デッド・ロック
入ヶ岳愁
デッド・ロック
一人の男が廃ビルの破れたドアをくぐって、屋上へと歩み出てきた。コートを着るには暑すぎる、かといって上着も羽織らずいるには吹く風の冷たい、五月の夕暮れのことだ。男は黒いブルゾンを着て、同じ色のビジネスバッグを手に提げている。
廃ビルの屋上は手入れのされぬままにコンクリートが罅割れ、その隙間から染み出るように背の低い草が生えてきている。男はその雑草を踏みしめ、割れて段になった地面を乗り越えて、屋上の南の端までたどり着いた。俯くと、遥か眼下に車通りが見えてしまうほどの際の際。
男はそこで、懐からタバコを取り出して吸った。晴れた空とタバコが出す煙を見つめながら、ゆっくりと吸った。煙は風に流されてすぐ散り散りになる。吸い終わった殻を男は屋上から投げ捨てようとしたが、結局そうはせず強引にブルゾンのポケットへ入れた。
男は足元に置いていたバッグからスマートフォンを取り出した。三年ほど型落ちの、ピンクゴールドの色をしたスマホだった。スピーカーを耳に近づけると、聴き慣れた軽やかな声が男の鼓膜を震わせた。
「もしもし。友貴」
「……もしもし。久しぶり、由衣」
「久しぶりだねえ。今外にいるんだ。そっちからも見えるかな、この空。真っ赤な夕焼け」
男が顔を上げると、西の空、ビル街の凸凹とした地平線に真っ赤な夕陽が沈みかかっていた。
「ああ、見えてるよ。今年もよく晴れた」
「眩しいよね。私、眩しいのは嫌いなんだ。だからあの太陽が見えなくなるまで、このまま通話してていいかな」
「付き合うさ。俺は由衣の恋人なんだから」
男は口の端だけをわずかに持ち上げた。
「ふふ、なんだか嬉しい。こうしてると、隣に友貴が立ってるみたいで」
「立ってるのさ」
「二人で手を繋いでるみたい」
「繋いでる。ずっと繋がってるんだ、だから、」
「ねえ見て、そこから見えるかな。沈んだ太陽の上の方、星が光ってる」
「……ここからはよく見えないな。大きい星か」
「一番星だよ。あれは……」
「金星だろう。夕陽の後を追って沈む、宵の明星」
「ああ、金星か。ぼんやりしてるけど、この時間でも見えるものなんだねえ」
「そうか。俺からは見えない」
「私、今までちゃんと空とか見上げてなかったのかもね」
「見えないんだ」
「友貴、覚えてる? 昔、サークルの皆で長野に合宿行った時さ。天体観測だーって夜中にぞろぞろ山登ったくせに、途中で急に曇ってきて、最後には雨まで降り出しちゃって」
「覚えてるよ。忘れるわけない」
「散々だったよね。でも楽しかった」
「俺もだよ。俺も楽しかった」
「友貴と二人で山頂に残って、星一つ無い夜空を」
「曇天観測」
「曇天観測。笑っちゃうよね、全然ロマンチックじゃないし。……でも」
「なあ、由衣」
「友貴と手を繋いで見上げてたらさ。暗い雲のうねりとか、網の目みたいな影の形とか、落ちてくる雨粒がさ。全部、宝石みたいにきれいなの」
「なあ由衣、聞いてくれ」
「そっか、金星か。あの光も、友貴と一緒に見られたらもっと綺麗に見えたのかな。痛いくらい赤い夕陽も、好きになれたのかな」
「聞いてくれ、いや違う。俺はもっと由衣の話を聞かせてほしかったんだ」
「あの頃とは違う。分かってるよ、それって嬉しいことでさ。友貴も私も就職して、友貴はどんどん偉くなってもっと遠くの、高いところまで飛んで行っちゃったんだから。凄いよね、友貴、次はいつ日本に帰ってくるの」
「二年前だよ。もう赴任はやめだ。俺には由衣さえいれば良かった」
「私はね。友貴がいなくなってから、何にも見えなくなっちゃった。雲も影も太陽も雨も、星も。一人じゃ何もきれいに見えない。ただ痛いだけ」
「許してくれ、由衣。気付いてやれなかった。でも相談してほしかった。俺には君の隣にいる資格が無かったのか? 由衣、この廃ビルも来月には取り壊される。今年が最後なんだ。教えてくれ」
「今日も曇り空なら良かったのに。せめて、きれいな思い出の中で飛びたかった」
「どうして、電話をかけてくれなかったんだ。なんで」
「スマホは屋上に残しておきます。この録音を残すのは、私の最後のわがまま」
「今年が最後なんだ。由衣、今年が、最後なんだよ」
「わがままついでにもう一言だけ」
「やめてくれ。その続きを言うな。せめて、」
「私の後、追わないでね」
「由衣。由衣、なら俺はどこに行けばいい。俺だってもう何も見えないんだ、あの日からずっと。どうすれば君と、あの星を……」
「友貴。太陽、もう見えないや」
そして声は初めから何も無かったかのように、ふつりと途切れた。あとには沈みきった夕陽の上に輝く宵の明星と、廃ビルの屋上にひとり崩れ落ち、涙する男の影が残るばかりだった。
デッド・ロック 入ヶ岳愁 @Mt_Iriga
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