【KAC20215】二年目の逢瀬

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

先生の夢見たもの

 拝啓


 厳しい暑さが続いておりますが、先生はいかがお過ごしでしょうか。

 先生が旅立たれてから早くも二年が過ぎ、私も来月で二十歳を迎えることとなりました。ご心配をおかけしておりましたが、学生生活にもようやく慣れることができ、学友に囲まれながら街中の生活にも親しんでおります。学問の方は苦闘することも度々ございますが、先生より賜った薫陶のおかげで乗り越えることができております。

 この度は近況報告を兼ねてお便りさせていただきましたが、先生と過ごした日々をやはり懐かしく忘れずにいる自分を見出すこともあり、時に寂しく感じることもございます。またいずれお会いできればと願う次第ではございますが、どうかそれまではそちらで温かく見守っていただければ幸いです。

 末筆ながら、ご自愛のほどお祈り申し上げます。


 敬具




 燦々と照り付ける陽光の下で蝉時雨が降り注ぐ街並みは、僕の子供のころから何一つ変わることなく、しかし、それを一人で歩くとなるとどうしても溜息を止めることができなくなる。前を行く薄着の少年二人が酷く眩しく、小路へと消えるより先に目を逸らしてしまう。擦れた石畳が僅かに滲み、もう一度、溜息を吐く。前を向き直せば、再び広がる深緑の山並みに耐え難いほどの寂寥を覚える。

 大学を期に街中へと出た僕にとって幸いだったのは、この景色を目にすることで沸騰する感情を一年半ほど知らずに過ごせたことだろう。半年の失意の後に逃げ出した僕は、しかし、そのままこの地に在れば果たしてどのようになっていたか。軒先に掲げられた忌中の文字を見て、汗の滲みを感じる。老いの多いこの町では特段珍しくもない二文字も、そこに在る人が置き換えられると、途端に狐火のようなものとなる。

 向かい合う空に、入道雲が堂々と立ちはだかる。それはまるであの日のことを僕に忘れさせまいとするかのようであった。


 「先生」と僕が呼んでいたのは、七つ上の近くに住むお兄さんのことであり、小学校三年生の頃に町内の夏祭りで出会った。当時まだ高校生だった先生は、子供たちを相手に綿あめを作っており、僕にも一つ渡してくれた。その時の穏やかな表情は今でも忘れることができず、立ち上る汗の匂いがどこか爽やかなものであった。白いシャツの胸元に書かれた英字の意味が当時は分からず、それを尋ねたのが初めての授業ではなかったか。そして、その一言が白雪姫の交わした口付けのように、僕の中に在る何物かを目覚めさせた。いや、目覚めさせられたのは先生の方も同じだったのかもしれない。

 それから、僕は先生に色々と教えてもらうこととなった。初めは、草笛の楽しみ方ではなかったか。そこから山野での遊び方から学校の勉強に至るまで、まるで何でも知っているかのような先生は、森羅万象を教えてくれた。そして、中学校に僕が上がった頃、山女魚の釣り方を教えてくれた先生は、少し騒がしい僕の頭に手を乗せて嗜める強かさを持っていた。優しく広い手から伝わる温もりが、何か脊柱を貫くようであったのを当時の僕は困惑を以って迎えていた。

 洋楽が好きだった先生の家に通うようになったのもその頃からであった。ソファーに並んで座りながら、黙ってそれと音楽とに吸い込まれる。目を閉じながら微かに頷く先生の横顔を、僕は時に盗むようにして見ていた。整った顔立ちに、僅かに上がる口角が酷く印象的で、僕はそちらの方が目当てだったのかもしれない。通信制の大学に通っていた先生の教科書が本棚の一角に並び、それを認める度に僕は世の中の深さに希望を持つことができた。

 先生は女の人に言い寄られることも多々あったらしい。先生の部屋に在った木箱を開けた時、中に多くの手紙があったのだが、それを先生は自分の重ねた罪の証とだけ説明した。その時の僕には分からなかったことだが、先生が女性と付き合ったという話を一度も耳にすることはなかった。

