ステキな紳士

花岡 柊

ステキな紳士

 目の錯覚ではないかと自分を疑った。仕事では、パソコン画面を見ることが多いし。スマホだって、見ない時間は寝てる時くらいだと言っても過言ではない。電車の中でも、休憩中でも。待ち合わせの時間潰しでも。私は、スマホの画面をよく見ている。


 だから、きっと疲れているに違いない。疲れ目? 霞み目? 

 幻覚を見るくらい、スマホに依存し過ぎてる?

 だって、居ないはずのものが見えちゃってる。


「やあ。こんにちは」


 なんて気さくな挨拶だろう。全く嫌味のない、とても好意的な笑みを向けられた私は、思わず当たり前のように目の前の人物に挨拶を返した。


「こんにちは」


 私が応えたことに、相手はとても満足そうな表情を浮かべた。


 年の頃は、四十歳半ばという辺りか。こざっぱりと刈られたスマートショートのヘアスタイル。よく見るとプチツーブロックになっていて、ちょっと洒落ている。

 着ているものも洒落ていた。下は細身のチノパン。上には、ネイビーのジャケットを羽織り、中には真っ白なカットソーを着ているのだけれど、襟がないのでスッキリと見えてちょっとセクシーさまで滲み出ていた。

 私が今まで付き合ってきた相手は、同年代が多い。年上もいたけれど、それだって一つ二つ上程度の歳の差だ。


 おじ様が趣味なわけではないけれど、目の前に対峙するこの紳士。悪くない。


 大学の頃から付き合っていた彼と別れたのは、ほんの二週間前のことだった。卒業後、互いに別々の会社に就職し、日々を忙しく過ごしていた。そのせいか、すれ違いが生じたのだ。まー、言ってみればよくある失恋話だ。


 よくある話ついでに言えば。私は別れた彼にまだ未練を抱えていて、毎日のように落ち込んでいた。

 今しがたも、仕事から戻り。食事も摂らずに、缶ビールを煽って泣いていたところだ。彼からの連絡などくるはずもないのに、テーブルの上に置かれたスマホの暗い画面を何度も見ては落ち込み。メッセージが届いていないかと手にしては、無口なスマホに涙を流していた。天井にある照明の光を受けたスマホは、暗闇の中に一縷の光があるような気がして、縋りつくように視線を送っていた。


 そんなところへ突然現れ話しかけてきたのが、今目の前にいるこのおじ様紳士だった。

 いつの間に現れたのか。いや、どうしてこんなことになっているのか。

 さっきまで別れてしまった彼を思って泣いていたというのに、目の前の紳士に気を取られてしまい涙など引っ込んでしまった。


「そんなに涙を流して可哀想に」


 おじ様紳士は眉尻を下げると、まるで自分のことのように切ない表情をして私を見つめる。


「こんなに可愛い子が悲しい涙を流さなければならないなど、世の中間違っているよ」


 しみじみというように語るおじ様紳士の言葉に、私は大きく頷いた。こんなに寂しい思いをしている女は、今この世に私だけ。そのくらいの悲しみに、打ちひしがれていたからだ。


「僕が抱きしめて、慰めてあげたいくらいだ」


 おじ様紳士は両腕をふわりと広げると、この胸においでと言うように私を見つめる。

 私だって、できることならそうしてもらいたい。いや、下心ありありの変な話ではなく。人の温もりというものには安心感を覚えるものだし。今は誰かの胸を借りて、温もりを感じながら、ひたひたと流れる涙を優しく拭って貰いたいのだ。

 その相手が、こんなにもステキなおじ様紳士なら尚更だ。


 いや、別に。彼と別れたばかりで、フラフラっと心がなびいているわけじゃないのよ。でも、ほら。ちょっとおしゃれなおじ様紳士が、こんなにも自分のことを思ってくれているとなると、その優しさに寄りかかりたくもなるじゃない。人間なんて、弱い生き物なのよ。


 こんなに歳の離れた人と付き合ったことはないけれど。人生経験が多い分、理解力や優しさに溢れている気がする。きっと、私のちょっとした我儘も広い心で受け入れ、笑ってくれるのではないだろうか。なんて思うわけよ。


 おじ様紳士は、悲しみに暮れる私を慰めるように「レイニーブルー」を囁くように口ずさむ。選曲が古いということよりも、イケてるボイスが素敵すぎて感動を覚えた。


 なんて素敵なイケボ!


