どっちなんだよ

殻部

第1話

「げ、何だこりゃ?」

 現場の有様を見るなり俺は思わず口走った。

「あ、腰越警部補」

 その声に巡査が気づいて会釈した。

 場所は10階建てマンションの3階の、ごく普通の2LDK。その一室の本棚に囲まれた書斎と思しき部屋が、現場だった。

 荒らされた様子はない。しかし異様な現場だった。

「で、これはいったい何だよ」

 俺は巡査に向かって訊ねた。特に指さす必要も目線を送る必要ももない。これと言えばわかるほど明確な異物。

「鑑識に出してみないとなんとも。でも……粘液、ですかね」

「まあそうだな」

 俺も答えを望んでいたわけではない。ただ一応そこに言及しておかないと気持ちが収まらなかっただけだ。

 粘液――そう、床にも壁にも本棚にも、緑色の粘つく物体がおびただしく貼りついていたのだった。

「しかし臭えなあ」

 マスク越しでも鼻を侵食する生臭さに眉をひそめる。

「で、被害者は?」

「被害者自体は確認できていません。ですがこの様子だと……」

 部屋を汚しているのは緑色の粘液だけではなかった。バケツでぶちまけたように赤黒い液体が床を浸していた。

「ちなみに、人間の血ではあるようですよ。腰越さん」

 そう言いながら、先に来ていた後輩の刑事・加山が部屋に入ってきた。

 いたずらではないということか。しかし廊下には血痕はなかった。大量出血した本人が自力で部屋を出たわけではないということだ。

「被害者……かはわかりませんが、この部屋の持ち主は菱沼忠司、36歳。百々山理化学研究所の所員です」

「へえ、ハカセかい。通報までの状況は?」

「第一発見者は、家事派遣業の尾盛美佐江さん。月に一度、この部屋の清掃を請け負っているそうです。今日はその清掃の日で、預かっていた鍵で入ったところ、異臭に気づいて通報したとのことです」

「鍵を預かっていたってことは、家主は不在のはずだったってことか?」

「そうですね。菱沼さんは外出予定だったと尾盛さんは聞いていたそうです」

「それと、異臭に気づいて通報したってことは、この現場を見たわけじゃないのか?」

「そこなんです。この部屋だけは大事な資料があるからと清掃をさせなかったそうなんです。おまけに施錠までされていました。この部屋が開けられたのは通報を受けて当直の警官が来てからです」

 ちらりと巡査を見ると黙ってうなずいた。

「つまり、ここは密室だったってことですね」

「アホか。外からも鍵かけられるんだから密室になってねえだろ。そんなポンコツ推理、ミステリ小説だったら大炎上するぞ」

「あそっか」

 刑事としても大問題な気がするが。

「でも、さっき確認したんですが、エントランスの防犯カメラには怪しいものは何も写ってなかったんですよね」

「被害者もか?」

「ええ。なんで、まだ建物内にいる可能性もありますね」

 ベランダから……いや、鍵をどうやって掛ける? 遺体は窓から出して、自分は普通に玄関から? その場合マンションの住人が怪しくなってくるな……。

「なんかミステリーっぽくなってきましたね」

「嬉しそうに言うんじゃねえよ」

「腰越さん」

 声をかけてきたのは、書斎の机を調べていた鑑識の田上だった。

「ちょっと気になるものが」

 そう言って、薄いファイルを渡してくる。

「ちょっと目に入って気になったもんで。開いてみてください」

「ああん?」

 怪訝に思いながら、中を確認する。それは簡単なレポートのようなものだった。当たり前のように専門用語が羅列されるので内容の5割も理解できなかった。そして理解できた部分は到底信じられないものだった。

「こりゃSF小説の設定かなんかか?」

「一応、百々山研の所員が書いた内部用の報告書のようです。確かに信じがたい内容ですが」

 それはざっくりというと、何かの培養の失敗の過程で偶発的に生まれた奇妙な生命体の生態について書かれていた。特徴として非常に可塑性が高く、自在に形を変えられる粘土のような生物らしい。

