知ってしまった男

庵字

知ってしまった男

 男は片手を挙げた。

 カウベルを鳴らして喫茶店に入ってきた男の友人も、軽く手を挙げてそれに応えると、男の座る奥まったボックス席に歩を進める。

 男の対面に座った友人は、ウエイトレスにコーヒーを注文してから、


「で、何だ? 話って」


 男に、自分をここへ呼び出した理由を尋ねた。


「……あのな、真剣に聞いてほしいんだが」と男は、テーブルに伏せていた視線を上げると、「……誰かに見られているような気がするんだ」

「見られてるだって?」

「そうなんだ」

「いつ?」

「……ずっと」

「ずっと?」


 男は、こくりと頷く。友人は、――何を馬鹿なことを、と一蹴しようとしたのだが、男の眼差しの中に本気の色を見て取ると、


「ずっと、ってことは……今もか?」


 この問いかけにも、男は黙って頷いた。思わず友人は喫茶店の窓を覗くが、歩道を行き交う雑多な人並みと、車道を走る車の群れが見渡せるだけだった。


「無駄なんだ」対して男のほうは、窓外には目もくれないまま、「こちらから見る……いや、見返すことは出来ないんだ」

「それって……」と男に視線を戻した友人は、「望遠スコープか何かで、遠くから監視されてるってことか?」


 再び窓に目をやった友人は、今度は歩道と車道のずっと向こう、はるかにそびえるビル群を見やる。が、男は、今度は首を空しそうに横に振ると、


「そういうことじゃない」

「じゃあ、どういう――」


 思わず声を荒げそうになった友人だったが、注文したコーヒーが運ばれてきたことで口を閉じた。ごゆっくり、と言葉を残して一礼したウエイトレスが遠ざかっていくと、


「どういうことなんだ? いったい誰に見られてるっていうんだ? お前、それにいつ気がついたんだ?」


 大声にこそならなかったが、明らかに苛立ちを含ませた口調で男に質問を浴びせた。


「……順番に答える」男は、友人の剣幕にも一切怯む様子も見せずに、「どういうことなのか、僕にも分からない。見ているのが誰かも分からない。いつ気がついたかも分からないんだ……。ふと気がついたら、そう思って――いや、確信していたっていうか……」


 まったく要領を得ない男の回答を聞き、友人はコーヒーをひと口喉に流し込むと、


「俺のことをからかってるのか?」

「――違う! そうじゃない」男はテーブルに肘を突き、友人に顔を近づけて、「“見られてる”というのとは、正直、違うのかもしれないが……」

「……じゃあ、どういうんだ?」


 席を立とうとした友人だったが、男の視線と口調に尋常ならざる迫力を感じ取り、浮かしかけた腰を戻した。男は、ごくりと唾を飲み込むと、


「“そいつ”は……」

「そいつ? それって、お前を見ているやつってことか?」

「ああ」

「で、そいつが、どうしたっていうんだ?」

「“そいつ”が見ているのは、僕だけじゃない」

「お前だけじゃない? じゃあ、俺も、そいつに見られてるっていうのか?」

「たぶん……いや、きっと」


 それを聞くと、思わず友人は店内ぐるりを見回した。が、


「だから、無駄なんだよ」男は諦めきった表情で、「さっきも言ったが、こちらから見ることは出来ない。無理なんだ」


 男を見る友人の目に、戸惑いと憐憫の情が浮かんだ。その瞳を見返して、男は、


「僕の頭がおかしくなったと思ってるんだな。ある意味、それは正解なのかもしれない。そうだ、僕は、おかしくなってしまったんだよ。僕は、知ってはいけないことを知ってしまったんだ……」


 頭を抱えると男は、がたがたと震えだした。


「お、おい、大丈夫か?」


 友人がその肩に手を置くと、


「なあ」男は声まで震わせて、「さっきから、揺れてないか?」

「揺れる? 地震でも起きたっていうのか?」


 友人は天井から下がる照明機器を見つめたが、瀟洒なランプ形のそれは微動だにしていなかった。


「違うんだ……」男は、さらに体を震えさせ、「揺れているのは、この世界全体なんだ。それも、“そいつ”がやっていることなんだ」

「はぁ? お前、“そいつ”は見ているだけじゃなくて、地震を起こす能力まで持っているとでもいうのか?」

「だから、違うんだって!」男は友人を見上げる。その目は赤く充血していた。「この“揺れ”を感じているのは、きっと僕だけなんだ。なぜかというと、“気づいてしまった”から」

「分かるように話せ――!」

「ああ……!」男は、がくりとテーブルに突っ伏すと、「僕は……死ぬ」

「なに?」

「殺される!“そいつ”に!」

「おい、しっかりしろ!」友人が男の肩を揺すり、「お前が死ぬって? どうしてそんなことが分かる?」

「分からない!」がばりと顔を上げた男は、「分からないけど、分かる! 僕が死ぬ理由は分からないけれど、死ぬことは分かる! というのも、僕が知ってしまったから……、を!」

「だから! 何を知ったっていうんだ?」

「次に“そいつ”が、この世界を“大きく揺らした”とき、僕は死ぬ!」

「おい!」


 友人の呼びかけにも、男はもう応えなくなった。そして……




































 男は死んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

知ってしまった男 庵字 @jjmac

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