涙一筋
棗颯介
涙一筋
まだ小学校にも上がっていなかった頃に何度か行ったことのある祖母の実家。今年で三十二になる私にとっては当然遠い過去でしかなくて、であるからこそ一週間前、二十数年ぶりにこの家に訪れた時、私は懐かしいとかそういう感慨は何も抱かなかった。ただなんというか、この田舎独特の空気感というか雰囲気みたいなものは、記憶になくても肌が覚えているような気がする。
都心のIT企業にエンジニアとして勤めている私からすると、この田舎は同じ国とは思えないレベルで時代に取り残されているかのように寂れ切っていて軽いカルチャーショックを受けた。人通りも少ない上に路傍には信号機の一つもない。祖母の家にも通信環境と呼べるものは時代錯誤な黒電話くらいで、インターネットの回線すらろくに通っていない始末だ。会社から貸与されているポケットWi-Fiがなかったらこの夏ここで一ヵ月を過ごすことなんて絶対にできなかったと思う。
今日は日曜日。一昨日までは慣れない田舎での生活や在宅でのリモートワークに忙殺されてろくに手が付けられていなかったが、昨日からようやく本命の遺品整理に取り掛かることができていた。家の中にあるものは元々必要最低限の家具くらいしかなかったから二、三日もあればどうにかなりそうだが、問題は離れにある、この大きな蔵だった。
「……おばあちゃん、いくら何でも溜め込みすぎ」
おばあちゃんとはあまり付き合いがなかったからどういう人となりかはちょっと分からないが、少なくとも私生活においては結構ルーズな人だったんだとこの蔵を見て確信した。
蔵というかここまでくるとゴミ捨て場に近い。よく分からない古い書籍の類や陶器、見るからに年季の入った使えそうにない家具など、ありとあらゆる品々がここに放り込まれていた。おそらく、日常の生活範囲である家の中を綺麗に保つために、普段使わない類のものは全部まとめてここに置いていたんだろう。
小さな窓が一つついているだけの古びた蔵の中は当然薄暗い上に埃っぽい。鼠や害虫の巣なんかも一つや二つではなさそうだった。これを私一人で整理して処分しろとなんて、父さんは私に恨みでもあるんだろうか。職業柄働く場所をあまり選ばない私に白羽の矢が立ったのはまぁ分かるが。
「とりあえず、中にあるもの一回全部出して天日干しした方がいいかな」
そう思って薄暗い魔窟に足を踏み入れようとしたとき、背後から私の名を呼ぶ声があった。
「
「あら
「はい、夏休みなので暇ですし」
声の主は、この家の近所に住んでいる来夢という高校生の少女だった。詳しくは知らないが生前のおばあちゃんと仲良くしていたらしく、私がこの町に来てから遺品整理を手伝ってくれている。土地勘があって町の方々に顔が効くこの子が手伝ってくれるのは正直言って有難かった。
「この蔵、お一人で片づけるのは大変ですよね?」
「うん、そうね。蔵に入って出る頃には全身真っ黒になってそう。防護服があればお金を払ってでも着ていきたいよ」
「あはは、防護服はないですけど軍手と雑巾とマスクくらいは用意がありますよ。どうぞ」
「あぁ、そういえばマスクつけるの忘れちゃってた。ありがとうね」
そして私達は蔵の中に飛び込んだ。無造作に置かれている家具や食器を二人で協力して夏の日差しの下に引きずり出し、どこからともなく現れた黒いアレに殺虫剤をまき散らし、生前のおばあちゃんの写真を見つけては来夢ちゃんと二人で与太話に興じていると、気付けばあっという間に一日が終わりを迎えようとしていた。
家の周りにある田んぼから蛙の鳴き声が聞こえる頃。蔵の中にあったモノは三分の一程度しか整理することができていなかった。天気予報ではしばらく雨は降らないらしいからこのまま外に出しておいても大丈夫だろうが、このペースだと先が思いやられる。
まぁ、まだ時間はあるしのんびりやればいいか。とはいえここまで全身汚れていると、都会に住んでいたころの悠々自適な生活が恋しくなる。
「来夢ちゃん、今日はこの辺にしておこう?もう夕方だし、続きはまた明日」
「渚さん、明日月曜日ですけどお仕事は?」
