お山さん

きざしよしと

お山さん

 ―――満月の日はお山さんに入ったらいかんよ。


 それは来夢ライムがまだ小さな頃、それこそ手のひらが紅葉みたいだった頃から、祖母がよく言っていた事だった。普段は笑みを絶やさない小さくて可愛らしい祖母が、『お山さん』の話をする時だけは神妙な雰囲気になる。


 『お山さん』というのは、来夢の父方の祖父母が住む家の裏山だ。代々写楽しゃらく家が管理を任されており、祖父の次は父、父の次は来夢が引き継ぐ土地だ。山頂には小さな社があって、地区のちょっとした祭の会場にもなったりする。

 そんな風に大人にとってはやんごとない大事な場所であるのだが、幼い来夢にとってはなんということはない、生まれたときから側にある自慢の秘密基地のようなものだった。

 祖父母の家に遊びに来る度、転がるように山に向かう来夢を見て、いつだって祖母は神妙に繰り返した。

「満月の日はお山さんに入ったらいかんよ」

 窘めるような、不安そう声に、来夢はいつも間延びした返事を返す。祖母の小言より、目の前の冒険の方が気になっていた。

 とはいえ言いつけを破るほど祖母の言葉を軽視しているわけではない。来夢は今年で小学校の5年生になるが、捻くれたところのないとても素直な子どもで、優しい祖母の事が大好きだった。この家のカレンダーには月の満ち欠けが必ず載っていたので、山に行く前は欠かさず今日が満月でないかを確認する様にしていた。


 けれどその日、来夢はむしゃくしゃしていた。

 家族で旅行をする約束をしていたのだが、妹が急に熱を出したために中止になったのだ。移るといけないから、と夏休みであることもあって祖父母の家に1人で預けられた来夢はわかりやすく不機嫌だった。

 来夢の妹は体があまり強くない。だから、両親は元気小僧の来夢より妹を優先しがちだ。

 寂しくないわけではないが、その事は別にいいのだ。妹だって好きで病気しているわけじゃあないんだし。1人遊びだって慣れている。

 けど、先月は海に連れて行ってくれる約束が駄目になったし、夏休み前の授業参観も来てくれなかった。期待と落胆が交互に来るのはとても疲れるのだ。

 お兄ちゃんだろうと祖父に言われるのが嫌で、来夢はふらふらと外へ出た。買ったばかりの麦わら帽子をかぶって、強い日差しの降り注ぐ中を歩き出す。

 ―——あ、カレンダー見てない。

 気づいたのは家を出て100メートル程のところだったが、月の満ち欠けを確認するためだけに戻るのは馬鹿らしい気がした。

 ―——暗くなる前に戻れば大丈夫だろ。

 そんな風に1人で納得しながらサクサクと慣れ親しんだ山に踏み入った。

 この時期の裏山は若い竹の葉が生い茂っていて、日陰が多くて明るい。きらきらとした木漏れ日が細かいスポットライトみたいで綺麗だし、中腹辺りにある来夢の膝くらいの高さの小さな滝は冷たく澄んでいて大好きだった。

 1度遊び始めれば機嫌が直るのも早いもので、蛙の下あごをのぞき込んだり、藤の花のトンネルをくぐったり、珍しい色の蝶をおいかけたりとしているうちに、あっという間に真上にあった太陽は沈みかけていた。

「あっ、やべ」

 遠くで6時を知らせる鐘がなる。錆びたスピーカーの奏でるもの寂しい”ななつのこ”。烏が鳴いたから家に帰らなくっちゃいけない。

 やっとこさ捕まえた大きな黒い蝶を空へと放し、慌てて山道を駆け下りた。


 ―——あれ?

 人が居る、来夢は怪訝そうに首を傾げた。

 駆け足で下る山道の先、見慣れない人影があるのが見えたのだ。

 逆光で顔の造形まではわからないが、すごく足が長くてスーツを着ている。古めかしい形のハットを被った男だった。

 来夢は思わず足を止めた。人見知りをする方ではなかったが、この山が祖父母の持ち物である事くらいは理解している。近所の人間は無断でこの山に入ってきたりはしないから、このあたりの人間は殆ど顔見知りだ。彼は無断で人の土地に押し入る侵入者でないか? という予感が働いたのだ。