「信憑性はともかく、問題はその生物の画像ですよ」

 この報告書にある生物の姿は、ゼリーでできた太った芋虫のようで、緑色の粘液にまみれていた。

「似てますよね、これに」

 田上は床にこびりついているものを指す。

「ここにそれがいたってのか?」

 レポートを改めて確認する。そこに書かれた名前は菱沼ではない。

「えーっと、その報告者は菱沼さんとは別部署のようですね」

 加山がスマホで検索しながら報告する。

 部屋を見回すと、一部の粘液は上へと伸び、細い通気口の溝に届いていた。報告書通りなら、どんな隙間だって通れるだろう。

「いやだからって、血の主はどこ行ったんだよ」

「食べちゃった……とか」

 加山が自分で言って、自分で青くなった。

「ミステリーから一気にホラーかよ。それで納得したわけじゃないが、もしそうなら面倒臭いことになるぞ」

「どこにでも忍び込める人食いの生物ですからね」

「田上も嬉しそうに言うんじゃないよ。ともかくマンション中を捜索する必要がある。それに百々山研だ」

「あのー」

 先程の巡査が話しかけてきた。

「その百々山なんとかっていうとこの方が来てます」

「なにい?」

 部屋を出ると、気の弱そうな猫背の男が、おどおどと立っていた。

「い、伊見島と申します……」

 驚くべきことにあのレポートの報告者だった。しかし俺は表情を変えず「菱沼さんの同僚の方ですか? なぜここに?」とだけ言った。

「い、いや、研究所に菱沼さんの身元の確認が警察からあったって聞いて……」

「何か気になることでも?」

「あ、その……」

 胡乱な会話を続けても埒が明かない。直球で行くことにした。

「確認して頂きたいものがあるんですが」

 伊見島を粘液まみれの現場へと案内した。

「この状況に心当たりはありますか?」

「あ、えっと……」

 俺は例のレポートを出してみせた。

「あ……」

「失礼ですが、捜査の必要上拝見させていただきました。単刀直入に聞きますが、この粘液は、この報告書にある生物のものですね?」

「はい……確かに当方のサンプル個体のものです……」

 思いのほか素直に答える伊見島。

「なぜ菱沼氏の部屋にいたのか、心当たりはありませんか」

「いや、その。いや……」

 くちごもる伊見島。

「この生物を持ち出せる人間はどれくらいいますか?」

「そ、それは誰にも不可能です。何重にもセキュリティが存在しますので」

 思いのほかきっぱりとした口調で言った。

 だが、この時点で俺の頭脳は答えを導き出していた。

 これは未知の実験動物が、意図的にもしくは偶発的に人間を襲ったホラーではない。

 逃げ出した実験動物が無関係の菱沼のマンションまで来て襲うとは考えられないし、人間を襲えるような生物を別部署の菱沼が持ちだせたはずもない。

 これは人間が、実験動物の生態を利用して仕組んだミステリーだ。

 その人間とは、ずばり唯一持ちだせる可能性が高い、伊見島だ。

 伊見島ならば、菱沼のマンションに潜り込ませて襲わせることも可能だろう。

 動機の方は、彼自身に聞けばいい。

「ひとつ伺いたい。伊見島さん、あなたは菱沼氏をどう思っていたのか」

 その質問に、猫背の研究者はあからさまに動揺した。ビンゴだ。

 刑事として、この段階で言ってはいけないことはわかっている。でも言うならば今しかない。

「謎は全て解けました。端的に言いましょう。犯人はあなただ」

 びしっと伊見島に向けて指をさす。

「あわわわ」

 伊見島は少しも否定するそぶりもなく、膝から崩れ落ちた。

 拍子抜けだった。多少は言い逃れをしてくれないと、推理を語ることができないじゃないか。

 その時俺の携帯に電話が来た。

「はい……え?」俺は耳を疑った。

「菱山氏と連絡がついた? 生きてんの?」

 理解が追いついていない俺の前で、もっと信じられないことが起こった。

 跪く伊見島の体が、みるみる緑の半透明になっていったのだ。

「えええええ?」



 その後の鑑識の結果、部屋にぶちまけられた血は、伊見島のものだと判明した。

 彼はなんと自分の体の一部に実験生物を移植して、その高い可塑性を利用し、菱沼の留守を見計らって、部屋の鍵を開けて侵入したのだ。

 そして書斎を物色していた時、ちょうど派遣の家政婦・尾盛が掃除にやってきたのだった。彼女が書斎には入ってこないことを知らなかった伊見島は、むちゃくちゃに焦った末に、脱出するため、全身を可塑性細胞に侵食させる暴挙に出た。その時、変換の間に合わなかった大量の血液が放出することになった。そして完全に実験生物と化した伊見島は粘液を振り撒きながら通気口をすり抜けて、人目の付かないところで元の自分の姿に戻り、現場に様子を見に現れた……ということが真相のようだった。

「って信じられるか? おかしいだろ。全身実験生物になるってどういうことだよ? SFか?」

 俺は加山にぶっちゃけた。

「でも見たでしょ、あの人ゼリーみたいになちゃったの。あの後すぐ戻ったけど」

「思い出させんなよ。超グロかったわ……」

「寝込みましたもんね、二日くらい」

「言うなよ。でもそっから俺外れたけど、結局あいつ何しに部屋に入ったの? 研究成果盗むためか?」

「いやいや、二人は研究対象が違うんですよ。パクっても意味ないです」

「じゃあ何だったんだよ」

「嫉妬です」

「嫉妬? 仕事の成果に?」

「そういうんじゃなくて。菱沼の家に女が入ってくるのを目撃して、気になって侵入してしまったんですって。家政婦ってオチですが」

「えーっと、それって……」

「二人、付き合ってたそうです」

「付き合ってた」

「はい」

 まあそういうこともあるか。しかしだ。

「つまり、最終的にこれは何?」

 加山は少し考えて、口を開いた。

「ホラーっちゃホラーなんですかね。でも結局菱沼は彼を許したそうですから、違うか」

「なるほど……つまりジャンル分けなんてクソってことだな」

「ですかね」

 そうして俺たちは、次の現場へと向かった。

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