「明日から夏休み。今度の土日も入れて七連休だから、焦ってやらなくても大丈夫だよ。来夢ちゃんも煤まみれじゃない。帰ってお風呂入った方がいいよ」
「分かりました、じゃあここにある分だけ外に出したら———って、きゃあ!?」
来夢ちゃんが小さく悲鳴を上げた直後、積みあがっていた物が盛大に崩れ落ちる大きな音が蔵の外まで響いた。
「ら、来夢ちゃん、大丈夫!?」
「あはは……、なんとか」
慌てて蔵の中に戻ったが、来夢ちゃんは間一髪のところでゴミの雪崩を逃れていたらしい。
「すみません、やっと少し綺麗になってきたのにまた散らかしちゃって」
「ううん、来夢ちゃんに怪我がなくて良かったよ。私も一緒に持つから、それ外に出したら今日は———」
今日は上がろう。そう言おうとしたとき、蔵の奥から聞き慣れない声が耳に届いた。
『———さん、か――た———いよ———』
「え、渚さん何か言いました?」
「ううん。来夢ちゃんも聞こえた?」
「はい、何か後ろから———きゃあ!?」
「なに———、うわ!?」
彼女の二度目の悲鳴に振り返ると、そこには蔵の瓦礫の上に鎮座する、一人の少女の姿があった。鎮座と形容するにはあまりにもその少女は力なく、目を伏せ両腕両足を投げ出してかろうじてゴミ山の上に腰かけているような状態だった。その姿はさながら布でできた人形のようだった。
『———か――さん、ど、こ———』
少女はか細い声で何かを口走っている。その言葉が何を示しているかよりも先に、私はその少女の正体に一つ思い至ることがあった。
「もしかしてこれ、
「え、アンドロイドってあれですか、精巧な人の姿をしたロボットでしたっけ?都会のデパートとかによくいる」
「うんそう。あっちじゃ名の知れてる大きなお店だとアンドロイドが店員さん担当してたりするからあまり珍しくないけど、こんな小さな田舎にもアンドロイドがいたんだね」
いたというか、目の前にいるこの少女の姿をしたアンドロイドは見るからに古いから、耐久年数もとっくにオーバーしているはずだ。おそらく今出回っているものと比べればスペックも段違いに低い初期型のものだろう。アンドロイドは昨今では一般人でも入手することは不可能ではなくなってきているからおばあちゃんが持っていても別に不思議ではないが、やっぱり意外だ。インターネット環境もろくに整備されていない家で、アンドロイドなんて。
「というかこれ、まだ動いてますよね?声、してますし」
「そうだね、一旦これも外に出しとこうか。暗がりから声が聞こえるのも怖いし」
「分かりました」
そして二人で恐る恐る少女のアンドロイドを蔵の外に引っ張り出して、その全身を改めて確認する。ところどころ皮膚の外装が剥がれて中の金属部分が露わになっていたり着用していた衣服に汚れや染みがあったりするが、それを除けば私達人間と遜色ない姿をしている。そのあたりは旧型とはいえ流石アンドロイドといったところだろう。
型番か何かが残っていないかと見ていると、背中の腰付近に刺青のような文字が印字されていた。
【replica NE-009】
ズボンのポケットに入っていたスマートフォンでその型番を検索してみると、【レプリカ社】という社名がヒットした。確認してみると、どうやらアンドロイドが普及し始めた黎明期に存在していたメーカーらしい。今はもう別の会社に吸収合併される形で世間的には姿を消しているが。
ということでやはり、この少女は古いアンドロイドということで間違いない。
『おか———ん、ど———』
アンドロイドは先程からしきりに何かを呟いているが、音声出力の部分が壊れているのか、音が途切れ途切れで何を言っているのかまともに聞き取れない。
「どうしよっかなこれ。別に外に置いておいてもこの町で盗みをやるような人はいないと思うけど、でも夜に近所を通った人が怖がるよね」
「でも渚さん、家の中にこれ置いておいたら夜眠れます?」
「……自信ないかも」
なまじ見た目が人間そっくりな分、機械的な声を発するこのアンドロイドを食卓や寝室に置いておくのは控えめに言って気味が悪い。
「何か電源ボタンみたいなのないんですか?」
