてスマホを伏せた。
着信があるということは、まだ生きているということで、そもそも栞が死ぬという未来を想像できないけれど、少しだけホッとできる。
結局どうして死にたいのか、いつ、どう死にたいのかはさっぱりわからない。聞いても教えちゃくれないが、それが事実であるということだけは、ぼんやりと理解していた。危機感はないけれど。
「マジで、どうしてだろう……」
机に伏したまま、佐久は小さくつぶやく。
あの時の栞はまるで、楽しいから死ぬんだと言わんばかりだった。
「あいつ、痛いの嫌いなはずなのになあ」
──それも昔の話だっけか。
実際木の上から栞が滑り落ちた時なんかは、1時間くらい泣き止まなくて困ってしまった。そんなこともあったなあと、もう走り回らなくなった草むらを懐かしむ。
──閑話休題。
佐久は立ち上がり、目的地もなく歩き出した。教室を出ると不快な湿気が僅かに去り、考え事モードに再び入ることができる。
この世界にはたくさん死ぬ方法があるらしい。老衰死、轢死、溺死……だからといって何一つ具体的なイメージには変わらないが。
栞ならどこで、どんなふうに死にたいだろうか。
俺だったら愛する人のもとで、何事もなく安らかに死にたいなあ。……とか、考えてみる。そもそも死にたくないけどな。多分。
「そもそも俺は何を考えてるんだ」
らしくないぞ、らしくない。目の前の問題から全て目を背け、その場の流れで生きることこそが──学生としてのモラトリアムを最大限に教授することが自分の生き様だというのに。
──いや。
何もかも全部、この雨がダメなんだ。
ザルで小豆を掬うような音が断続的に続き、ザーザーザーと自分をどこかへ急かす。これさえなければ。
佐久はそう結論づけて、思考することをやめた。代わりに「この雨消えろ」というメッセージを込めて、湿った指をぱちりと鳴らす。
──途端に、世界が音を消した。
仰せのままに。雨が消えた。
盆をひっくり返すような雨が止んだ。それも突如に。
聴力がなくなったと錯覚するほどの静寂が世界を包む。
「まじ……?」
悪態が成就した単なる偶然が、そうは思えなくて唖然とする。
窓には木漏れ日が差し込み、雲の子を散らすように空が顔を覗かせる。
絵の具をしぼり出した純粋な青。高さがつかめないような青。
鳴くのを忘れていた蝉が騒ぎ出すと、佐久の脳に一つのアイデアが差し込む。
「神田……お前は」
実に完璧な夏だよ、そんなことを決め顔で言う栞の顔が浮かんだ。
雨が止んだらどうなる? 空は澄み渡り青くなる──だから栞が喜ぶ。
そのロジックは破綻していない。
「……雨が止むのを知っていた。……なら」
あの海で、大きな蕾をつけた線香花火を見つめる栞を思い出す。
──しんみりした最後なんて寂しすぎる。
栞が一番弾けるのは──一番輝くのは夏空の中だろう。
それは……。
「……今、この空」
日の打ちどころがない青空──それは『今』しかない。
思えば、いつも佐久に天気予報を伝えていたのは栞だった。
もしかすると彼女はずっとこの瞬間を待ち続けていたのかもしれない。雨上がりという最高の舞台を。
理由は分からない。けれどきっと今しかない。青空の下で走る栞、青空の下で笑う栞、青空の下で屁理屈をこねる栞。どんなことをするにも、彼女には青空が似合う。
「じゃあ、どうやって」
栞はしんみりとした終わりを嫌う。どんなモノよりも夏が好き。この青空の下栞は何を選び、どう自分の命を絶とうとするのか。
思考がまとまってくる。
青空、人が死ぬ。栞。
──佐久は、走り出した。
ここしかないと思った。学校の階段を駆け上る。目指すは──屋上。
一段飛ばし、二段飛ばしでぐんぐんと昇っていく。今日だけは、惰性で続けていた野球部に感謝しなくてはならない。
──一刻も早く。
鍵がかかっているはずのドアを捻り、勢いよく開ける。
「神田!」
ドアの向こうを確認せずに、ほとんど確信をもって呼びかける。
肺が収縮と膨張を繰り返し、膝に手をついて汗がしたたり落ちる。それでも明度差で眩んだ目を前に向ければ、果たして──そこに栞はいた。
腰の高さほどのフェンスを乗り越えて、三十センチほどの縁に毅然と立ち、ひたすらに青い、青い空を見上げていた。佐久に気が付くと振り向きざまに言う。
「──雨上がりの空は青より青し……ってね」
その声はいつもと何も変わらない、澄んだ夏の声をしていた。
「……」
「……実は、小出君が来なかったら、少し寂しいなって思ってたところだった」
「何やってんの」
佐久の質問に栞は質問で返す。
「どうしてここが分かったの?」
「馬鹿と煙は高いところに登るって」
真っ青な光景に、一人佇む制服の少女。ギラギラと刺す日差しの中で、彼女の髪は夏風に揺られていた。
「私は煙じゃないけど」
「馬鹿だって言ってんだよ」
佐久の呼吸は荒くなっていく。高い空がどんどんと遠くなっていく錯覚。
「最後まで漫才みたいだね」
「別に今日が最後じゃないけどな」
