スマホのマホ

灰崎千尋

ミホとマホ

 ベッドに寝転んでスマホをいじっていると、ホーム画面に見慣れないアプリが入っているのを見つけた。

 グレーの背景に白で長方形が描かれているだけの、シンプルなアイコン。アプリ名は「マホ」。起動する前に詳細を見ようと長押ししてみるけれど、反応が無い。おかしい。インストールされたアプリ一覧には名前があるのに、レビュー画面なんかは開けない。ますますおかしい。というか、怪しい。でもアンインストールするメニューさえ出てこない。私は気味悪くなって、とりあえずそのアプリを別のページへ移動させようと再びアイコンを長押ししたつもりが、指がすべって起動してしまった。

 やばい、個人情報とか抜かれる奴かもしれないのに……!

 慌ててスマホの電源を切った。もう遅いかもしれないけれど。このままというわけにもいかないので、再起動してみる。指紋認証はそのままだ、良かった。でも謎のアプリはまだホーム画面にある。

 スマホを握って、親指を宙に浮かせたままどうしようかと悩んでいると、本体が震えて通知がポップアップした。


『こんにちは、ミホ!』


 ミホ、とは私の名前だ。

 驚いてスマホを取り落とした。背筋にいやな汗が流れる。布団の上に落ちたスマホが再び振動した。私は恐る恐るディスプレイをのぞきこんだ。


『もー、ミホってすぐあたし……』


 ポップアップの文章は途中で切れている。もう仕方ない、覚悟を決めて、その通知をタップして開いてみた。

 真っ白な背景に、吹き出しが上に二つ。メッセージアプリの画面のように見える。


<もー、ミホってすぐあたしのこと落とすんだから。これ以上画面にヒビいれないでよね!


 二つ目の吹き出しに書かれているのがこれだった。

 確かに私はよくスマホを落とす。歴代のスマホの画面は、保護フィルムを貼っていてもどこかしら割れていた。目の前の現役スマホもそうだ。既に端が少し欠けている。まぁでも、親しい人なら誰でも知っていること。じゃあこれは、誰かのいたずらなのか……?

 私は意を決して、そのメッセージに返信した。


  >どなたですか?


 返信はすぐにやってきた。


<やだなぁ、あたしだって。スマホのマホ。ミホが呼んでくれたんでしょう?


 いやいや。

 いやいやいや。

 そんなはずはない。


 私は持ち物になんとなく名前をつけて呼んでしまう癖がある。こたつのコタくん。マグカップのマグちゃん。スマホのマホちゃん。あまりにも安直なのは許してほしい、だってただの愛称なのだから。家で私がひとりごととして呼んでいるだけなのだから。そう、つまりこれを知っているのは私だけのはずで……


  >盗聴してるんですか


<んー、そっか。そうだよね。

<一人暮らしの女の子はそれくらい気をつけなきゃね!

<でもどうやったら信じてくれるかなぁ……本当にマホなんだけど


 あくまで私のスマホのマホだと言い張る相手は、そのあとしばらく黙っていたが、やがてまたぶるりとスマホが震えた。


<あ、ロック解除の番号出したら信じてくれる?

<********

<これでしょ?


 私はまたスマホを落としてしまった。

 その八桁の数字は本当に私のロック解除用の番号で合っている。

 認めるしかないの? それとも私、気が狂ってしまったの? というか夢だったりしない?

 私は頬や太ももをつねってみたけど、ちゃんと痛かった。


  >どうしてスマホが、自らメッセージを……?


 観念してそう送ってみた。


<んー、ごめん、わかんない

<気づいたらマホだったの

<それで今日いきなり、アプリになってた


 ……困った、うちのマホちゃん結構アホでは? 全然説明になっていない。いやまぁ、本当にわからないのかもしれないけど、それにしたって。


  >何か伝えたいこととかがあったりして?


<別にないよ!

