5.でも今は
バス停の近くにあるスーパーでお惣菜を買って家に帰る。雪がとけてまた凍った道を、すべらないように踏みしめて歩いた。乾燥した空気は冷たくて、目に沁みる。かじかんだ手で鍵を開けて、ストーブをつけた。お湯を沸かしてあったかいお茶を一口、二口、ため息。
大事にしてもらったんだ。良かったですね。親子のキズナってヤツですか。良かったですね。そうですか。それを私に言える無神経さがスゴイですよ。愛されて育つとそうなるのかな? 私が、『父に大事にされて育ったんです』って言ったらどんな顔する? まあ、そんな父どころか母もいないんですけどね、私には。
涙が勝手に流れ出て、目に痛みが走る。手に持ったマグカップを壁に叩きつけたい。頭が沸騰するような衝動を押さえて、机の上にコップを置いた。歯を食いしばって歯を食いしばって、歯茎が痛い。
彼女の髪を握り締めて頭を床に叩きつけたい。襟首を引っ掴んでメチャクチャに揺さぶりたい。『大事にされた』と話した口を拳で殴りつけたい。
そんなことしたって意味無いってわかるけど、意味無いって知ってるけど、スッキリもしないし、胸糞悪いだけだって思うけど、じゃあ、私のこの気持ちはどうしたらいい? どうしたらいいの?
涙を拭いて、鼻をかんで、目が腫れて鼻が詰まって頭痛がして、鎮痛剤を飲んだ。睡眠導入剤を買っておけば良かった。今日が土曜で良かった。音楽をかけて目に保冷剤をのせる。バンドのヴォーカルが私の代わりに叫んでくれた。
時間は私に関係なく過ぎていく。何日か後、彼女から電話があった。
「いつ頃、会いにこれますか?」
暗い淵の底にいる私は答える。
「……桜の咲くころに」
「もっと早くこれませんか?」
「ちょっと……」
「そう、ですか。伝えておきますので、なるべく早くきてください」
覚えてる? 私は忘れたことなかったよ。あなたのせいで、春は辛いです。
少しずつ暖かくなって、雪がとけて、つぼみが膨らんだ。やり過ごせていた憂鬱は、やけにリアルになって私を蝕む。気持ちも体も重くて、仕事に行くのがやっとだった。毎日落ち着かず過ごし、桜を見ないように俯いて歩いた。
つぼみがひらいて花が咲く。
ぐちゃぐちゃになればいいのに。木を根こそぎ切り倒して燃やしてしまえたらいいのに。
花が散り終わる頃、彼女から電話があった。
「まだ来れませんか? 最近すごく弱ってて」
「行きません」
「え? なんでですか? 来るって」
「あれは行かないということです。さよなら」
「え、――」
通話を切って、電源を落とした。
あれはね、来ないっていう意味。捨てられるってこと。嘘だけの約束。
私は私に呪いをかけたんだろうか?
桜が青葉で満開になったら、お葬式の通知がきた。現実味のない文字を読んで、返事はしなかった。
私がお客になって、その場所へ行くの? そして、家族のあなたに挨拶するの? 家族に囲まれたあの人を、私が遠くから眺めてればいいの?
涙は出なかった。胸が重いだけ。
しばらくして、相続分を渡すから会ってほしいと通知が来たけど、断って書類を郵送してもらった。色んな書類と一緒に彼女からの手紙も入ってた。
再婚相手は稼ぎが良かったらしくて、相続が結構あったこと。でもすぐに病気が発覚したこと。私を心配して財産を渡したがってたこと。彼女の父が横暴で苦労したこと、そんな父親から彼女をかばって大事に育てたことがご丁寧に色々と書いてあった。
学歴も血縁も人脈も才能もない私には結構な金額だったので、受け取った。形見は何もいらないと返事をして。
書類を返送した数日後に手紙が届いた。線の細い字で私の名前が書いてある。差出人は再婚した名字のあの人だった。きっと彼女が代わりに出したんだろう。大切にしてくれた母の思いをくみ取って行動する優しい娘。
手紙を机に置いたまま、ご飯を食べてネットをしてシャワーに入って眠る。ただの手紙がずっと私を見てる。私は手紙から意識をそらせない。
開けることはできなかった。なにが書いてる? 彼女の手紙に書いてあったようなこと? 謝罪? 言い訳? また私を呪うの?
手紙をつまんで使いかけのノートに挟み、本の隙間に入れた。
死んだからもう会えない。死ななくたって会えなかったかもしれない。でも、死ぬ前に連絡をもらったから、望めば会えた。私は後悔してる? 今はしてない。会いたいか会いたくないかもわからない。そのうち後悔するんだろうか。会ってたら? 会ったことを後悔しただろうか? わからない。会ってないし。
私は桜の花が咲くたび、会いに行かなかったことを思い出すんだろうか? きっと思い出す。やっぱり呪いだ。自分で呪いをかけちゃった。
自分のバカさ加減にウンザリして何も考えたくなくなり、動画サイトを開いた。どこか遠い場所、私じゃない誰か、あの人も彼女もいないどこかを眺める。綺麗な景色は、雨の降る曇り空の現実とかけ離れていて、作り物のように思えた。
でも、どこかにあるんだ。ここじゃないどこか。透明な海の水も、真っ赤な花も、強い日差しに照り返す緑の葉っぱも、ある、私の知らない場所。
もう疲れた。呪われたことも、自分で呪ったことも忘れてしまいたい。逃げ出したい。どこか遠くへ行きたい。
口座に振り込まれたお金を見て引っ越しを決めた。桜の咲かない場所に、春が来ない場所に行く。
荷物はほとんど処分したけれど、手紙を挟んだノートは手元に残った。私が死ぬまで読まないかもしれないし、読むかもしれない。捨てても後悔しないかもしれないし、するかもしれない。でも、今は捨てなかった。それだけ。
後悔なんて、そのときどう思ったかでしかない。わかりもしない先のことで、今、メチャクチャになりたくない。今はわからない、それだけ。
呪いもいつか忘れられるかもしれない。思い出さなければ薄れるかもしれない。でも今は、今は呪いの見えない場所に行く。
桜の咲かない場所に。
花が咲いて散ること、もしくは私にかけられた呪い 三葉さけ @zounoiru
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