ノタクリ

白川津 中々

 ノタクリが気持ち悪いと母に話したところ、シッと唇に人差し指を当て囁いた。


「ノタクリの話はやめときて。どこで聞いとるか分からんのやで」


 ノタクリは近所を徘徊している爺で、早朝から深夜まで毎日飽きる事なく、「ゲヒヒ」と笑いながら歩き回っている。痴呆なんじゃないかと言われているが家の周りは綺麗だし話もしっかりしているらしい。つまりただ頭がおかしいだけの老人という事であるが、どっちにしろ関わり合いになりたくない人種である事に変わりはない。

 ノタクリはたまに他人の家に張り付いて耳をすませていると言う。「どこで聞いとるか分からん」とはそういう事。もっとも、聞かれたところで別段私が困るわけでもない。母が角を立てたくないだけだ。


「早く捕まればいいのにね。ノタクリ」



 当て付けにそう言うと、母が眉間に皺を寄せた。


「だからその話はやめんさい。お風呂入っちゃって」


 どうやら本気で嫌がっているようなので大人しく風呂に入る事にした。脱衣所が片付いている。掃除したのだろう。さすが専業主婦だ。そういえばスカートがほつれていたのだった。上がったら直そう。裁縫は苦手だが、母が「それくらいやれ」とうるさい。今日日女だからといって針仕事ができなければならないわけでもないだろうに。時代錯誤な事だ。


 日頃の愚痴を描くと頭がモヤモヤしてきた。これはいけない。シャワーと一緒に流してしまおう。下着を脱ぎ浴室へ。シャワーヘッドを持ってレバーを押し込み、足元に向けて水を出す。冷たい。お湯になるまで幾許か。



 ……




 ふと視線が向けられている気がして窓を向く。






「ゲヒヒ」






 瞬間、肌が粟立ち、叫んだ。シャワーが落ちて水が噴水のように舞う。




「どうしたん!」


「ノ、ノタクリ! いた! 窓の外に!」


「嘘! あんたあかんて!」



 私は母の手を借り運ばれるように浴室を出て、震えた。あの目、あの頭、あの笑い声。ノタクリ以外にあり得ない。あの爺。覗いたんだ。私の裸を!



「お母さん! 警察! 警察に電話して!」



 絶対許せない! 気持ち悪い! 早く捕まってほしい!



「……もう一回来たら、考えよか」


「はぁ!? なんで!?」



 何それ! 意味が分からない!



「話を大きくすると近所の人にも話さなあかん、あんただって裸見られたなんて知られたくないら」


「そんな事ない! 私はあいつが捕まらなきゃお風呂入れない!」


「まぁ、明日お父さん帰ってきたら相談するで、今日はもう寝やぁ。身体は蒸しタオルで拭きゃあいいし」


「……あっそう! 親がそんなんならもう何もできんわ!」


 怒りのあまり裸のままリビングを飛び出してしまった。寒い。あぁ、髪が気持ち悪い。明日学校どうしよう。朝風呂に早く入るしかないか……あぁでも、ノタクリたまに四時ごろ歩いてるっていうし……なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。


 部屋に入り、下着とパジャマを着るてベッドに倒れる。落ち着かず、眠くない。だいたいまだ八時だ。眠くなるわけがない。かといって何かやる気も起きないし、時間を持て余す。あぁ、どうしたらいいんだろう。ムカつくなぁ……


 やる事もなく天井を見る。溜息しか出ない。もういいや。明日警察に行こう。どうせ母はあてにならない。自分でなんとかしないと。カメラも買って、窓の鍵も替えて……いくら掛かるんだろう。足りるかな……こんな事なら福袋の買い漁りなんてしなければよかった。


 また溜息。学生じゃあどうしたって限界がある。どうしたものか。


 目を瞑る。なんだか頭がぼうっとしてきた。考えすぎて疲れたんだろうか。これなら、朝早く出て漫画喫茶のシャワーでも……


 微睡に落ちる。意識は朦朧。まだ歯も磨いてないけど、きょうはもういいや……






「ゲヒヒ」





 目が覚める。いる。あいつが!


 飛び起きようとしたが身体が動かない。手足が縛られている。口には猿轡がされているようだ。苦しい。



「ゲヒヒ」



 そっと横を見ると、ノタクリがいる。暗闇の中、あの気持ち悪い笑みを浮かべて、ゆらりと立っている。



「ゲヒヒ」




 嫌……


 嫌。


 嫌!




 身体をばたつかせるも、まるで意味がない。手足をもがれた虫のように、のたうちまわる事もできない。



 私はこれから何をされてしまうのだろうか。あの気持ちの悪い爺に陵辱されるのか、それとも、もっと酷い事をされるのか。考えただけで狂いそうになる。どうして私なのだろう。何故他の人じゃ駄目なのだろう。突如起こった理不尽に対してそんな考えが頭を過ぎる。誰か助けて。お母さん。お父さん。誰でもいいから、誰か、誰か!






























「ゲヒヒ」

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