猫の意趣返し

K-enterprise

第1話

「また今日もギリギリだったよ」


「猫?」


「うん」


「今月に入って何回目?」


「…三回目かな?」


「じゃあ五日に一回くらいの頻度ね」


「僕が君にこの話をするのもそのくらいだからね」


 僕は妻の作った夕食を摂りながら、夕食時の話題としては天気に次いで多い話題について話していた。


「私的に仮説があるんだけど」


「なんだ?」


「度胸試しってセンはない?」


「度胸試し?猫が?」


「そ、あなた安全運転でしょ?車間距離も多く取ってるし、だから猫の世界ではさ、『あの車は比較的速度を出さん、しかも我々に対し回避行動もとる。一人前になる試験にはもってこいじゃ』って」


 妻は老子のような芝居がかった声色を交え解説する。


「確かに、免許を取って二十年、一度も猫を轢いたことがないのが自慢ではあるな」


「猫はともかく、ゴールド免許を維持してるってこともすごいと思うよ?毎日往復50kmも通勤してるのに」


「それだけ走ってるわけだから、目の前を猫が横切ることが多いのも確率的には仕方がないのかもな」


「でも、ありとあらゆる場所なんでしょ?」


「ああ、片道25km、いつどこで遭遇するか、警察のネズミ取りより予測は難しい」


 車に乗る人ならば、車の前をダッシュで横断する猫の姿を、そして路上で倒れている猫の姿を、どちらも見たことがあるだろう。

 確かに横断歩道や信号を守ろうよ、などと猫に諭しても仕方がないのだが、僕は、積極的に猫を危険に晒したいと思っていない。

 むしろ危険に晒さないように、過剰なほどの安全運転を心掛けているといっても過言じゃない。

 結果として多くの期間を、無事故無違反、ゴールド免許という結果と共に、一度たりとも猫を殺めていないのが自慢の一つでもある。


 にも関わらず、猫は、僕の目の前で横断する。

 まるで、僕の車が見えてから飛び出しているんじゃないか?そんな疑念と共に、妻に話す回数も多くなっていた。


 なるほど、僕は猫の世界のテスターか。

 いや、勘弁してほしい。

 急ブレーキってのは、後続の車への影響もデカいし、君らは知らないかも知れないが、車内の備品はまるで事故を起こしたのと同じくらい飛び回ることだってあるんだ。


●●●


「おい、もう少しスピード緩めろよ」


 僕は今日何度目かの注意を、同僚のカゼノに伝える。


「いや、そんな速度じゃないでしょ?」


 不思議そうにそう反応するカゼノ。

 この辺の価値観ってのはなかなか埋まらないもんだ。

 前が空いていれば詰める。制限速度は最低速度。


 車ってのはアクセルを踏めば走る、それは誰でも同じ。

 でも、危機を回避したり、ゆっくり止まるって技術には個人差がある。

 その意識は、諭すだけじゃ変わらない。


「もし何かが飛び出してきたらどうするんだ?」


「人でも出てきたら、そん時は避けますし、止まりますよ?」


「猫だって飛び出すぞ?」


「そこはしょうがないでしょ?むしろ急ブレーキで事故るよりそのまま走ったほうがいい時もあるんじゃないです?飛び出してくる方が悪いんだから」


 世の中には本気でそう思ってる人もいる。

 動物の命を軽視してるってより、人の理で効率を解釈する。

 この男も、ミニチュアダックスを飼っているのにな。


 僕は、二度とこの男の運転で出張にでかけたくないと、心から思った。


●●●


 気が付くと僕は猫になっていた。

 たくさんの猫に囲まれ、自分の目線や四肢で立つ感覚でそれを理解した。


 一匹の老猫が僕を促す。

 老描と僕は群れから離れ歩き出す。

 大地を肉球で踏みしめる感覚や、尻尾を自在に動かす感覚が心地よかった。


 気が付くと、交通量の多い道路があった。

 ヘッドライトは野獣の群れのようで、この目線から見る車の存在は脅威以外のなにものでもなかった。

 身軽に感じていた体が、恐怖で震える。


 老猫は僕に目線で合図を送り、駆け出した。

 左右から走り去る車の間隙を、実に見事に走り抜けた。


 次は僕の番だ。

 タイミングを見計らい躍り出る。

 人が作った道路とは、こんなに幅が広いってことを、この小さな体で体感する。

 遠かったはずのヘッドライトの光芒はすぐそこに迫っていた。


 急ブレーキの音、そして大きな衝撃音は、僕が駆け抜けた後方から聞こえてきた。


「無事のようじゃな」


 老猫が声をかけてくる。


「でも、僕のせいで人間は事故を起こしてしまいました」


 僕は多重事故を起こし騒然とする現場を眺めながら、そう呟いた。


「なあに、人間は、外を自由に歩いとるワシらを”野良”と呼ぶじゃろ?なら、外を好き勝手に動き回る人間も”野良”なんじゃろ?」


 人間の自由。猫の自由。

 管理されていない動物は野良…なら、人だって野良だろう。


「それを教えるために、あえて車の前を横切るんですか?」


 老猫はきょとんとした顔をした後、笑いながら言う。


「わしらはただ歩いてるだけじゃよ。運が悪ければ野垂れ死ぬ。それは人間も同じじゃろ?」


 僕は急ブレーキをかけて事故を起こした存在を確認する。

 僕だって好きで事故を誘発したわけじゃない。

 でも、死んでいいとまでは思っていない。


 後続車の追突でどこかにぶつけたのか、血を流しながらも運転席から出てきたのはカゼノだった。


「なんだ、ちゃんとブレーキ踏めるじゃないか」僕はホッとして笑った。

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