ぷわわわー
白里りこ
明後日来ない子
いつも通り私が、ロサンゼルスの公園で、トランペットの基礎練をしていた時だった。
池の中心からススーッと黒い人影が浮き上がってきて、きょろきょろ辺りを見回したかと思うと、水面を滑るようにしてこちらへまっすぐやってきた。
私は「ぷぎゃ」と変な音を出して音出しをやめた。その時にはもうその人影は目前に迫ってきていた。
「ねえ」
子供くらいの背丈のそいつが私に話しかけた時、一切の音が失われた。空は暗黒に包まれ、時は凍りつき、周囲の全てが動きを止めてモノクロに染まった。
動くものといえば私とその影だけだった。私はトランペットを取り落としそうになるのを辛うじてこらえると、後ずさりをした。ベンチにドサッと座り込み、慄いてその顔を見上げる。
黒いフードの中には顔がなく、そこにはぽっかりとした闇があった。手も足も闇がこごったような何かでできていて、正体が見えない。
「ねえ、お姉さん」
口もないのにその子どもは言葉を発した。あどけない声だった。
「な……なに」
「アメージング・グレイスを吹いて」
「へ……?」
「アメージング・グレイスを吹いて」
「あの、あのあのあの」
「アメージング・グレイスを吹いて」
私が動揺のあまり日本語を口走っても、その子は一向に気にした様子もなく、執拗に要求を続ける。
「わ、分かりました……」
私は震える手で楽器を構え直し、口に当てた。
息がうまく吹き込めなくて、やっぱり変な音が鳴った。
ぷわわー、ぷわわわー、ぷーわー、ぷーわー……。
吹き終わると、その子は満足げに頷いて、拍手をした。
「いいね。世界が平和なうちに、この曲を聴きたかったの」
「平和……?」
「私はエイヴァ・ブラウン。ついこのまえ幽霊になったんだけど」
その子は急にぺらぺらと喋り出した。
「明後日私はおばあちゃんに会いにロサンゼルスに来るはずだったの。今も私はボストンで生きてて、呑気にトランペットを吹いてるはずだよ。でもちょうど明後日に死んでしまうから、ここに来られなくなってしまって……」
「ちょっ、ちょっと待って」
私は話を遮った。
「何を言っているか分からない。あなたはもう死んでいるの? それともまだ死んでいないの?」
「私は明後日に死んだ幽霊。死んだ時に時と空間を少し行き来できるようになったから、遡ってここへ来たの」
「はい……?」
「おばあちゃんに会いに行ってみたのだけど、おばあちゃんは私のこと見えなかったみたい。何でお姉さんには見えるのかな? 同じトランペット吹きだから? でもそしたら、同じ血筋の方が繋がりが強そうなのにねー」
「オーケー、とにかく」
私はいくぶん落ち着きを取り戻して言った。
「このわけのわからないモノクロームの空間をどうにかしてくれる? 頭が変になりそうなの」
「いいけど、その代わりに」
「代わりに……?」
「お姉さんはこれから、世界平和のためを思ってトランペットを吹くって約束して」
妙なことを命令されてしまった。
「な、何で……?」
「世界ではまた戦争が起こるから。私たちが死んだせいで」
「あなた、たち?」
「ね、いいでしょ? 思うだけなんだから、簡単でしょ?」
「何で私が?」
「だって私決めたもん」
エイヴァは嬉しそうに飛び跳ねた。
「今日からお姉ちゃんに取り憑くって」
「……は?」
「じゃあまたねー」
影は、周囲の白黒に溶けるようにして霧消した。徐々に芝生や木々の緑色が、空の青色が、戻ってくるのが分かった。だが私は呆然と立ち尽くしたまましばらくは動くことも忘れていた。
二日後の火曜日、九月十一日、ボストンからカリフォルニアに来るはずだった飛行機がハイジャックされ、ワールドトレードセンターに衝突して炎上した。
ぷわわわー 白里りこ @Tomaten
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