あてもなく、ともにいる

鹿島 茜

二人旅

 面白くも楽しくもなかった大学を卒業した。卒業式すら出るのが億劫だったけれど、何もすることもなく行く場所もないので式に出た。出てしまってから、しまったと思った。僕の大学は少人数制なので、学長から一人ずつ卒業証書を手渡されるのだ。少ないとは言え結構な人数がいるので、眠くて仕方ない。ようやく自分の番が回ってきて、前へ出て証書を恭しく頂戴して、最後まで座って我慢し続けた。

 式が終われば謝恩会があったり、サークルに入っている奴らは飲み会があったり、さらに輪をかけて二次会、三次会と朝まで飲んで歌って騒ぎ続けるのだろう。気の合う者同士で遊びに行くのもいるだろうし、恋人とデートする奴もいるに違いない。全てにおいて該当しない僕は、窮屈なネクタイを引き抜いてコートのポケットに突っ込み、さっさとアパートへ帰ろうと大学を出た。



 「おい、吉野よしの

 どこかから誰かが僕を呼ぶ声がする。男だ。誰だろう。振り向いてみても、心当たりの顔がない。首を傾げてきょろきょろと辺りを見回した。

「ここだよ、ここ」

 僕と同じように卒業証書を手にしてネクタイを取り去った男が、横道から出てきた。声をかけてきた主は、あまり見覚えのない顔だった。かといって知らないわけではない。ただ名前を知らないだけだ。顔は見たことがある。そもそも僕はろくに友だち付き合いなどしていなかったから、四年間ずっとクラスメイトの顔と名前を一致させようと努力していなかった。

「俺の顔と名前が一致してないんだな」

「悪いけど一致してない。でも知らないわけじゃないよ。ごめん、誰だっけ」

 物事は正直に伝えるに限る。下手な嘘を付けば、後でぼろが出るから。

酒々井しすいだよ。下の名前はまこと。思い出したか」

 そういえば、いた。千葉のどこかのような名前の男が。四年間で話したことが何度あっただろうか。ないんじゃないかと思う。一度くらいしか。

「思い出したよ。千葉県に住んでるのか」

「名前で連想ゲームするなよ。俺の実家は北海道でアパートはお前んちのすぐ近くだ」

「そうだったのか、知らなかった」

「そりゃそうだよな、なんつったって吉野だからな」

 そう、僕だからな。これと言って他人に興味を持たないこの僕だ。隣に誰が住んでいようが、どんなにいい女が裸で歩いていようが、道端に一千万円落ちていようが、僕にはたいして興味がない。本を読むのが好きだったから文学部を卒業したはいいが、本当に興味のあることもあまり見つからなかった。そんな僕に適当な友だちができるわけでもなく、興味のあるサークルもなかったし、彼女が欲しいとも思わなかったから恋人もできなかった。実家からの仕送りだけでは貧しいのでバイトはいろいろとやってきたが、春に就職が決まっている会社の研修が始まればお終いだ。

「それで酒々井が僕に何の用なんだ」

「誠って呼べよ。酒々井って言われると千葉県民みたいな気がするんだ」

「自分だって連想ゲームしてるじゃんか。それで誠が僕に何の用だ」

 酒々井が、いや誠が歩き始めたので、僕も肩を並べて歩き始めた。隣同士で歩いたこともない酒々井誠は、僕よりも頭半分くらい背が高かった。

「別に用事じゃないよ。吉野は絶対に用事ないだろうなと思って声かけただけだ」

「用もないのに声かけるのか。お前、変わってるな」

 僕なら用事がなければ絶対に人に声などかけたりしない。だって話すことがないじゃないか。

「いや、お前の方が変わってると思う。どうせ暇なんだろ。どこか行かないか」

 どこかってどこだ。興味のない所に僕は行きたくない。時間も金ももったいない。だいたい面倒臭い。

「酒々井が行きたいどこかってどこだ」

「誠」

「うるさい奴だな千葉県。じゃあ誠の行きたいどこかってのはどこだよ。場所次第で考えなくもない」

 千葉県と言ったらむっとした顔をしたが、僕の知ったことではない。

「あてのない散歩だよ。目的地は別にない」

「お前と二人でこれから一日中か」

「どうだ、あてもない、目的地もないぞ。そのまま旅に出ちまってもいい」

「ふうん」

 僕は何となくその誘いに乗った。生まれて初めて興味を持った。『なんのあてもない』ということに対して。

 僕らは駅のコインロッカーに、邪魔な荷物を放り込んだ。



 まだ三月の半ば、桜には早い。桜に興味があるわけでもないが、咲いていれば綺麗だと思う。咲いていなければ、咲きたい時に咲けばいいと感じる。天気はいい。雲が一つもない。そして寒い。コートを着なければ、まだ外は歩けない。

