ハナミズキの樹の下で

鱗青

ハナミズキの樹の下で

 この道はこんなに長かったのだろうか。駅で特急を降りて一路、目的の場所へ向かう一本道。それはまだも取れない赤ん坊の頃から高校生までをこの土地で過ごしていた俺にとって、慣れ親しんだものの筈だった。

 かつて信号や商店街があった。学校があった。通学路には子供達が走り、お年寄りがカートを押して散歩していた。日本のどこにでもありふれた、普通の街並み。

 それが無い現在、むしろ歩き易くて当たり前なのだが、のっぺりと遮蔽物のない風景は却って俺の意識を圧迫してきた。

 それでも10分もすれば、目的の小高い丘が見えてきた。そのいただきにあるこの辺では一番大きなハナミズキの梢も。

 待ち合わせの場所までもうすぐ。しかしこの、胸中に浮かんでくる安堵感は何だ?

 俺は自然と湧いてくる自嘲に背中を丸め、ジャンパーの腹の内側にクスクスと声を漏らす。

 例年よりも寒波が長引いている。あと二、三日で四月だというのに、東京からここまで遠出してきて桜のひとひらも見かけない。──もっともかつて街並みのあった区画はがらんとして、残っている樹木の方が少ないのだが。

 電車で出発した時からずっと握りしめていた掌の中のスマホは、体熱を吸ってぬくもり、ひび割れの走った画面がうっすら曇ってしまっている。俺はそれを覗き込んで──

『あの時は驚き過ぎて変な反応をしてしまったよ

ごめんね』

 高校三年生の俺より十六歳も年上で、尚且なおかつ育ての親でもある西邑にしむらごうは、俺が想いを打ち明けた時、開口一番笑える冗談だとかしやがったのだ。

「いいよ。俺だってゴウにサンドイッチパンチしちゃったんだから」

『そうそう

往復ビンタじゃなくてグーパンをこう

頬っぺたに左右からガツーン!とやられたよね』

 濠の笑いはビールっ腹の底からけ反り雲までぶち上げる爽快なもの。市内の建設会社の現場主任で、口の周りにびっしり髭を生やし、手脚も胸板もついでに人望も厚い。まだ32というのに完全な「おっさん」の風貌。そんな人だった。俺は信頼と親愛込めて、子供の頃から呼び捨てにしてきた。

『しかしこれ使い方合ってるのかね

なんだか私ばかり喋っている気になるけど』

「大体間違っちゃいないよ。このアプリってそんなもんだから」

『スマートフォンなんて買うの初めて

というか携帯自体今まで持ってこなかったからねえ』

「アハ。アナログ人間極まれり、だね。そんなんでよく32歳になるまで生きていられたよね」

『壊してしまうのが心配でさ

携帯ショップで頼んで一番頑丈なケースに入れてもらったんだ

ついでに画面のシールも貼ってもらった

いやーピカピカの新品ってワクワクするねえ!』

「自分でやんねえのかよ濠」

『私がするとワヤにしてしまいそうでねえ』

 俺は首を振る。道の下に家々の屋根が見えた。視界が徐々に高くなってきている。

「そんな事ねえだろ。俺の事も十八年間しっかり育ててくれてたんだ。自信持ちゃいいのに」

 ここで少し間がひらく。

『その

私のせいでお前が

私ことを好きになったのかなと

心配というか悩んでたんだ』

 てにをはが狂ってる。俺はフ、と口許を緩めた。あの人のお人好ひとよしで謙虚で朴訥ぼくとつな髭面が困っている様子が目に浮かぶ。

 あんたの責任じゃないよ。誰かを好きになるのは、恋に落ちるのは、恩人への義務でも子育ての失敗でもないんだ。

『私はお前を大事に育てたつもりだった

親友の忘れ形見だし

何よりお前は可愛い子供だった

息子と思っていつくしんで

愛情を誰よりもそそいでやろうと思ってた』

「分かってるよ。実際あんたがしてくれたのはその通りだぜ。あんたの方から俺にやましい行為おこないをした事もなけりゃ、父親みたいな兄貴みたいな愛情で接してくれただろ」

 濠もまた孤児だった。俺の本当の父親とは仕事場で知り合い、意気投合した。俺の父親は痩躯で眼光鋭いヒョウのようなボクサー崩れの前科者。対する濠は、体躯は頑強で人一倍大きいものの温厚な根っからの肉体労働者。

 偉人の銅像のようなその背中に甘えておぶさり、事あるごとに肩車してもらった日々。だから小学校の卒業近くに父親がチンピラとの喧嘩でおっんで、親戚に厄介者扱いされていた俺をすぐ引き取ってくれた際もなんら違和感はなかった。

 ああ、俺はこれからこの優しいおっちゃんの弟子になるんだな。

 そんな風に受け止めていた。

 父親譲りの喧嘩っ速さと短慮。猜疑さいぎ心の強い粗暴な性格。簡単に社会の最底辺へ転がり落ちていきそうな性質の子供をしかし、濠は決して見捨てたりせず急かす事なく教え導いた。自分を囲む世界も大人達もクソだと見做みなしていたが、どんなに帰りが遅くなっても温かい飯を食卓に用意し、どれだけ不品行の迷惑をかけても何も言わずに優しい瞳で抱きしめてくれる彼の事を、いつしか保護者としてではなく慕うようになっていた。

