上月くるを




 とある高原都市の飲み屋街の一画に、焼き魚のけむりが立ちこめています。


「しょうがねえなあ、マスター。また焦がしちゃったのかよ」冷たい外気を連れて入って来た客の文句に「おあいにくさま、うちは酒場だ。旨い酒は売るが、肴なんぞは売らねえんだよ」カウンターのなかの、浅黒い肌の男前は意にも介しません。


 壁の品書きを見て、うっかり注文した客はさぞかし鼻白んでいるかと思いきや、いやいや、いやいや、むしろそんな会話を心底から愉しんでいるふうでして……。


「この店を持たせているのはマスターの人柄かって? 冗談じゃねえぜ、おれたち常連のさ、ここんところで持ってんだよ」わざとらしく毒づいてみせる客たちは、マスターが好きでたまらないというように赤い頬をテラテラさせて笑っています。

 

 マスターは通称「ケンジ」と呼ばれていますが、その前身をだれも知りません。


 九州は博多あたりから流れて来た遊び人だと言う人もいれば、有名なロック歌手のバックバンドだったという人もあり、いや、ある事件を起こして東北から逃げて来たんだとまことしやかにうわさする人もいましたが、一度、しつこく絡んだ一見の客が真冬の路上に放り出されてから、だれもそのことを口にしなくなりました。


 ケンジの店の売りは日本列島各地の、それも逸品中の逸品の酒ばかり揃えていることで、知る人ぞ知るつうの店として遠くから訪ねて来る客も少なくありません。


 酒場の店主なのに自身は一滴も酒を飲まず、極めて生真面目な性格で通っているケンジですが、唯一の難は前触れもなくとつぜん休店することがたまにあること。ですが、数日もすると、なにもなかったように再開するので、客も慣れています。

 


      🍃


 

 2020年8月半ばの週末の夜、東京・新宿の街頭で、長髪を無造作に束ねた男が、見るからに大切に遣い込んだ感じのアコスティックギターを弾いていました。


 高い鼻筋、南国風の浅黒い肌、瞑想者のように思慮深げな横顔。

 歳の頃は30歳前後でしょうか、惚れぼれするような男前です。


 長い指先が巧みに奏でるのは90年代のポップスを中心とした懐かしい楽曲で、イルミネーションに揺らぎ、滲んだ音は、喧噪の巷にホロホロと散ってゆきます。


 たいていは行き過ぎますが、なかには立ち止まって耳を傾けてくれる人も……。

 パラッと来た雨が大粒になったので、数人の観客もいっせいに立ち去りました。


 目の前のスクランブル信号を、大きな袋を提げた若い娘さんが歩いて来ました。

 すぐ横をフルヘルメットのオートバイがスピードを上げてすり抜けて行きます。

 娘さんが道路に倒れると同時に、袋から飛び出た本が、ばっと散らばりました。

 パラパラと風にはためく頁は、いましも羽ばたこうとする鳩の群れのようです。


 一部始終を見ていたギター弾きが駆け寄ると『月の舟』というタイトルの詩集が何十冊も泥に……。起き上がった娘さんは、それをていねいに拾い集めています。

 束髪のギター弾きは、跳ね飛ばされた赤い傘を拾って娘さんに差しかけました。


 頭ひとつ分差のある背を並べたふたりは、弾き語りの場所へ移動して行きます。

 

      *

 

 初めて会ったような気がしないふたりは、傘を並べていろいろな話をしました。


 娘さんは、中学時代の出来事を発端にして、人前へ出られなくなったそうです。

 出来事といってもとくべつな事件があったわけではなく、もともと一般の人より敏感だった五感が思春期に入るといっそう鋭くなり、大雑把な級友が無意識に放つ暴力的な言動が、ガラスの破片のように感じられるようになったそうで……。


 繊細に過ぎるパーソナルに戸惑う級友たちの違和感に拍車をかけたのは、2年生の国語の授業のとき、いきなり発表された一編の詩でした。宿題で書いて来た作品が中学生とは思えないほど優れていると絶賛した教師の厚意が仇になったのです。


 わざとらしい足音、机や椅子を叩く、蹴る、交わされる視線、ひとりの給食……堪えられず学校へ行けなくなった少女の拠り所は、心の内を紡ぐ詩のノートだけ。


 団体職員の父、看護師の母、新聞記者の兄……家族はそれぞれ生き甲斐を持っているのに、自分だけなにもないことが、娘さんの一番の負担になっていきました。


 それを見兼ねたのが祖父の起こした下町の印刷会社の経営を継いでいた叔母で、自分と同様に感じやすく文学好きの姪から、ちょうど蚕の糸のように紡ぎ出された絹のような詩を一編一編ていねいに編んで、小さな詩集を出版してくれたのです。


 命そのものである詩集を携えて新宿の街に立つには相当な勇気が必要でしたが、真摯な叔母の愛と、時間という見えない力が彼女を押してくれたのだそうです。

 

 娘さんの詩はどれもギター弾きの心奥に届くものばかりでしたので、思いきって「コロナウィルスが収束したら、詩の弾き語りライブをしないか」とスマホの番号を書いた紙片を渡したのでしたが、娘さんの連絡先は聞かずじまいだったのです。


 

      ☆彡


 

 とつぜんポケットが振動したので、店仕舞いをしていたケンジは飛び上がりそうになりました。変わり者で通っているケンジは、ラインなどいまどきのツールに縁遠いので、たしかめてみるまでもなく、あの娘さんからの着信に決まっています。


 急に身のこなしが軽くなったケンジは、清潔に拭き上げた厨房をさらにきれいに拭いたり、キュッキュッと小気味のいい音をさせてグラスの曇りを磨いたり……。


 

   ❀❀❀❀


 

 孤独なギターリスト&孤独な詩人。

 ふたりの恋はいま始まったばかり。


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