ディオニューソス怒る

新巻へもん

そこはお酒を楽しむところ

 緊急事態宣言が解除された。元の日常が戻ってくるわけではないけれど、たまの息抜きにミキとデートをすることに後ろめたさを感じなくて済むようになる。画面ごしでは伝わらない温もり、匂い。すべてが愛おしい。俺は久しぶりにミキの成分を摂取する。


 電車に乗って1時間半。丘陵地のハイキングコースをゆっくりと散策した。昨夜雨が降ったせいか足元は少々悪いけれど、洗われたような新緑は美しく、木漏れ日がキラキラと輝いている。手をつないで歩くミキはパーカーにデニムパンツというシンプルなスタイルながら金色の光を浴びて輝いていた。


 お昼には持ち寄ったお弁当も美味しく食べる。おばさんの料理美味しいね、とミキには俺が単独で作ったのではないことはバレバレではあったけれども、楽しい1日を過ごしたはずだった。喉が渇いたねと、ターミナル駅で一旦降りて、駅近くのカジュアルなバーに入ったときもミキはご機嫌だったはずだ。


 それなのに、今ミキは少し怖い顔をしている。

「ヒロ。ちょっとお化粧直してくる。そしたら出よう」

 そう言って、パーカーのポケットからマスクを取り出して付けると、ミキは奥の方に歩いて行った。


 この店はその都度カウンターで料金を払って注文するキャッシュオンデリバリー方式なので会計は済んでいる。出ようと思えばいつでも出られるのだが、もうちょっと一緒に居たかった俺としては物足りなさを感じた。そして、何がミキの機嫌を損ねたのかも心配になる。


 記憶をたぐると、ミキの様子が変わったのは隣のテーブルでグラスが倒れたときだった。あっという声で俺が振り返ると斜め後ろのテーブルに通りがかった男がぶつかったようだ。テーブルの上の上にグラスが横倒しになって残っていたドリンクがこぼれ、店員が台布巾を持ってやってくる。


 ちょうどお手洗いに行こうとしていた女性に、テーブルに残っていた男性が声をかけていた。なかなかのイケメンだ。

「戻って来るまでにお替り貰っておくよ」

 ぶつかった男は頭を下げて財布を取り出して札を渡していた。


 そこまで見て取って、トラブルにならなくて良かったと顔を元に戻したら、ミキはまだそのテーブルの方を見ている。ミキのグラスの中身が減っていたので次は何を飲むか聞いても返事をしない。ミキの視線を追いかけるとテーブルにぶつかった男が仲間のところに戻っていくところだった。


 見た目で判断してはいけないが軽薄そうな一団で、確かにあまりミキが好きなタイプではない。ミキの視線はカップルの男の方に戻る。席を立ってカウンターの方に行き、飲み物を2つ注文していた。そして、あまり他人を見るのもどうかと思ってミキに向き直ったら怒っていたわけだ。


 俺はほろ酔いの頭で考える。彼女とデート中なのに視線をさまよわせたせいで、気が入っていないと機嫌を損ねたのだろうか? お手洗いに消えた女性をまじまじと見たつもりもない。大人しい感じの可愛らしい感じの小柄な子だったが、鼻の下を伸ばしたと思われたのだろうか?


 隣のテーブルの女性が先に戻って来る。彼氏と思われる男に両手を合わせた。男の方は不機嫌そうな態度になり、女に厳しめの言葉を投げつける。女は泣きそうな顔になったが、ごめんと言って店を飛び出した。そこへミキが戻って来る。まだ表情は硬いが先ほどよりは穏やかな顔になっていた。


 席につこうとしないので、俺は諦めてグラスの残りを飲み干すと席を立つ。ミキが俺の腕にぎゅっと抱きついてきた。少し指に込められた力が強い。店を出て駅に向かった。その間、ミキはスマートフォンを握りしめたままで、前方を見据えたままずんずんと歩く。


「なあ。ミキ。何か怒らせたなら謝るよ」

 ミキは表情を緩める。

「ああ。別にヒロに怒っているわけじゃないから」

「じゃあ、どうして急に帰ろうといいだしたのさ?」


「ちょっと待って」

 ミキはスマートフォンをタップしてスクロールする。そして、ふうっと息を吐いた。

「人通りのあるところじゃ話しにくいから後でね」


 電車に乗って最寄り駅までの間はいつものミキに戻っていた。先日みた難解なSF映画の自分なりの解釈をしゃべっている。マンションの入口で別れようとすると俺の袖を引いた。

「さっき私が態度を変えた理由気にならない? うちに寄ってってよ」


 20時前だがよその家を訪問するには遅い時間だ。そのことを告げるとミキは笑い出す。

「今さらそんな遠慮しなくったって。うちはヒロなら大丈夫だよ。父は出かけてるし」

 

 なんとか説得してマンションのロビーで勘弁してもらう。近くのコンビニで珈琲を買いソファに腰を下ろす。

「さっきのお店で飲んでいたカップルいたでしょ? ぶつかった男がいたじゃない。あれさ、カップルの男の方とグルなんだと思う」


「え? どういうこと?」

「私の方からは一部始終が見えたんだけど、変なアイコンタクトしてたんだよね。わざとぶつかってグラスを空にするのが目的だったんだと思う。そしたら、新しいお酒用意できるからね」


 俺は意味が分からず降参のしぐさをする。

「つまりさ。薬を盛って潰すつもりなの。介抱するふりをして、奥の3人組と一緒にどこかに連れ込むつもりだったんじゃないかな。お手洗いで、女の子に声をかけて、飼っているペットが具合が悪くなったとでも言って帰るように言ったんだ」


「……よくミキの言うことを信じたね」

「元々道をたずねられてその流れでってことだったみたい。とりあえず言ってみなよって。まともな男なら快くまたねと言うはずだよ、機嫌が悪くなってなじるようなら悪いけど私の予想が当たってるからって。まあ、変な女だとは思っただろうけど信じてくれて助かったよ」


「あの子は助かったけど、あいつらはまた悪さをするよな」

 ミキはにこっと笑う。

「まあ、次に同じことをやろうとしたときは年貢の納め時なんじゃないかな」

「どうして?」


「トモ兄覚えてる?」

「なんとなく」

「ちょうど今、こっちに帰って来て働いてるんだよね。旭日章が付いてる組織なんだけど。さっきスマホで連絡したら監視つけてくれるって」


「それって職権乱用ぽくないか?」

「だって女の敵だよ。悪いことしなければいいだけの話だし。まあ、私が今日気が付いたのもトモ兄から気を付けるように口を酸っぱくして言われてたからなんだよね」

「なるほど」


「だいたいさ。バーってお酒を楽しむところでしょ。いかがわしいことをするために利用するなんて怪しからんってトモ兄凄く怒っててさ。本人もお酒好きだからね。そうそう。今度ヒロとも飲みたいってさ」

 俺の目の前の探偵はさりげない爆弾発言と共に可愛く笑った。

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