 今でもそれは自然な成り行きだったと俺は思う。

「問題は俺の方だったんだよ。──ていうか、そういう運命だったんだ」

 俺が恋したのは、同級生の可愛い女の子ではなく。

「同じ屋根の下で生活してた濠だったんだもんな」

 背中まで毛むくじゃら。小学生の頃は一緒に風呂に入ると流すのに苦労した。非行に走り始めた中学では背も手足も伸びて「お前に洗ってもらうと一日の仕事の疲れが吹っ飛ぶくらいスッキリするよ」と褒めてもらった。高校生にもなると気恥ずかしくて(それに好きな相手と裸になるいうのも手伝って)なかなかそれもできなかった。それをずっと後悔している。

 着いてしまえばあっという間。ゆったりとした傾斜はやがて急な坂道となり、最後に江戸時代に造られた不揃いな石段が百十二段。これも濠と一緒に数えた。

 ここだ。海への見晴らしが心地良い、丘のてっぺん。子供の頃から俺は濠に癇癪かんしゃくを起こすとプチ家出をして、ここに来た。身を隠すのは決まってこのハナミズキの大樹の上。

 あの日も。濠は俺がここに居ると確信して、わざわざ駆けつけたのだ。

「やっと着けた。待たせてごめん」

『今度はちゃんと話し合おう

私の本心を

しっかり伝えておきたいんだよ』

 スマフォのメッセージはそこで切れていた。

 俺は目をすがめた。この丘からは護岸された海岸線が見える。そして少し視線をずらすと、ほんの百mのところにポツンと残った四階建ての消防署。

 あの日。俺はに居た。

 日本という国ごと地球が壊れるのではないかという大地震のあった日。そして遅れる事わずかにして大津波が押し寄せてきた、記憶から永久にぬぐいされない天災の日。

 俺は卒業式の後、参列してくれた濠に自分の気持ちを打明うちあけた。

 好きだ。一生を添い遂げたいと。

 そしてそれを笑われて憤慨し、詰襟つめえり制服のまま別れた。

 程なくしての地震。混乱。阿鼻叫喚あびきょうかん。スマフォは途中で落とした。なんとか合流しなければと考えた時、頭に浮かんだのがだった。

 避難所で出会った濠の職場の生き残りが教えてくれた。濠は地震の前に職場に寄って、スマフォの買い方と使い方を訊いて行ったそうだ。

 そしてショップで無事購入したのだろう。しかし俺のスマフォにはコンタクトできたものの、肝心の持ち主とは会えなかった。

 スマフォを失くした俺はこの場所に来るために死に物狂いで走っていた。そこへ濁流だくりゅうが押し寄せて、駆け込んだのが運良く残った建物だったというわけだ。

 俺が持っている濠のスマフォは、水が引いてから発見された。──このハナミズキの一番高い枝葉の中で。

「濠…」

 俺は幹に寄り掛かる。本当に、嫌になるくらいはっきりと俺の居た建物が見えるじゃないか。

 たった数メートルの高さの違い。それが明暗を分けた。

 あの日溢れた海は、怒涛どとうという言葉そのものだった。とんでもない丈の波頭によって、消防署とこの丘は川の中の中洲と小島のように分断され、やがて丘の方は暴れ回る海水の底に沈んでいった。

 俺は呆然とそれを眺めていた。眺めるしかできなかった。…手も足も出なかった。どうかそこに居てくれるな、俺の事なんか育て親に惚れたイカれ小僧だと思って放っておいてくれよ。──そう、願った。神様に祈ったのも、生まれて初めてだった。

 しかし濠はここで死んだ。波に飲まれる瞬間、咄嗟とっさに力を振り絞ってこのスマフォを樹上に投げ上げたのだ。

「あの時一緒に死ねてたら…」

 最期まで共にいられたら。

 そう悔やまなかった日はない。俺がねて遁走とんそうしなければ、二人で生き残れかもしれないのに。

 津波から逃げる最中、濠とすれ違った近所のおばさんにも話を聞いた。

「あんたどこに行くんだい。もう波がそこまで来るよ、逃げんと」

 濠はこう答えたのだという。

「お恥ずかしいのですが、私のむす…恋人、が、待っているかもしれないので」

 それはそれは照れて、見ている方まで赤面が伝染うつってしまいそうなほどのデレ具合だったそうだ。

「そう。何もこっずかしい話ではないね。恋人が待っているのならすぐに行きなさい」

 それが、この世で最後に濠が他人と交わした会話。

 恋人。

 恋人だと。

 どもりながらゴワゴワな剛毛の後頭部をさかんに掻きむしる濠の無骨な仕草を想像して、俺は泣けてきた。

 背中のデイパックからロープを取出とりだした。その為にここに来たのだ。もうすぐ俺も濠の処に逝く。そして今度こそ、二度と離れ離れになんかならない。

 結ぶのに手頃な枝はすぐに見つかった。ロープを投げ、先端に輪を作る。もう片方は幹に結んで…

 俺は手を止める。何か不自然な傷があった。

 よく見ると見覚えがある。そうだ。見間違える筈がない…

 慣れ親しんだ濠の金釘かなくぎ流。子供の頃へたっぴだとからかって、そのたんび二人で笑った字体。

 そこには。

『生きて

いつか

また』

 ロープが手から滑り落ちる。

 俺は両手を幹についた。頬を無限の涙が流れて、嗚咽が喉から迸る。

「ここに居たんだ…濠…」

 俺はいつまでも太い幹にしがみついて泣いた。

 太陽が水平線に沈んでいく。世界を丸ごと燃やし尽くしそうな夕焼けの中、一輪だけ灯火ともしびの如く咲いたハナミズキの白い花。

 それはまるで濠の優しい眼差しの代わりに、俺を見守ってくれているようだった。

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