バレンタインデー・シンドローム
今福シノ
短編
捜査一課に所属する
「私、別に道交法違反してないんだけど」
助手席から外の景色を眺めながらぼやく。丁度東京タワーが見えたところだった。
「そんなつれないこと言うなよー。同期のよしみだろ?」
軽い感じで返してくるのは、交通部の
「そういえば、先週バレンタインだったじゃん? 朱里ちゃんは誰かにチョコあげたりしたの?」
「日浦には関係ないでしょ。あと軽々しく名前で呼ばないで」
「俺、ぜんぜんもらえなくて失意のどん底なんだけど、義理でもいいからどこかにチョコを恵んでくれる女の子はいないかなー」
「義理でもアンタにあげるくらいなら、気に入らない上司に渡した方がまだマシよ」
「うわ、ひでえ」
ぺち、と日浦が自分の額をたたくと同時、車は赤信号で停止した。
「それで? どうして私は貴重な休みの日にアンタなんかに呼び出されてるのかしら?」
覆面パトカーでドライブデートにでも誘っているつもりなんだろうか。もし納得のいく説明がないようなら、
「そんなに怒るなって。電話でも言っただろ? 交通事故の被害者の家族に話を聞きに行くのに、一緒についてきてほしいって」
「日浦、私がどこの課にいるかわかってるわよね?」
捜査一課が交通事故を担当していないことなんて、刑事ドラマを見ていれば小学生ですら知っている。
「まあまあ、最後まで聞けって」
日浦は続ける。
「死亡したのは35歳の男性。一週間前に海岸沿いの道路を車で走行中、標識柱に正面から衝突。けっこうスピード出してたんだろうなあ、フロントは見事なまでにぺちゃんこだったよ」
「それだけだと、ただの自損事故に聞こえるわね。居眠りしていたか、ハンドル操作を誤ったかはわからないけど」
「ま、俺もそうかなーとは思うんだけどさ」
そこまで言ってから、日浦は「ん」とダッシュボードを指し示す。彼の目線に促されるまま開くと、A4サイズの紙ファイルがあった。
「これって……」
その名前に、私は見覚えがあった。
2年前に担当していたDV事件、その加害者だった。
「だから私を呼んだってこと?」
「そゆこと」
事件の内容を記憶からたぐり寄せる。たしか、妻と娘に暴力をふるっていたとして、暴行の容疑で逮捕された。それから起訴されて実刑判決が出て、何か月か服役していたはず。
「何もなければ俺だってただの自損事故扱いにするところだけど、朱里ちゃんが担当してた事件の被疑者がそんな名前だったことを思い出してさ」
信号が青に変わる。慣性の法則に逆らい、ゆっくりと車は動き出す。
「万が一ってこともあるかもって思ったわけよ」
「なるほど、ね」
万が一――それはつまり、
佐伯弘道が何かの事件に巻き込まれているかもしれないこと。
あるいは、誰かに
***
佐伯の家は足立区にあるマンション、その6階だった。
「ごめんねー、急にお邪魔して」
日浦が申し訳なさそうに笑う先には、制服姿の女の子。
佐伯弘道の娘、
「お母さんは、お出かけかな?」
「……仕事、です……」
佳織が小さくうなずく。記憶が正しければ、今年で高校2年生になる。
「何度も同じことを訊いちゃうことになるかもだけど、事故のことをきちんと調べないといけなくてさ」
柔らかい口調で話す日浦。こういうのはひとつの才能だな、と思った。
「最近の弘道さん、お父さんの話を聞かせてもらえないかな」
「はい……」
うつむきがちに答える。セミロングの黒髪がはらり、と耳の前で揺れた。
「お父さん、帰ってきてから……すごく優しかったです」
帰ってきてから、それは刑期を終えてこの家に戻ってきてから、と言う意味だろう。
「心を入れ替えるから……
言葉だけならば、未来に向かう希望に満ちている。だけど彼女の口から出てくるそのひとつひとつは、悲痛に包まれていた。
「それなのに……」
そこまで言ったところで、彼女の肩が震えはじめる。
「事故に遭って……いなくなっちゃうなんて……」
「つい先週だって、バレンタインにお菓子を……ケーキをつくってあげたのに……おいしいって言ってもらえたのに……」
その言葉が示すとおり、部屋の中にはかすかに甘い香りが漂っていた。
同時に、どこか苦味も感じる。
「ごめんね。つらいこと思い出させちゃったね」
佳織の様子にいてもたってもいられず、私は声をかける。