「うーん、見当たらないんだよね。多分さっき蔵の中でいろんなものが崩れた時、何かの拍子にスイッチが入っちゃったんだろうけど。というか、バッテリーみたいなものがもしあるとしたらとっくに尽きててもおかしくないくらい古いんだけどなぁ、これ」
「まぁ、ひとまずはこのままこの庭に置いておきましょうよ。多分この町で夜に外で歩くような人なんて祭りの日でもなければいないでしょうし」
「うん、そうするよ。ありがとうね来夢ちゃん」
結局私達はアンドロイドを蔵の外に出したまま、今日の作業を終えてそれぞれの家に戻った。
父からの電話があったのは私が簡単な夕食を済ませて少し経った頃だった。
「渚、片づけは順調か?」
「まだ来たばっかりだから何とも言えないけど、思ってたより時間かかりそう。いや家の中自体はさほど問題ないんだけど離れにある蔵の方がね」
「そうか、父さん明日から夏休みだから、明日にはそっちに行けると思う」
「え、父さんこっち来るの?」
「娘一人に家の片づけ押し付けるほど残酷な親父だと思ってたか?」
「いや、まぁ手伝ってくれるのはありがたいけど」
「父さんの夏休みは次の日曜までの七日間だから、その間に力仕事とか俺にできることは手伝うよ。それじゃ明日な」
「分かった、じゃあまたね」
電話を切り、ふぅと大きく息をつく。
「……そうか、父さんこっちに来るんだ」
てっきり、来たくないものだとばかり思っていた。忘れたい思い出の一つや二つ、染みついていてもおかしくないのに。
翌日、軽くシャワーを浴びて寝汗を落とした私は昨日と同じように離れの蔵の前に来た。昨晩蔵の前に置いていった一部の所蔵品は、日差しを浴びて多少は殺菌された、ような気がする。正直一日外の日差しと空気を浴びた程度では違いが分からないくらい状態の悪いものが多かった。
そして、それらと並んで地面に倒れ伏しているアンドロイドも、昨日となんら変わらない姿でそこにいた。
『——————』
相変わらず何か電子音のようなものが口から漏れているが、何を言っているのかほとんど聞き取れない。
「にしてもこれ、どうしようかなぁ」
そう呟きながら何気なくアンドロイドの身体を持ち上げて地面に座らせたとき、家の塀の向こうから声がかけられた。
「あんら、
「え?」
声のした方を向くと、そこには安っぽい野球帽を被ったお年寄りの男性がいた。首から下は塀に隠れて見えないが、おそらくご近所さんだろう。
その老人の素性云々よりも、今この人が言った名前が引っかかった。
「いや、よく見たら作りものなのかい?おったまげた」
「あの、美汐って、もしかしてこの家に昔住んでいた
「あぁ、あんた確か先週から天崎さんちの片づけに来てるっていう、渚さんかい?」
「はい、美汐の娘の渚です」
「おぉ、そうか。言われてみれば確かに美汐ちゃんによう似とる」
天崎美汐。それは、私が小学校に上がる前に交通事故で死んだという母の名前だった。この家の家主だったおばあちゃんの一人娘。私が知っているお母さんは大人の姿だったからすぐに気付けなかったけど、言われてみれば目の前のアンドロイドには母さんの面影がある。
でも、どうして?
その時、塀の向こうにいた老人の声が聞こえた。もう一人、聞き慣れた声と一緒に。
「おぉ来夢。今日も渚さんの手伝いか?」
「あ、おじいちゃん。さっきおばあちゃんが探してたよ。また畑仕事サボって」
「ったぁ、仕方ない。じゃあそろそろばあさんとこに戻るとすっか」
そんな会話が聞こえた十数秒後、いつものように来夢ちゃんが私の前にやってきた。
「渚さーん、おはようございます」
「……来夢ちゃん」
「はい?」
「おばあちゃんが生きてた頃、このアンドロイドのこと何か言ってた?」
「え?あぁ、すみません、私は何も……」
「そう……」
▼▼▼
(フリー百科事典より抜粋)
株式会社レプリカはかつて存在したアンドロイド製造メーカー。××××年に同業の○○社と合併している。同社で生産されたアンドロイドは通称“レプリカシリーズ”と呼ばれ、その人間と遜色ない外見と身体能力は現在のアンドロイド分野の基盤を作ったとも言われている。
…
(以下略)
…