「……どうして私、あんな手紙だしたんだろう?」
「俺に聞くなよ」
脳に酸素が回らない。呼吸が苦しくなる。
「もしかしたら寂しがり屋だからかもね。一人でなんでもできるって思ってたのに。どうしても小出君には気付いて欲しい……隣にいて欲しい、なんて思っちゃう」
顔にかかった髪を指で攫って、小悪魔的に栞は笑う。
あの手紙がなければ何も知ることなく今日を迎えていたと思うと、少しゾッとする。
「じゃあもう少し大人しくなってくれよ。……追いついたと思ったら、すぐどこかへ行く。……今だって」
「『大人しく』ね。……無理かな」
「……知ってる」
そう言うと栞は目尻だけ下げて笑う。
少し間が空いて、吹き抜ける熱風を肌で感じられるようになった。
肉体的な疲労と精神的な疲労が合わさり、三半規管が弱った佐久は胡坐をかいて、屋上のコンクリートにどっかりと座り込んだ。
「……青春っていい言葉だよね。なにせ”青”ってワードがある」
逆上せるように栞は言った。揺れる長く綺麗な黒髪に対比して、瞳は微動だにせず佐久を見つめる。
「今は青夏って感じだけどな。春ってよりは」
佐久は開き直って突っ慳貪に返す。お尻から伝わる冷感が、沸騰しきった頭を少しだけ冷やす。
走ればすぐにたどり着けるはずの栞までの距離が、とてつもなく遠く感じた。
「青夏。もっとそれっぽいかも。……今が、青夏」
物憂げな眼は相変わらず黒に染まり、胸中を深く覗くことはできない。栞が怖がっているのか、スッキリとした気分なのか、誰かを恨んでいるのか、佐久はいつも見透かされる側で、今回も知ることはできない。
「マジでスゲー青。まさに青空って感じ」
「語彙力なさすぎるよ。青い空だから青空って」
「絵に描いたような青空なんだからそういうしかないだろ。綺麗だ」
吸い込まれそうになる青。栞はそこに吸い込まれようとしている。
「ありがとう、私の青空は褒めれば伸びるタイプだから」
「神田の青空ってなんだよ」
空を独り占めって余りにも強欲が過ぎる。
「……でもね。もう賞味期限が近いんだー。この空」
フェンスに肘をついて栞は言った。
何か、明確な諦念が見て取れた。
「賞味期限?」
「そう。青夏が青夏であるのは、私たちが青いから」
栞が空に目線をフォーカスして言い放つ。
決めゼリフのように言い切られたけれど、佐久にはさっぱり何もわからなかった。
「……?」
「小出君は今が楽しい?」
「今は楽しくないな」
ぶっきらぼうに佐久は答える。
「そうでしょ、楽しいでしょ」
「話聞いてる?」
「私はさー。最高の夏に死にたいんだよね。これだけ自由にできて、これだけ心も瑞々しくて、熟しきった夏に私は死にたいんだ」
死にたいなんて言われても、さっぱりわからなかった。それに、
「これから最高の夏は何度でも来る。何度でも更新できるよ」
「私は自信がないなあ。こんな綺麗な青空は、きっともう何度も見れない」
「雨が降って、止むだけでまた今日みたいな天気になる」
「……本当にそれだけだと思う?」
佐久は上を見上げた。栞は続ける。
「十年後の小出君は、果たして同じような景色を見れないんだよ、きっと」
「そんなこと──」
──ない。と勢いで言いかけて、淀む。自分の十年後に、青い空はまだあるだろうか。
栞の言わんとすることをなんとなく飲み込み、灰色の空を眺める社会人の自分を想起した。
「あるよね。私もあるもん。段々と大人が近づいてくる。『大人しく』ならなきゃいけなくなってくるの」
「大人しく……」
栞は佐久の動揺した様子を見て、クスリと笑う。
全ての準備が整い、その黒い瞳でまっすぐに佐久を捉える。
「最後に小出君と海に行けて本当に良かった。最後に小出君と話せて本当によかった。だから私の頭に残るのは最高の夏なんだよ。だから──」
「神田。待て、まだ話は終わってない」
何か伝えたいこと、言わなくちゃいけないことはないか?
「私は人の話を聞かないの」
優雅に背を向ける。サラサラとした髪とスカートが一瞬浮いた。
本当に最後だっていうなら。彼女を引き留める言葉がもしあるなら。
「な、なあ、好きだ。……知ってると思うけど。神田。だから──」
震えた声は栞へ届いた。漆黒の瞳を少しだけ見開いて驚いた様子だった。
それでも、彼女は最後まで彼女だった。
話を遮って、
「──フフッ、ヘタレのくせに。佐久くん、──」
君は飛んだ。
忘れられない夏に、むき出しの太陽に口づけをするように。
黒い髪が舞い上がり、真っ青な空に溶けていく。芸術的な百点満点の夏だった。
両手を広げて空に挑む姿を、二度と忘れることはないだろう。
ゲオスミンが香る。胸の奥から慟哭が群がってくる。どこにも吐き出せない何かが、バッタのように身体を荒らす。
最後に栞は何と言ったのだろう。佐久はその答えを待ち続ける。
Perfect Blue 花井たま @hanaitama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます