第8話 戦士の目
対岸に渡り切った。
どうやって自分が対岸まで来たのか、思い出せなかった。
アステカ戦士も、散発的に数人が襲ってくるぐらいで、撤収を始めているようだった。
周りには二十名ほどのコルテス兵がいて、ナルバエス兵は一人もいない。
堤道の、中央・後衛部隊がいた場所はいまだにアステカ戦士が殺到して、どうやら殲滅から捕獲に切り替えたようだった。
周りの兵に、松明を集めてくること、集合のラッパを吹くことを命じた。
アステカ戦士も集まってくるかもしれないが、ともかく残存兵を集結させ追撃に対応する必要がある。
生きていても、地面に倒れこんだり、しゃがんでいる兵がほとんどだった。疲労がひどく、魂の半分を削り取られたようなほどの脱力感がある。
しかし、ここで休息を取るわけにはいかない。休息が、そのまま死につながる場所だ。
一人一人に声をかけ、強引に立ち上がらせた。
しゃがんでいる者は、なんとかコルテスの声を聞いて立ち上がった。倒れている兵で、ケガもないのに、立ち上がらない者が三名いた。心に負けて休息を優先している。気持ちは分かるが、もう二度と立ち上がれないだろうと、コルテスは見切りをつけた。
さして待たず百名ほどが、集結してきた。やはり、ナルバエス兵は一人もおらず、中央・後衛部隊の者もちらほらしかいない。
どうも、途中からアステカ軍の作戦が変更になった気がする。
ある瞬間から、中央・後衛部隊を一人残らず捕獲し始めたように思う。
元々、アステカ族にとって戦争とは捕虜を捕まえるものであって、人を殺すものではないのだとモクテスマ王は言っていた。
だとしたら、前半戦の何が何でもスペイン人を皆殺しにしようとしてきた戦いが、彼らにとっては異質なものだったのかもしれない。
戦闘が勝利に傾き、余裕が出来たことで通常のあるべき戦争方法に戻したのかもしれない。
真相は分からないが、攻撃が緩んだおかげで全滅を逃れたのは事実だ。
彼らの作戦が終始殲滅であれば、間違いなく全滅していただろう。
体の芯からの震えを抑え、近くの小高い丘に移動することにした。
どうやら、大きな糸杉が一本生えている。
そこで、小休憩を取ろうとコルテスは思った。
†
結局コルテス直属の部隊でさえ、百名に満たない生存だった。
トラスカラ国の勇士たちが、およそ百五十。その他の兵が五十。
松明と集合のラッパを吹いているので、もしかすると、あと五十ほどは生還するかもしれない。
合計で、約三百五十。
僥倖だった。
その上、馬が二十。大弓十二、小銃七。
新大陸には馬がおらず、アステカ人は馬と馬上からの攻撃を、ことのほか恐れるので馬が二十頭残ったのは大きい。
丘の上の糸杉に近づいていくと、三人の人影があった。
兵に緊張が走る。待ち伏せだとしたら、いよいよ逃げ切れそうにない。
「攻撃シナイ」
カタコトのスペイン語だった。
コルテスらが、テノチティトラン滞在した半年で、言葉の達者な者同士で教えあい、ある程度の通訳が出来る者がアステカにも、スペイン軍にもできていた。
人影は、若い医女トチトリィと将軍シグァコアツィン、それと通訳だった。
「攻撃ナイ。話スル」
通訳が、もう一度言った。
シグァコアツィンが、槍と黒曜石を無数に埋め込んだ棍棒を地面に置いた。
トチトリィは、素手で大きな麻袋だけ持っていて、それも地面に置いた。
「話スルカ? 殺スカ?」
頷いて、コルテスも武装を解いた。
トチトリィが、麻袋を持って来て置いた。
「
「なぜだ?」
とっさに言葉が出た。
通訳が何か言う前に、トチトリィが通訳に言った。
「王、針、ヨク切レル石、クレタ礼」
トチトリィを釈放する時、余った手術用の針やメスを持たせた。そのことらしい。
信じられず、毒でも入れてあるのではと勘繰りそうになって、慌てて否定した。
アステカ人は嘘をつかない。人を騙したりもしない。
トチトリィであれば、なおさらだ。
うつむいて、一瞬自分を恥じた。
「感謝する」
心を込めて返事した。
「二度トクルナ」
シグァコアツィンが言った。
見つめあった。
ずっと考え続けていたことがある。
今、トチトリィとシグァコアツィンの目を見て答えが出た。
「拒否する」
生きて帰って、母国で安穏と暮らす日々。想像しないわけではなかった。
想像する度に、それでいいのかと、自分を責める声が聞こえてくるのだ。
その声は、モクテスマ王の声にもなって、楽な道に逃げてはいけないと語りかけてくる。
「俺が来なくとも、スペイン国は次々と軍を派遣してくる。それも、どんどん強力な兵器を持った軍をだ」
どこまで通訳できているか分からなかった。それでも、真剣に目を見て話せばアステカ人は聞く耳を持ってくれる。
「そして、その指揮官は俺以上に残虐だ」
自分がアステカを征服し、スペインの皇帝陛下であるカルロス一世より総督として任命され、アステカを守る。
モクテスマ王より、託されたものを守るのだ。
道は、それしかない。
「俺が、アステカを征服する」
言葉に出来ない信念を両目に込めて、シグァコアツィンを見続けた。
「オ前、戦士ノ目、シテイル」
なんとなく、褒められたように感じた。
「オトゥバン谷デ、待ツ」
槍と棍棒を拾って、シグァコアツィンが去って行った。
オトゥバン谷は、テスココ湖を北岸周りでトラスカラに向かう時、必ず通らなければならない峡谷だった。
陸路では、五日はかかるがテノチティトランからは、カヌーを使えばたやすく先回りできる。
大軍勢を集結させるのは、間違いないだろう。
「オ前タチノ、神ノ呪イハ、私ガ解キ放ッテミセル」
トチトリィが言った。
天然痘とペストのことだろう。
スペイン人が持ち込んだ病禍は、今まさに猛烈な勢いで新大陸を汚染していっている。
こればかりは、科学が必要だ。いかなトチトリィとて無理だろう。
「幸運を祈る」
だがなぜか、そんな言葉が出ていた。
トチトリィと通訳も帰って行った。
雨。雨が降っている。
水には困らなさそうだ。一つ、いいことを見つけた。
水筒の口を開け、雨水を貯めていると満身創痍のディアスがやってきた。
「生きていたか。よくやった」
「大きな、糸杉ですね」
息も絶え絶えに、ディアスが言った。
その後は、いつまで待っても苦楽を共にしてきた、残りの兵が戻ってくることはなかった。
モクテスマ王の息子、二人の娘も死んだ。占い師のボテリョ、捕虜としたテスココ国の王も帰って来ない。財宝や捕虜の王侯貴族がいた中央部隊と後衛部隊は、ほぼ全滅したのである。
糸杉を背に、座り込みうつむくと涙が一つこぼれた。
†
この悲劇の夜は、メキシコの歴史で"
糸杉は、"悲しき夜の木"として、今でもメキシコ市内に残っている。
悲しき夜の撤退戦 ホルマリン漬け子 @formalindukeko
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