××××年にこれまでのレプリカシリーズの集大成となる【replica NE-009】を販売。過去に生産したレプリカシリーズの欠点を克服したこのアンドロイドは同業界各所から高い評価を受けるもその優秀すぎる表現技術が仇となり、実在する人物または過去に実在した人物そっくりの外見を要望して購入するユーザーが続出。希望に応じて外見をカスタマイズし購買者に提供するという販売手法が倫理的に問題があるとクレームが殺到し、僅か半年で生産が終了した。生産終了後その年のうちに会社は吸収合併されており、事実上これが同社が最後に生産したアンドロイドとなった。
▲▲▲
「………」
「………」
子供時代の母そっくりの姿をしたアンドロイドを家の居間に寝かせて、午後にこちらに到着した父さんと私は無言で彼女を見つめていた。
ネットでいろいろ調べてみた限り、どうやら昔おばあちゃんがこのアンドロイドを購入したということで間違いはなさそうだ。どういう理由で買ったのかは分からないけれど、わざわざ昔の母さんの顔そっくりにして。
「……まさか、義母さんがこんなものを持ってたとはな」
ようやく口を開いた父さんのその表情からは、今の感情を読み取ることができなかった。ただ、私以上に複雑な心境だということはなんとなく分かる。それはそうだろう、死んだ奥さんが昔の姿で目の前にいるんだから。偽物ではあるけど。
「でも、もうずっと蔵の奥にしまってあったみたいだから、あんまり使ってなかったのかもね。来夢ちゃんにいろいろ近所の人に聞いてもらったけど、おばあちゃんが母さんそっくりのアンドロイド買ってたなんて誰も知らなかったらしいし」
「むしろ、傍に置いておくことの方がかえって辛かったのかもな。見た目がそっくりな分、目の前にいるアンドロイドが自分の娘じゃないってことを誰よりも実感してしまうのはきっと自分だったんだろう」
『—あ——さ—————ど————』
目の前にいる母そっくりのアンドロイドは数分おきに言葉にならない何かを呟き続ける。私はもうあまり覚えていないが、もしかしたらこの声も本物の母さんそっくりなのかもしれない。
「渚、このアンドロイド、修理することは?」
「私も一応エンジニアではあるけど私の仕事ってソフトがメインでハードは専門外だしなぁ。調べた限り作ったメーカーはもう潰れちゃってるし保証期間もとっくに過ぎてるでしょこれ」
『お——か――————ど———』
「さっきから何を言ってるんだ?」
「分かんないけど、多分、何度も同じこと言ってる気がする」
『おかあ———こ———』
「おかあ?」
『おか———あ、さん——ど、こ……?』
ノイズまみれのその言葉を聴きとれたのは偶然だったのかもしれない。でも私と父さんは確かに、母親を求める少女の声を聞いた。
「……っ」
私は、見ていられなくなった。
私は生きていた頃の母さんのことをあまり覚えていないし、おばあちゃんのことだってほとんど記憶にない。目の前にいるのは見た目はよく似ていても結局は機械でできた偽物で、心も知性もないただの人形でしかないのに。
なのにどうして、こんなにも、心を締め付けられるのだろう。
「……その会社がつぶれた理由、なんとなく分かる気がするな」
父さんはそう言って、アンドロイドにそっと毛布を被せた。きっと父さんも見ていられなかったのだろう。
「今日のところはもう休もう。ひとまずこれのことは置いておいて、他のものから片づけていこうか」
「……うん、そうだね」
その日の夜、私は夢を見た。
***
「うっ……うぅぅ………」
うっすらと光が差し込む暗闇の中。ここは昔住んでいた家の二階の押し入れだ。なんとなく分かる。夢なんてそんなもの。
私はずっと、暗闇の中で一人膝を抱えて泣いている。泣いているところを誰かに見られるのが嫌で、私はいつも決まってこの押し入れに籠もって静かに泣くようになっていた。
「お母さん……どうして死んじゃったの………?」
お父さんは幼いうちに母親を亡くした娘の心を慮ってか、仕事で忙しい時間の合間を縫ってできる限り私のために時間を割いてくれている。その気持ちは嬉しい。でも、本当はお父さんだって私と同じかそれ以上に悲しいはずなんだ。それなのに精一杯無理をして私に笑顔を見せてくれているお父さんが、見ていて辛かったし申し訳なくて。
