2084年
丹寧
2084年
今は発禁になっているその小説を、むかし母が見せてくれた。
「こっそり燃やしておいてね。そのままにしていくと、みんなに迷惑がかかるから」
そう言った翌日、母はいなくなった。多分、自分が逮捕されることをうすうす理解していたのだと思う。
紙の本だったから、あの日まで取っておくことができた。電子書籍だったら、スマホやタブレットの中に存在することもできず、当局から削除されてしまう。ダークネットすら官憲の目をかいくぐれない今、秘密を守るにはアナログの力に頼るしかない。
数十年前はまだ、暗号化アプリを使えば、誰にも盗み見られることなくメッセージをやりとりできた。ダークネットに潜んでいれば、特定のソフトウェアや手続きがなければアクセスできない領域を確保できた。でも、今は違う。
世界の街じゅうに防犯カメラがつけられたのは、今の親世代すら記憶がない頃だ。理由はテロ対策。その後、今世紀のはじめごろ、欧州や米国で、テロ捜査のために国民の通話を盗聴していたことが明るみに出て、政府が批判を浴びた。でも、それだけだった。
民間の領域では、スマートフォンが爆発的に普及して、ビッグデータを扱う企業は人々の私生活を仔細に把握できるようになった。こちらは、政府や捜査機関と違って「テロ対策のため」というお題目を唱える必要はない。世界中のユーザーが、みずからデータを提供してくれるのだから。
もちろん最初は、それらをサービスの提供以外の目的に使用しないように、という抑制が働いていた。しかし、ひとたび莫大な情報を握ってしまったら、彼らの方が有利な立場になるに決まっている。既存の権力は、あっさり彼らにすり寄った。
証拠が残らないよう、政治家は暗号を手書きしたメモで汚職のやりとりをする。談合も、反政府活動も同様だ。メールやメッセージアプリなんて使えるわけがないし、通話もそうだ。対面で、口頭でしゃべったとしても、いつスマホが盗聴のために耳をそばだてているか、分からない。
スマホを持たない、という選択肢も、あるにはある――理屈の上では。でも実際のところ、なければ学業も、仕事もままならない。学校も会社も、数少ないスマホ拒否派のために、課題や書類を紙で用意するわけにいかないからだ。いまや紙も、印刷機も貴重品だった。紙でなくては困るもの以外、どんどんディスプレイに置き換えられていった。
でもって、字を書ける人間自体が少なくなっている。漢字の書き順なんて、今の世で覚えている人間が何人いるだろう。キーボードを叩けば、文字はディスプレイに映し出されるし、変換はコンピュータがしてくれる。母が書道教室を開いていたのは、そういうわけで、異端の所業と言っていい。
じっさい母は、異端だった。活動家だったのだ。誰もが、誰にも知られない領域を持つ権利を主張して、逮捕された。今、どこにいるのだろう。
高校生だった私が、母を失って茫然としていると、何人かの大人が尋ねてきて、黙って墨を擦り、私の隣で何かを書いていった。
鉛筆やペンが机に当たる音がしない毛筆は、何を書いたか悟られずに文字を書ける、ほぼ唯一の確実な手段だ。鉛筆やペンで書いた文字は、音で何を書いたか解析されてしまう。その点、毛筆は音で文字を辿りにくく、墨で塗りつぶせば何が書いてあったかも突きとめられない。
みんな、母と同じ活動に身を投じよう、と私を誘っていた。私は恐ろしかったから、ただ首を振った。それまで、活動家だとはおくびにも出さなかったのは、母の最大の親心だったかもしれない。私のことは、巻き込まずにいたいと思っていてくれたのだ。
その母が、小説の存在を明らかにしたのは、終わりが近いと知っていたから。
十年ぶりに、あの小説を取り出して、初めて読んだ。『1984年』。そして、あのとき私の隣へ文字を書きに来た人のひとりを訪ねた。当時もらった住所のメモが残っていたのだ。
「これ、差し上げます」
こぢんまりとしたマンションの一室に行って、壮年に差し掛かった男性に本を差し出した。当時来てくれた人の中で、もっとも若い人だった。
「大切なものだろう」
言葉を選んで、彼は言った。それが何なのかは、スマートフォンに拾われる音声から、わからないように。
「あなたが持っていた方が、良いと思うので」
「――君がそう言うなら」
気圧されるようにして、彼は本を受け取った。でも、その目は少し誇らしげだった。
「ありがとうございます。受け取っていただいて」
礼をして、私は早々に彼の家を辞した。しばらく歩いたところで、スマートフォンに着信があった。
「完了しました」
「ご苦労」
官憲の人間の声は、冷たい。この任務の指示が最初に来た時から、ずっとそうだ。
「あとはこちらで対応する」
通話は突然切れた。
何も教えてくれなかったが、何をするつもりかはわかる。あの本を持っていたことへの言いがかりをつけて、逮捕する。私をそうしようとしたように。
十年前、母がいなくなった衝撃で、すっかり本のことは忘れていた。どんな本なのかを母がはっきり告げなかったのもあって、禁書とは知らなかった。
だから、読む前にタイトルを検索してしまったのだ。そして、ちょうど本を読み終わるころに、警察がやって来た。反社会的な意思は抱いていないと言っても、なかなか信じてくれず、見逃してもらう代わりに協力を求められた。
「勝てないよな」
スマホをしまいながら、私は呟いた。本を読めばわかる。すべてを把握した権力に、敵はない。
勝てないのだ。勝てない。
あの本は、監視社会が成立していなかった頃なら、警告としての役割を持てただろう。でもこの世の中では、もう手遅れだ。
静まり返った住宅街を、私は駅へと急いだ。電車に乗って、家へ帰って、眠って、すべて忘れてしまおう。忘れてしまうことでしか、起こったことからは逃れられないから。
すべての記録が他者に把握されている、この社会では。
2084年 丹寧 @NinaMoue
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