その瞬間、わずかに目が合う。
「……いえ」
喪失感。
その瞳には、その感情しかないように思えた。
***
「結局収穫はなしかー」
帰りの車の中、日浦はため息をついた。
「事故について、他に情報はないの?」
「そうだなー」
ハンドル操作を右手に
「損傷が激しかったけど、遺体からはアルコールも、それこそ毒物も検出されてないし」
死因も、衝突した際のショックによるものだろう、とのことだった。
「やっぱりただの事故ってことかー。俺の考えすぎってことかな?」
「そう、ね……」
「にしても悪いねー朱里ちゃん。非番なのに連れまわして」
「だから名前で呼ぶな」
「お詫びってわけでもないけど、晩飯でも行く?」
「さっきも言ったでしょ。アンタと行くくらいなら嫌いな上司と行くわよ」
「手厳しいなー。それじゃあ大崎駅のとこでおろそうか? 家近いでしょ」
「……いや、いい」
言って、首を横に振る。
「このまま警視庁に戻ってくれていいわよ」
「え、いいの?」
「ええ」
職場に戻る理由はひとつ。
私の頭に浮かんだ可能性。それが、謎を溶かすことができるのかどうかを、確かめるために。
***
数日後、吉野は佐伯弘道の事故現場に来ていた。
事故現場とは言ったものの、今やその痕跡はほとんどない。まるで事故なんてなかったかのように、車たちはスピードを上げて通り抜けていく。
「あの……」
海から吹き付ける風に髪を押さえていると、背後から声がした。どこか影のある表情にセミロングの黒髪。佐伯佳織だ。
「ごめんね、わざわざ来てもらって」
「いえ……」
「あなたと話したいことがあったから」
「話したいこと……ですか?」
訊いてきた直後、
風が止まった。
この瞬間を逃すまいと、私は息を吸う。
そして、
「あなたが、佐伯弘道を殺したのよね?」
「え……」
風だけでなく、時間さえも止まってしまったみたいに、眼前の女の子は固まった。
「お父さん、チョコレートアレルギーだったんでしょ?」
「……」
「それを知っていたあなたは、バレンタインにつくったケーキにこっそりと、アレルギー症状を引き起こすカカオを入れたのよね?」
アレルギーはその摂取量などによっては、ショック症状を引き起こす。チョコレートアレルギーとて、その例外ではない。数は少ないが、死亡例だって存在する。
だけど、遺体からチョコレートに含まれる成分が検出されたところで、疑問に思う人はまずいない。
その人がチョコレートアレルギーだと知ってでもいない限りは。
「……そっか」
ふ、と彼女は息を吐く。
「刑事さん、
それからぽつ、ぽつと話し始めた。
「私たち、愛し合っていたんです」
「弘道さんは愛の証として、私に跡をつけてくれました。……消えない愛の証を」
佳織は愛おしそうな表情で、スカートに隠れた太ももをさする。
私は知っている。その箇所には、暴行を加えられた跡があることを。
「……でも、帰ってきたとき、あの人は言ったんです……」
言葉を切ると同時、瞳から光が消える。
「普通の親子に戻ろう、って」
日浦と話を聞きに行った時に見た、あの顔だ。
「私には……耐えられませんでした」
あの喪失感に満ちた表情。
それは父親を喪ったことに対してではなく。
かつて愛した人が変わってしまい、もうそこにはいないことに対して、だったのだ。
「ねえ刑事さん」
「ん?」
「私を……捕まえるんですか?」
問いかけてくる。だけどそれは、まるで他人のことを言っているみたいに、どうでもいいといった風だった。
「……いえ」
答えて、小さく首を振る。
「私はただ、あなたと話がしたかっただけ」
きっと、佐伯弘道の死はただの交通事故として処理されるだろう。
「さようなら」
そう言って、私は彼女に背中を向ける。
父親を殺したのが娘だというこの告白でさえ、本当か嘘かを断じることは最早できない。
それどころか、どこにも真実など、ありはしないのかもしれない。
仮に真実があったとしても。
一度溶けきってしまえば――愛する人のために溶かしたチョコレートの中に混ざってしまえば。
誰ひとりとして、わからないのだから。
バレンタインデー・シンドローム 今福シノ @Shinoimafuku
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