秋風を背負う

lager

お題「21回目」

 息が苦しかった。

 もうどれほどの間、俺はこの熱に浮かされているのだろう。

 自分の体が自分のものではなくなっているようだった。


 子供のころからウドの大木と呼ばれ、大飯喰らいと親に疎まれ、捨てられたこの体。

 それでも、それを正しく使うことを教えられ、今日までひたすら鍛え続けてきたこの体。

 その体の至る所に、呪いのような発疹が浮き出ている。


 痒い。

 痒くて痒くてたまらない。

 我慢できずに掻きむしれば、そこから膿が出る。嫌な匂いのする穢れたような汁が、この俺の体から滲み出てきたのだということが信じられなかった。


 息が苦しい。

 視界は霞み、天井の木目が奇々怪々な妖魔の姿に変わり、俺を嘲笑している。


 くそう。


『なにが悲劇の若頭』

『力任せに暴れてるだけの田舎者』


 俺を誰だと思ってやがる。


『相撲ってなぁ、見てくれで取るもんじゃぁねえのさ』

『芸者と遊んで精根使い切っちまったんだろう』


 くそう。

 くそう。


 俺は強い。

 強くなくっちゃいけないんだ。

 

 今まではちょっと調子が悪かっただけさ。

 これからなんだ。

 せっかく師匠の名前をもらって、これからってときに、このくそったれな疱瘡の病のせいで。


 ああ。

 息が苦しい。

 体が痒い。


 誰か。

 誰か。


 その時だった。

 どこからか、ひらひらと紅い落葉が舞い込んできた。


 わずかばかりに許された換気窓。

 そこから吹き込む秋風に乗って、目の覚めるような鮮やかなもみじの葉が俺の視界を横切っていった。


 赤い。

 真っ赤な葉が。


 そうだ。

 あの日も、こんな、鮮やかな紅葉が町中に舞い散っていた。


 薄れゆく俺の意識は、記憶の彼方にある、あの日の光景を脳裏に思い起こしていた。




 あれは、あの馬鹿に偉そうな帝国なんとか議事堂が全部燃えちまった年のことだった。

 俺にとっちゃ、お国のお偉いさんたちがどこで何を会議してようが知ったこっちゃねえ。ただ、年明け早々縁起でもねえなぁ、なんてことを、部屋のみんなとしゃべくってた記憶しかなかった。

 今思えば、あれが凶兆ってやつだったのかもしれない。


 その年の秋。俺らは巡業で、西濃は大垣に来ていた。

 この広い日本列島のぴったりド真ん中なんて触れ込みの町で、川沿いの紅葉がちょうど見ごろだったのを覚えてる。


 朝の早くだった。

 早くっつっても、俺ら下っ端にとっちゃあ日の出前に起き出して稽古場を掃除するなんて当たり前のことだ。

 いつも通りに井戸から水を汲んで、雑巾片手に稽古場に入ったときだ。


 世界が揺らいだ。

 足元が縦に震えたんだ。

 なにか馬鹿でかい巨人が建物を鷲掴みにして揺すったみたいだった。


 地震だ。

 それも、凄まじく大きい。

 これは後で聞いた知識だが、地震ってのは、初めに小さな揺れが来て、次に本番の揺れがくるものらしい。震源から離れれば離れるほど、二つの揺れの時間差が大きくなるんだとか。


 その時は、ほとんど時間差がなかった。

 ちょいと足元が揺らいだかと思った次の瞬間には、今まで体験したこともねえようなデカい揺れが来て、俺たちは立ってることもままならなくなった。


 とにかく、その場に伏せた。

 稽古場は広いし、倒れるようなものも置いてない。動かずじっとしてるのが最善だと、まあその時そんな理屈まで咄嗟に考えるほど頭が回ったわけはないんだが、とにかく俺はそう判断した。


 けど、それが大きな間違いだったんだ。

 なあ、想像できるかよ。

 相撲取りがどっかんばっこん稽古してる道場の、その屋台骨が、みしりと鳴ったんだ。

 俺は馬鹿だった。

 けど、俺の兄弟子はそうじゃなかった。


『逃げるぞ、ゴン!』


 そう言って、俺と同じように伏せていた兄貴は俺の手を引いて立ち上がった。


『何言ってんだ、ここにいたほうがいいって!』

『馬鹿野郎!』


 雷鳴のごとくに怒鳴り声をあげた兄貴は、変わらず揺らぎ続ける天地の中で、懸命に俺の腕を引き、出口へと向かって走り出した。

『さあ行け、出るんだ! 早く!』

 俺の他にも数人いた弟子たちを稽古部屋の外に送り出し、最後に俺と一緒になって外に出ようとしたときだった。


 ごしゃ。


 そんな、冗談みたいな音を立てて、ついに天井が崩れた。


 光が、射した。


 一瞬眩んだ目が次に捕らえたのは、背中を瓦礫に打ち据えられ、片膝をついた兄弟子の姿だった。 


『兄貴!』

『馬鹿野郎! 来るんじゃねえ!』


 あと、三歩。

 三歩、足を進めていれば、兄貴は助かっていた。

 

 兄貴の体は、一目見て分かる重体だった。

 けど、そんなことが関係あるものか。

 俺は踵を返し、倒壊する稽古部屋へと足を踏み入れ、兄貴の肩に手をかけようとした。

 その、瞬間。


『ぅおっっしょい!!!』


 俺の心臓に、衝撃が走った。

 俺の体。子供のころから木偶の坊と呼ばれ、大飯喰らいと親に疎まれ捨てられた、この俺の巨体を、兄貴は張り手の一発で吹っ飛ばし、外へと押し出したのだ。


 俺が最後に見たのは、その偉大な大椛おおもみじが、瓦礫の中に埋もれていく光景だった。





『ギフナクナル(岐阜なくなる)』


 そんな第一報が、ひとりの新聞記者からもたらされた。

 未曾有の大震災。その漢字をなんて読むのか、間抜けな俺には分からなかったが、とにかく酷い災害が起きたのだということは伝わった。

 いや、人に伝えられるまでもない。

 酷い。とても酷いことが起きたのだ。

 俺の胸元に三日三晩残り続けた兄弟子の張り手の痕が、俺の体から魂までもを吹き飛ばしてしまったように感じた。 

 

 けど、俺は立ち上がった。

 なんのために兄貴が俺を生かした?

 自分を弔わせるためか?

 死んだ人間を想ってメソメソ泣かせるためか?


 そんなわけがあるか。


 俺は受け継いだんだ。

 兄貴から、この張り手を。


 ひらひらと、俺の目の前を真っ赤なもみじが舞い落ちていく。


 俺の相撲はここで終わりか?

 悲劇を背負った美男子前頭などと持て囃され、ちやほやされた挙句が負け続きのポンコツ力士。挙句の果てにクソったれな病に身を犯され、こんなみじめな格好で死んでいくのが、俺の最期?


 ふざけるな!!


 俺は強い。

 強くなってみせる。

 まだこれからだ。

 まだまだ、これからだ。


 死んでたまるか。

 死んでたまるか。

 

 見ていてくれよ、兄貴。

 俺は絶対、こんな場所で終わらねえ!!




 ◇


 明治三十一年。大阪相撲に、一人の力士が参入した。

 幕内付け出しでのデビューを飾り、三十二年五月から、翌年一月まで実に三十五連勝を記録することになる。

 得意技は突っ張り。

 とにかく派手な相撲が持ち味で、当時衰退気味であった大阪相撲に大きな新風を呼び起こした。


 のちに、大阪相撲最強との呼び声も上がった、第二十一代横綱・若島権四郎ごんしろうである。

 

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