 大学を卒業したばかりの男が二人、空いた電車に揺られてぼんやりと座っている。本当にあてがない。あてがないというのは、なかなかいい。興味云々の段階ではないからだ。

「いい天気だな」

誠が呟いた。

「ああ、そうだな」

僕は答えた。

「吉野は晴れと曇りと雨と雪と嵐と、どれが一番好きで、一番嫌いなんだ」

誠は随分とたくさんの選択肢を出してきた。

「僕はみんな好きでも嫌いでもない。天候は現実だ。現実は受け止める、それだけだ」

僕は選択肢から一つも選ぶことはしなかった。

「お前ってわかりやすい奴だな」

「さっきは変わってるって言ってたじゃないか」

「変わってるとわかりやすいが両立しててもいいだろ」

考えてみればそうかもしれない。誠から見たら、僕は変わっていてわかりやすい男なのだろう。

「なら誠はどの天気が好きなんだ」

「吉野と似たり寄ったりだな。天気に対してぶつくさ言ってもしょうがない。天気ほどあてにならないものはないからなあ」

 車窓から空を見上げて、誠は眩しそうな顔をした。この男の顔をまじまじ見るのは初めてだ。僕にはこれと言って感想はない。

「ここで降りようぜ」

 誠が立ち上がったので、僕も後に続く。駅の名前も知らないような、田舎だった。山に近いことだけは確からしい。海も近いのか、それはわからない。誠に聞いても知らない場所だと言う。

 改札で清算をして出る。あてもなくぶらぶらと歩いていると、蕎麦屋があった。

「腹へった。蕎麦食いたい」

僕が言うと、誠も頷いた。

「じゃあ昼飯にしよう。割り勘な」

「もちろんだ」

 蕎麦屋に入って、二人とも天ぷら蕎麦を食べた。どれを食べても構わないのだが、天ぷら蕎麦が一番満腹になりそうだったからに過ぎない。しかし意外と旨かった。

 割り勘で会計を済ませ、またぶらぶらと散歩する。ここがどこだかわからない。何があるかもわからない。目的がないから誰かに何かをたずねる必要もない。ただ歩いては休み、時々は会話を交わし、また歩いては休み、店らしきものを見つけたら入ってコーヒーなどを飲んだ。

 誠という男は、邪魔でもなかったし退屈でもなかった。同じ血管の中を流れる血液のような男だった。違和感もなく、副作用も起こさない。ただ存在感はあるので、空気のようではなかった。異質で同質なものだった。誠が僕を「変わっててわかりやすい」と表現したが、僕は誠を「わからなくても構わないが快適」とでも表現しておこう。



 そのまま歩いて行くと、梅の木がたくさん見えてきた。どうやら小さな梅林があるらしい。

「梅だな。満開じゃないか」

誠が少し声を弾ませた。

「ほんと、満開だ。まだまだ寒いからかな」

 僕も誠の声で、少しばかり嬉しくなった。こいつは梅が好きなのだろうか。それならば、ちょうど巡り合えて良かったじゃないか。

「吉野、お前、梅はどうでもいいか」

「好きでも嫌いでもないけど、嫌いじゃないし咲いていれば綺麗だと思うよ」

 誠は笑顔を見せた。にこりと笑う誠は高校生みたいに若く見えた。

「俺わりと好きなんだ、梅は。理由はないけどな」

「良かったじゃないか、ここで見られて」

「そうだな、知らない場所にも来てみるもんだな」

 青い空にひっそりと咲く梅を眺めながら、あてのない散歩、あてのない旅というのもいいものだと、いよいよ感じられた。今まで一人旅もしたことなかったし、友だちはいないから仲間と旅行したこともない。ゼミの補講で行なわれた合宿は仕方なく行ったが、それには単位という目的があるので旅行とは違う。そういえば誠は、同じゼミにはいなかった。だから全く話したことがなかったのだろう。

