第7話 悲しき夜
夜更け。
宵闇と共に降り出した雨は、勢いを増していた。
全員の装備は、できるだけ軽装にさせた。
馬の口には
ランプも最小限にし、厳重に覆いを被せる。
アステカ人に見つからないように、騒音が出ないように最大限の留意をしたが、砲台があり、国王陛下への税を満載した台車もある。
もっとも、台車類にはアステカ人が嗜むスポーツで使うゴム球を再利用することで、低振動低騒音を実現できた。
出立前、広間に全員を集結させた。
窓と出入り口を徹底して目貼りをしてから、ランプを点ける。
「諸君、我々は、これよりアステカの首都テノチティトランより撤退を開始する!
前衛隊を私が指揮し、堤道の切れ目に橋を架けながら前進。後衛は、アルバラードが指揮し、何としてもアステカ人の追撃を阻止せよ」
税と大砲、アステカの貴族や捕虜は中央に集めた。ナルバエス兵は、中央周辺に配置させるしかない。
作戦というレベルのものではなかった。
これしかないのである。
あとは、覇気と勇気、生きて帰るという強い意志だけだ。
「命令は、たった一つ。生きてテノチティトランを脱出せよ」
全員がコルテスを見ている。
視線のすべてを受けとり、ゆっくりと前衛隊の先頭に立つ。愛馬にまたがった。目の前には、閉ざされた門がある。
ゆっくりと門を開けさせた。
雨。
前方には、墨を流したような暗闇のみがある。
†
できるだけ音が出ないように堤道に向かって、兵を進めた。雨が音と気配を消し、コルテスを味方している。
堤道の最初の切れ目まで、何事もなく来れた。架橋を、すぐさま開始する。暗闇の中での作業は困難だったが、順調に進んでいく。
アステカ人も、ナルバエスのように雨に辟易し、このまま秘密裏に撤退できるのではないかと、コルテスの心に淡い希望が芽生えた時、ラッパが吹き鳴らされた。
ラッパは次々に、至る所で吹かれ音は波となって広がり出した。
アステカ人に見つかった。
市内に松明の明かりが灯り始めるのと、一つめの橋が架かるのが同時だった。
全力で急がせた。もう隠密は必要ない。
町中で、太鼓が打たれ出した。ドン、ドンと規則的な音がだんだん大きくなっていく。
振動は地面の底から響き、松明で浮かび上がる湖面を揺らす。
二番目の切れ目に、前衛隊がたどり着き作業を開始した。
ナルバエス兵と中央の大砲部隊が、やはり遅れがちになっている。
すさまじい勢いで松明が次々と灯され、テノチティトランの白亜の町並みが、雨のテスココ湖に浮かび上がっていく。それは、ひどく虚ろで幻想的だった。
呪歌。
太鼓とラッパ、歓声に合わせて戦いの歌が聞こえてきた。
莫大な音量は、コルテスの周辺からあらゆる音を消し去り、まるで無音の結界に閉じ込められたようになった。
兵を鼓舞しようとして、何を叫んでも声が口から外に出ていかない。
ナルバエス兵から、発狂する者が出始めた。鎧を着たまま湖に飛び込んだり、裸になって王宮に戻っていく。
どうしようもなかった。
そうこうするうちに、カヌー船団が堤道を左右から囲み出した。多くが、油を染み込ませた松明を掲げ、無数の戦士を乗せている。
滅びが形を持って、コルテスに迫り来ていた。
雨は変わらず降り続いている。
†
後衛部隊と、アステカ人の戦士と激しい戦闘が始まった。
大砲や銃での反撃も、圧倒的物量の前に無力だった。
なにより、投げ槍が脅威になっている。
夜でも、カヌーの上からでも正確に撃ち抜いてくるのだ。
直接、接近戦をしていない箇所には雨と同じ数の矢が降ってくる。
前衛隊が三つ目の切れ目の修復にかかった時、中央以降の部隊との間がだいぶ開いてしまっていた。
それをアステカ戦士は見逃さず、二つ目の切れ目に架けた橋を落とした。
つまり、前衛隊と中央および後衛が分離させられる形になった。
コルテスは、前衛隊に架橋作業を続行させながら、自分は落とされた橋の復旧に二十名を連れて戻った。
投げ槍。
ズバン、と音を立ててコルテスの隣にいた兵の首に突き刺さった。二投目。それは、コルテスを運よく逸れた。
肌が総毛立ち、一度全身が冷えてからカッと熱くなった。
落とされた橋まで戻ってきた。だが、復旧させる材料はもうなく、アステカ戦士を斬り殺しては切れ目に投げ込んだ。死体で、埋め立てるより他ない。
特に、中央部隊にアステカ戦士が群がり出した。カヌーを使って湖からも、次々に接岸して来ている。
後衛部隊は、密集したアステカ戦士に囲まれもう姿さえ見えない。
コルテスの周辺も、アステカ戦士に囲まれつつあった。やはり、圧倒的物量の前に、なすすべがない。
全滅するか、中央・後衛部隊を見捨てるか。ひどい状況だったが、迷う時間もない。
「転進!」
中央・後衛を見捨て、前衛隊に戻る決断をした。
四つ目の切れ目。
前衛隊に戻ると、もう架橋の材料は使い切っていた。
敵味方かかわらず、死体を放り込むしかなかった。自分の体が濡れているのが、雨なのか返り血なのか、もはや分からない。
矢が左肩に、いつの間にか刺さっていた。
痛みはない。
抜く一瞬の間がなかった。
もう、部隊という様相ではなくなっている。作戦もない。ただ前へ。一歩でも前へ。
突如、横から激しい衝撃があって、馬ごと湖に落ちた。槍が馬を貫通している。
夜の湖は、黒い液体のようで無数の松明を反射していた。服と靴、胸当てだけの鎧が重い。
切れ目を、そのままなんとか泳いで渡った。
水に濡れた体が、驚くほど動きにくい。
呪歌が、いっそう大きく勇壮なものになった。太鼓の音も連打されている。
雄叫びをあげた。
なんとしても、生き残る。
歯が砕けるほど食いしばった。
「
夢中で叫んだ。
声が出ているのかさえ分からない。ただひたすらに前へ。
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