 おじ様紳士は優しくしっとりとレイニーブルーを口ずさみながら、私の指に手を置いた。

 あったかい。この温もりに包まれたなら、続いていた眠れない夜も超えられる気がする。


「僕は、ずっと君のことを見てきたけれど。あまりに可哀想で、放っておけなくなってしまい、こうして君の前に現れたというわけさ」


 ここ数日の私は、傍目から見てもそんなに可哀相に見えたのか。

 それはそうよね。毎日のように目の下にクマを作り。食事もまともに摂れず、お酒ばかり飲んでいた。睡眠もままならないから、お肌だってカッサカサのバリバリよ。この二週間ほどであっという間に老け込んだんじゃないかってくらい、どん底の気持ちを味わってきたんだから。


 大袈裟だって言わないでね。女にとって恋愛は、生きていくために必要不可欠なのよ。多分。


 おじ様紳士は、私の指にそっとキスをする。それはいやらしさの欠片もない、優しい唇の感触だった。


「僕にも一杯貰えるかな」


 まるでバーにやってきたかの如く、おじ様紳士は私の飲んでいる缶ビールをスマートに目で示す。

 そんなおじ様紳士には、バーボンロックが似合いそうだけれど。生憎私はビール以外飲まないので、この部屋には他のアルコールはないのでしかたない。


 おじ様紳士のリクエストに応えて、ビールを注ごうとグラスになるようなものを探したけれど見つからなかった。


「ごめん。いいのがみつからないの……」


 謝る私に向かって、こればかりは仕方ないとでもいうように、気にしなくていいんだよと外国映画のように首を振る。その仕種があまりに似合い過ぎていて、全米デビューも夢じゃないと思えた。


 一緒に飲めたらよかったのにな……。


 残念に思うも、おじ様紳士にあうグラスがないのだからしかたない。


 ビールを諦めたおじ様紳士は、落ち込んでいる私を慰めるためにたくさんの話を聞いてくれた。

 付き合ってきた今までの楽しかったこと、嬉しかったこと。もしかしたらこのままずっと付き合いが続き、いずれは結婚するかもしれないと想像したこと。別れが見えてきた頃の、つらく苦しかったこと。離れる決断をした時のこと。ずっとそばで見てきたのだから全て知っているはずなのに、おじ様紳士は厭きる素振りも嫌がる表情もせず。私の悲しみを受け入れてくれるように、親身に頷き聞いてくれた。真摯なその姿勢に私は思う。


 惜しい。こんなに惜しいと思った事は、今まで生きてきてなかったのではないだろうかと。

 高々、二十四年間生きてきただけの小娘が言うセリフではないけれど。この素敵なおじ様紳士を前にしてしまっては、そう思わざるを得ない。だって、こんなにも私のためを思い、話を聞き。親身になってより添い、そばにいてくれる男性がこの先現れるだろうか。

 いや、いない。きっと、このおじ様紳士に勝る男性など、いるはずがない。

 しかし、再び言おう。


 惜しい。実に惜しいのだっ。


「本当にすまなかったね。僕がこんななりでなければ。君を優しく抱きしめてあげられたというのに」


 本当に申し訳ないというようなおじ様紳士の表情に切なくなってくる。


 私は、テーブルの上に置いてあるスマホを見て力なく首を振った。正確には、テーブルの上に置いてある、スマホの上に現れたおじ様紳士こと。小さなスマホの妖精に向かって首を振ったのだ。


 そう、一生で二度と会うことのないだろうイケてるおじ様紳士は、私のスマホに宿った十センチにも満たない小さな妖精だったのだ。

 ミニチュア雑貨のようなおじ様紳士は、私の指を小さな手で握り元気を出すよう慰めてくれる。


「ありがとう」


 心からそう感謝するのと同時に強く思う。


 スマホの妖精「ちいさっ!!」


 現実の残酷さを思い知る夜だった。

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