「誠、楽しそうだな」

僕が笑って言うと、誠も笑った。

「お前も楽しそうだぞ、結構」

「そうだな、わりと楽しいかもな」

「女と違って余計な気を使わなくていいからだろ、きっと。ま、普通にしとけ」

 僕は女だろうと男だろうと気など使わないのでどちらでも同じだと思っていたが、やはり男の方が楽だ。けれども、もともと僕は人と話すことすら面倒臭い。誠に対して面倒臭いと思わないのは、この男とウマが合うからだろう。卒業前にこんな風に話してウマが合ったかどうかはわからないが、とりあえず今は快適だ。

 陽が少し陰ってきて、夕方が近付いてきた。風も強くなってきて、かなり寒い。

「そろそろ帰るか」

「そうだな、寒くなってきた」

 再び電車に乗って、大学の最寄りの駅まで戻る。その間もぼんやりしたり、話したり話さなかったり、笑ったり笑わなかったりした。かなり遠くまで行って帰ってきたはずなのに、何故だか時間はとても短く感じた。



 駅のコインロッカーから卒業証書が入った荷物を出して、歩いてアパートへ向かう。誠のアパートは、本当に僕の住むアパートの近くだった。ほんの30メートル程度の距離しかなかった。四年間ここにいて、全く知らなかった。

「今日は誘ってくれてありがとう。楽しかった」

「そうか、あてがないってのが吉野のお気に召したんだな」

「そうかもな」

 互いに何となく礼を言い合い、じゃあここでと別れようと背を向けたら、すぐに誠が呼び止めてきた。

「おい、けい

 下の名を呼ばれて、驚く。振り向くと誠はにやりと笑った。

「お前の名前は啓だろ。別に驚くことないじゃないか」

「まあ確かに」

 なぜ驚いたのだろう。もう何年もその名前で呼ぶ人がいなかったからか。苗字でしか呼ばれていなかったからか。

「お前、これから引っ越しとかすんのか」

「いや別に。ここから会社に通うつもりだけど」

「俺もそうだよ。また会わないか、別にあてもなく、さ」

 僕は誠の言葉に思わず笑った。あてもなく会うって、何だか笑える。

「あてもなく一緒にいれば、何かいいもの見つけるかもしれないぞ」

 誠は僕に近付いてきて、二の腕をぽんと叩いた。

「さっき誠が梅の花を見つけたようにか」

「まあな。梅よりもっといいものを俺は見つけたけどな」

 何か他に嬉しそうにしていたことがあったろうか。思い出そうとしてみたが、心当たりがなく首を傾げた。誠が声を出して笑い、僕の頬をぎゅうとつねった。

「大学に入って出るまで四年間、俺は啓の笑った顔は見たことがなかったぞ。今日初めて見た」

 だからと言って、何もつねることはないだろう。僕は頭を振って誠の指を払った。

「僕の笑った顔を見て、何かいいことでもあんのかよ」

「お前も後で思い出してみろ。何かいいもの拾ってるはずだから」

 よくわからないが、快適だったことは事実だ。後で風呂にでもつかりながら、他のことを思い出してみてもいい。

 僕らは携帯の番号とアドレスを交換した。僕のアドレス帳に『友人』というカテゴリができる日が来るとは、考えたこともなかった。



「じゃあ、またな」

「うん、またな」

 同時に背を向けて、自分のアパートに向かう。僕は何となく、数メートル歩いて後ろを振り返った。誠の背中がもうすぐアパートの影に消えようとするのを、じっと見ていた。視線を感じたのか感じなかったのか、彼は僕を振り返った。僕に向かって少し手を上げる。僕も手を上げて、一歩後ろに引いた。そのまま背を向けようとしたけれど、何故だか誠を見送ってやりたかった。

 誠はしばらく立ち止まっていたが、僕が動かないのを見て叫んだ。

「おーい、俺んちで晩飯でも食ってくかー」

 大声で叫ぶのも近所に迷惑だと思って、僕は誠の方に向かって歩き始めた。歩きながら僕は、自然と笑顔になっていた。そしていつの間にか、足も早まっていたみたいだった。

「急がなくても俺は逃げないって」

 頭半分長身の誠が、生意気に僕の頭をはたいた。

「別に急いだわけじゃないぞ」

「寒いから鍋でもやろうぜ」

「いいな、材料あるのか」

「なけりゃ一緒に買いに行けばいいだろ。俺んちは二階だ、ほら上がれ」

 誠は僕の背中を押して笑った。僕も笑った。

 確かに何かいいものを拾ったような心持ちがしていた。何を指して『いいもの』と呼ぶのかわからないが、何かを拾ったと感じることのできる一日だった。



【完】



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あてもなく、ともにいる 鹿島 茜 @yuiiwashiro

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