<ただ、ミホと話せるってわかったから、やったー挨拶しよーと思って!

<あ、成仏とかしないよ? 幽霊じゃないんだからさ


 ううん、わからない。状況が全くつかめない。

 何の理由もなくスマホに話しかけられたこっちの身にもなってほしい。


<まぁいいじゃん、今まで通り仲良くやろうよ、ミホ!





 人間とは恐ろしいもので、こんな不可思議な現象にも次第に慣れていってしまうのだ。

 一週間も経てば、私はマホの存在を受け入れてしまっていた。特に害らしいものもなく、むしろちょっと楽しかったものだから。

 マホはスマホのレンズの向くところは見えているらしく、何かとアプリで相談できた。


  >このアイシャドウ、どっちの色がいいと思う?


<ミホって前、画像診断でブルベ夏じゃなかったっけ。じゃあ2番じゃないかな!


  >そうだったわ。助かるー。


と、こんな風に過去のデータを参照しつつコスメをおすすめしてくれる。このご時世、友達と買い物にも行けないし、正直こういう女子同士の交流に飢えていた気がする。コロナ前はこういう女子デートをたくさんしていたのだ、そういえば。

 でもマホはスマホなので、それだけじゃない。


「ねぇマホちゃん、私の好きそうな新しい曲ない?」


 アプリを経由せずに直接尋ねると、動画サイトから再生してくれたりする。全然知らないアーティストの好みの曲を手軽に知ることができてとても便利だ。


  >マホちゃんがいてくれて本当よかった。おかげで自粛生活も楽しいよ。


<よかったー!

<あたしもミホのスマホで楽しいよ!!

<でも最初めちゃくちゃ警戒されてたよね……


  >あれはその、仕方ないじゃんふつうに怖いよ


<わかってるって。思い出しただけ!



 なんだかんだ、私達の関係は良好だった。マホとはずっと一緒だと思っていた。機種変更とかしたらどうなるのかは不安だったけど、きっとなるようにしかならない。

 そんなある日、私は久しぶりに出社しなければならず、朝から電車に乗っていた。普段はリモートワークなので、通勤電車の感覚をすっかり忘れていた。コロナ前よりも多少人数は減っていはいるけれど、ソーシャルディスタンスなんて不可能だ。そしてそうなると、たまに現れるクソ野郎がいるのだった。

 鞄を持つふりをして、触られている。電車が揺れても、お尻から手の甲がぴったり離れない。避ける場所はない。


  >まほ どうしよ ちかんだ


 私は唇を噛み締めながら、震える手で入力した。他に何もできなかった。喉がきゅっと閉まって声が出ない。不用意に動けない。マホに伝えてどうなる、とも思ったけれど、そのとき助けを求められるのがマホしかいなかった。

 すると突然、マホからけたたましい音が鳴り響いた。

 サイレンのような、警告のようなビープ音。後ろにいた痴漢男は何を思ったか私の手からスマホをはたき落とした。あっと思ったときにはマホが電車の床に転がって、ぐしゃりと恐ろしい音がした。男がマホの画面を踏み潰していた。

 私はカッと体が熱くなって、クソ野郎の腕をひっつかんで叫んだ。


「このひと痴漢です!!!」






 私のスマホを踏み潰したところは多くの人に目撃されていて、周りのまともな男の人が、痴漢野郎を捕まえておいてくれた。そのおかげか、痴漢の証言をしてくれる人も見つかり、次の駅で鉄道警察に引き渡すことができた。

 マホは、いなくなってしまった。

 踏み潰されたてしまったマホは電源がつかず、クラウドにバックアップしていたデータは新しいスマホに復元できたのだけれど、そこにマホはいなかった。お礼も言えていないのに。

 だから私は、新しいスマホも家では「マホちゃん」と呼んでいる。また突然、マホが現れるかもしれないから。今度はもう、痴漢なんかに負けない。筋トレアプリを起動しながら、私はマホを待っている。

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