 男は切り倒された竹の根元をのぞき込んでいた。針金のような長躯を折り曲げて、地面の上に生え残った竹の空洞を一心不乱にのぞき込んでいる。

「おーい」

 男が声を出した。あまりの声量に肩が跳ねる。

「おーい、おいおいおいおいおぉ~い」

 彼は竹の空洞に向かって呼びかけていた。誰もいないはずの底に呼びかける様は男の様相もあって、一層異形めいて見える。

 ―——おばけ、なんじゃないか。

 怖ろしくなった来夢は近くにあった岩陰に隠れた。男はしばらく誰にともなく呼びかけていたが、やがてぴたりと止んで聞こえなくなる。

 おそるおそる岩陰から顔を出して安堵した。もう男の姿はない。

 早くここから出て祖母に知らせなければ、そう思って駆け出した時、ふと、なんとなく、男が何に呼びかけていたのかが気になった。

 止しておけよ、そんな風に警鐘を鳴らす自分がいるが、結局好奇心には抗えない。来夢は男がのぞき込んでいた竹の根元の前で足を止めた。

 通行の妨げになるからと根本から切られてしまった大きな竹は、地面に突き刺さる筒のようになっても存在感がある。

 ―——ただの竹に見えるけど……。

「あっ」

 中を覗いて思わず声が出た。

 そこには自分がいた。竹を一心不乱にのぞき込む自分を来夢は覗き込んでいた。摩訶不思議な現象にどきどきしたが、同時にある疑問が頭をもたげる。

 あの男は竹を除く自分自身に呼びかけていたのだろうか。そうだとしたら、かなり間の抜けた話になる。むしろ、彼が見ていたのは……。

 ぞわ、と嫌な予感が背筋を駆け抜けた。じわじわと嫌な予感に侵食されていく脳がガンガンと揺れ、下腹のあたりがきゅっとしめつけられるような気分になる。

 音を立てないようにして、ゆっくり、ゆっくりと振り返った。

 先ほどまで来夢のいた岩陰の傍に男が立っている。今度は逆光じゃないから、その顔立ちが良く見えた。

 男の容貌は一言で表すと異様だった。真っ白な瞼も真っ赤な唇も、太い麻紐で縫い留められているのだ。縫われた口でどうやった声を出していたのだろう。縫われた目で何を見ようとしていたのだろう。

「おーい」

 男が呼ぶ。

 彼は最初から、来夢を呼んでいたのだ。


 それからの記憶はかなり曖昧である。気が付けば来夢は祖父母の家の布団で両親に手を握られて眠っていた。

 目を覚ました来夢を見て両親は泣いて喜んだが、来夢は自分が死にかけたのだと聞いてもピンとこない。けれど冷えピタをつけたまま泣きじゃくる赤い顔の妹を見て、自分はそんなに危ない状況だったのかと心の内で納得した。

 後から聞いた話だが、あの山には昔、銀が取れるという噂が流れたことがある。根も葉もない噂だったらしく、無遠慮な外の人間に山は荒らされるばかりだったという。

 そんな中、ついに大規模な事故が起きた。地盤が緩んだことによる土砂崩れで、山にいた多くの人間が犠牲になったのだ。

 以降、山頂には彼らの魂を慰めるための社が建てられたという。

「満月の日は事故の起きた日じゃけえ『お山さん』が起きちまう。夕方だから良がった。夜だったら助からんかったかもしれん」

「なー、ばあちゃん」

 来夢は布団を鼻まで被りながら尋ねた。

「普通、銀をとりにくるなら動きやすい恰好をするよな?」

「そうだねぇ。あの時来てた連中も、みぃんな作業着に軍手つけてたなぁ」

「俺が見た『お山さん』スーツの男の人だったよ」

 は、と祖母が息を詰めるのが聞こえて思わず息を止めた。小さな目が零れそうな程大きく見開かれて、布団に包まれた来夢をのぞき込んでいる。

「来夢、それ、誰にも言うとらんね?」

 冷たい声が降って来て、来夢はこくこくと素早く頷いた。鬼気迫る祖母の様相は、山で会った男を彷彿とさせて恐ろしかった。

「内緒にしとっておくれな。誰にも、何にも、聞かんでな」

 そう言って手を合わせた祖母の言葉どおり、来夢は『お山さん』の姿を誰にも話さなかった。めっきり山に登らなくなった来夢を心配してか、面白がってか、同級生などはしきりに聞きたがったが、仲の良い友達に聞かれても、祖母が裏山で首を括って死んでも、村の人間の集まる祖母の通夜で老人たちが「どうして今更」などと囁き合っていても、誰にも、何も、尋ねなかった。

 瞼も口も塞がれた『お山さん』。

 きっと山の中で死んだだろうに、上等なスーツを着ていた『お山さん』。

 彼が何者で、祖母が何をしたかだなんて、知りたくもなかった。

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