 高校に入学してもスマホを買い与えられず羨ましがった僕に対して、それ程いいものじゃないよと教えてくれたのも先生だった。時に、洋楽を乱す連続した通知が、あることを断った女性からの怨嗟の連鎖であったのを知ったのは、高校二年の夏である。その頃にはもう勤めに出るようになっていた先生と合うのは夜と休日ばかりとなっていたが、ある夜にお手洗いに立った先生は画面を点けたまま席を離れた。興味本位で覗き込んだ先に在った呪詛は、僕からスマホへの憧憬を失わせ、それを悲しそうにそれまで見ていた先生への慈しみのようなものを僕に与えた。

 それが遠い引き金になったのかもしれない。やがて、高校三年の夏を迎えた僕は、いつものように勉強を教えてもらった後で先生の部屋で他愛もない話をしていた。その時、大学に入ればこの町を離れることになることが話題に上り、僅かに先生の表情が歪んだように見えた。あるいはそれは僕の表情だったのかもしれない。ロックグラスをテーブルに置くと、先生は寂しそうに窓外の星を眺めていた。

「先生、僕は……」

 離れたくありません、という言葉を口にすることができないでいた。それは、勉強を教えてくれた先生への裏切りであり、許されざることである。奥歯を噛みしめて見詰める僕に、先生は穏やかな笑みを浮かべると、

「一緒に、酒が飲めたらいいのにな」

ただ、それだけを告げた。卓上の灯り一つが浮かび上げる影は酷く掘りが深く、その彫像のようでありながら艶を隠せぬ先生の姿に、僕は思わずその手を握ってしまった。首を振る先生から、蠱惑的な匂いがする。それが僕を酔わせたのかもしれない。そのまま顔を真直ぐに進め、ただただ、先生を求めようとした。


 星月夜 重なる影の 汗に濡れ 血吸いの蚊酔う 甘き囁き


 一夜を共にした後も先生とは変わらぬ関係を続けていたのだが、それは盆の明けた日に一変した。先生は一筆を残し、室内で首を吊った姿で見つかった。遺書にはただ贖罪という二文字と、僕にスマホを託す旨だけが書かれていた。


 住む人の無くなった先生の家は、蔦に覆われるようになっている。やがて、近くにある地蔵堂のように苔生していくことだろう。あの時、僕は先生の遺書の意味が分からず呆然としただけであったが、今となってはなんとなく分かるようになった気がする。それは、パスコードによって閉ざされたこのスマホと同じように、先生が僕に残した最後の授業だったのかもしれない。

 あの後、失意のうちに在りながらも勉強だけは止めず、大学に合格してこの町を離れた僕は、一人暮らしとなった初めての夜に初めて涙を流した。先生が残したスマホは電源こそ入るものの、パスコードを解除することもできず通信もすることができない。それでも、新たに買い求めた自分のスマホを持ちながら、後生大事にしているのは遺物の方である。全てを消して入れ替えることも持ち掛けられたが、それを僕は良しとはしなかった。

 ふと、声をかけらて目線を下ろすと、そこには一人の少年が不思議そうな目で僕を見る姿が在った。空き家の前で呆然と佇む僕が不可思議らしい。白いシャツと短パンはともすれば麦藁帽に隠れるようであり、そこに十年前の僕の姿が微かに重なった。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「いや、昔お世話になった先生の家だったから懐かしくて、ね」

 興味を失ったのか、少年が僕に背を向けてさよならと駆けていく。その足元は陽炎が広がり、ただ草木の待つ方を目指す。

 その時、先生があの夜に口にした言葉が反芻され、思わず先生のスマホを手にした。久方振りに灯った白い林檎の後に、思いついた六桁の番号を叩きこむ。今年の僕の誕生日を吸い込んだ画面は、やがて、ただ一つの四角を映し出した。

 それを軽く押し、日付を繰る。その先に、辿り着いた僕の誕生日に先生の一言が残されていた。

 涙が頬を伝う。青空の向こうに何かが見えるような気がして、しかし、それをかき消さんとばかりに鳴り響く蝉の声は、私に一つの枷を刻むようであった。

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