お母さんが生きていた頃は、毎日が楽しかったのに。何も悲しいことなんてなかったのに。初めて幼稚園の送迎バスに乗ったときだって私は泣かなかった。だからきっと、私が涙を流すのは物心ついていない赤ん坊の頃以来かもしれない。
悲しい。家族がいなくなるって、こんなに悲しいんだ。
これが、悲しいっていう気持ちなんだ。
たった一人、家族がいなくなるだけなのに。私にはまだお父さんもお爺ちゃんもお祖母ちゃんもいるのに。
「でも、お母さんがいない……」
そう自分で言葉にしてみて、後悔した。殊更にその事実を実感させられた。
私は、暗闇の中でただただ泣き続けた。
***
「……なんか、嫌な夢見たなぁ」
翌朝、低血圧で寝起きは気分が悪い私は、いつも以上に憂鬱だった。
別室で既に着替えを済ませていた父さんに一言朝の挨拶を交わし、冷たい水で顔を洗って身支度を済ませ、二人で簡単な朝食を済ませると、私達は蔵の整理に赴く。始めて三十分もする頃には来夢ちゃんも来てくれて、三人で作業を進めた。来夢ちゃんは例のアンドロイドのことを知ってか、いつもよりは口数が少ないというか、私達に気を遣っている雰囲気が感じ取れる。こんな子供に気を遣わせちゃって、なんだか申し訳ない気持ちにさせられた。
三人で黙々と蔵の中のものを外に引っ張り出し、分別し、処分する作業の中、私の頭の中ではひっきりなしにあのアンドロイドが昨日口走っていた言葉が繰り返し繰り返し反芻していた。
あの子は、この暗くて狭い蔵にずっと閉じ込められて、どんな気分だったんだろう。ただ、おばあちゃんに求められてこの家に来ただけなのに。設計された通りに、おばあちゃんを家族として求めていただけなのに。
そんなことを延々考えているうちに気付けば父さんがこっちに来てから五日が過ぎ、蔵と家の中の遺品整理は大部分が片付いていた。
五日目、つまり金曜日の夜。
居間でぼんやりとテレビを観ていると、先にお風呂から上がった父さんが寝間着姿で現れた。その手にはどこで買ってきたのか、好物の缶ビールが握られている。
「風呂あがったぞ」
「んー」
「渚、台所に置いてあった冷蔵庫とか洗濯機の処分はどうするんだっけ?」
「来夢ちゃんが町内の人に頼んで来週のうちに廃棄場までトラックで運んでくれるって言ってたから、客間の方に置いてあるよ」
「そうか、あの子がいてくれて本当に助かるな」
「うん、そうだね」
そう言いながら私は居間の隅で静かに目を伏せているアンドロイドに視線を移す。あの日以来、めっきり言葉らしい言葉を発さなくなってしまっていた。いよいよ壊れてしまったのか、それとも何か彼女に意図があるのかは不明だが、おそらく前者の可能性が高いと私は踏んでいる。
父さんが言った。
「それで、この子の方は……」
「一応、アンドロイドの処分について調べてみたけど、他の電化製品と違って専門の業者で引き取ってもらわないといけないんだって」
「もう、手配はしたか?」
「調べはした。まだお願いはしてないけど」
「そうか……」
父さんは座布団に腰を下ろすと、持っていた缶ビールの蓋を開けた。プシュッという小気味よい音が響く。
そのまま何口か飲むと、徐に父さんが語り始めた。
「父さんな、その子見てると、若い頃の母さんのこと思い出すんだ」
「まぁ、そうだろうね」
「変な気分だ。目の前にいるのはアンドロイドで、本当のあいつじゃないってことは頭で分かってるのに。なのに、心のどこかでまた母さんと会えて嬉しいと思ってる自分もいて」
「それは仕方ないよ。だって父さんが……死ぬまで一緒にいたいと思った相手なんだから」
私は独身だから結婚とかそういうのはあんまり分からないけど、多分そういうものだと思う。
「渚はどうだ?」
「私は別に———」
大丈夫。条件反射のようにそう言おうとした。本当は違うのに。
思えば私はいつから、死んだ母さんのことを頭の片隅に留める程度の存在に貶めてしまったんだろう。ずっと昔、母さんが死んですぐの頃は毎日が辛くて辛くて仕方なかったはずなのに。
子供の頃の私はどうやって、母さんの死を乗り越えたんだろう?
時間が解決してくれた?それとも父さんが私を支えてくれたから?
違う。私はきっと、自分で自分を騙していたんだ。少なくとも人前では。母さんは死んだけど私は大丈夫だと、父さんや学校の先生や友達に安心してほしくて。
本当は大丈夫なわけなかったはずなのに。
「———私は、切ないかな」
「……?」
「目の前に、死んだはずの母さんがいるのに。子供の頃言えなかったことややりたかったこと、あったはずなのに。でも、目の前にいるのは本物の母さんじゃなくて。それに———」
私はもう。
「———もう、私子供じゃなくなっちゃったから」
今年で三十二歳だよと、私は父さんに笑いかけた。
もし本当に死んだ母さんが戻ってきてくれたならそれ自体はとても喜ばしいし、涙を流して喜ぶと思う。でも、私はもう大人だ。親の庇護が必要な子供じゃない。言葉を選ばず言うなら、親がいなくなったとしても一人で充分生きていける歳になってしまったんだ。
「……そうか」
「でも、さ。だからかもしれないけど」
「ん?」
「この子———お母さんの顔見てると、泣きたくなってくるんだ」
親に見捨てられたこの子に、幼い頃母に先立たれた自分を重ねているのかもしれない。あるいは外見通りに、死んだ母をこの子に重ねているのかもしれない。
この子が哀れで、でも母さんと呼びたい自分もいて。子供のようで、親のようで。
「やっぱり、父さんみたいに未練みたいなものがあると思うよ」
「……」
暫しの間、静寂がその場を支配した。
「———ちゃんと、ケジメをつけないとな」
「え?」
「渚の言った通りだ。俺も渚も、もういい歳だ。死んだ人が帰ってくるなんて、信じる歳でもないだろう。それに義母さんがやったこととはいえ、最後まで責任を持ってやるのが身内の筋だ」
「……うん、そうだよね」
「渚、回収業者さん、明後日までに呼べるか?」
「日曜だけど、確か大丈夫だったと思うよ」
「そうか。じゃあ、頼めるか?」
「———分かった」
私はその日の夜のうちにネットで回収業者に依頼を頼んだ。幸い、父さんがこっちに居られる日曜の日中には回収に来れるとのことだった。
そして、日曜日。指定した通りの時間に業者がやってきた。
「どうも、アンドロイドの回収に参りました」
「お待ちしてました。渚、玄関まで持ってきてもらえるか?」
「分かった。すみません、今お持ちしますね」
私は居間で眠るように壁に背を預けているアンドロイドを背中に担ぎ、そのまま業者が家の外に停車しているトラックの荷台に運んだ。
「どうも、ありがとうございます。最後にこちらの書類に目を通していただいて、サインお願いできますか」
「分かりました」
そういって回収業者と父さんは玄関に戻り、書類とやらの受け渡しをしていた。その間手持ち無沙汰になった私は、特にやることもなくてぼんやりと荷台に乗せられたアンドロイドを見つめていた。
「……母さん」
初めて、このアンドロイドのことを“母さん”と呼んだ。返事は、返ってこない。やっぱりもう壊れてしまっているんだろう。
「寂しい思いさせてごめんね。おばあちゃんは、もういないの。でも、きっと
やはり、返事は返ってこない。
「母さん、私、もう大丈夫だから。だから、ありがとう」
最後の言葉は、ほとんど消えかかっていると思えるほどか細いものだった。
業者の「はい、ありがとうございます」という声がすると、玄関から二人が出てきた。父さんは、どこか悲痛な面持ちで荷台に積まれた“母さん”を見つめている。
業者はそのままトラックの座席に戻り、エンジンをかけた。邪魔にならないように私は荷台から離れる。
そしてトラックが動き出した刹那。私は確かに、幼い母がゆっくりと目を開けるさまを見た。次いで、その口が確かに告げていた。その声は以前のようにノイズまみれだったのか、それともトラックのエンジン音にかき消されてしまっていたのか聞き取れなかったけれど、私は“母さん”が何を言ったのか理解できた。
『ありがとう』
彼女が何と言ったのか気付いた時には、トラックは既に走り去った後だった。
私の頬に一筋の涙が伝った。涙は一筋だけで、それ以上溢れることはなかったけれど、でもそれだけでも奇跡みたいなものかもしれない。もう母さんと死に別れて二十年以上経つけど、まだちゃんと涙を流せたんだから。
いや、二度も別れることになったのに今度は涙一筋しか溢さなかったってことは、むしろ大人になったっていうことなのかな。
「渚……」
私の様子を見て、父さんが心配そうな表情を浮かべる。私は涙を拭って、笑顔を見せた。
「ごめん、大丈夫だよ父さん」
そう、私はもう大丈夫。本当に、もう大丈夫なんだ。
涙一筋 棗颯介 @rainaon
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